2022年3月1日火曜日

弥生

曇り空で暗かったけど、今日から三月(弥生)。
嵯峨野トロッコ列車の運行が始まったそうです。

3月1日「嵯峨野トロッコ列車」の運行始まる〟(京都NHK)
こちらも始まったのだけど…
ロシアとウクライナの会談 交渉継続合意も停戦実現楽観できず」(NHK)

プーチン大統領の停戦条件はウクライナの非軍事化と中立化

まるで家康が慶長19(1614)年、大坂冬の陣(10 月~12 月)で堀を埋めさせた後、
翌、慶長20(1915)年に再び、大坂に攻め込み、5月7日に大坂城が落城(大坂夏の陣)。
翌8日、秀頼・淀殿が自害して、豊臣家が滅亡したことを思い出しました(「大阪城天守閣」より)。
ウクライナがのめるはずのない停戦案を出して、さらに攻め込もうとしている。

在日ウクライナ大使館のTwitter(2月28日)

天使がキーウ市の空を守ってくれる🙏💙💛

#StandWithUkraine

#StopRussianAggression
香山リカさんのTwitterに

今日病院で看護師さんたちと
「キエフで地下鉄駅に避難してる人やウクライナから国境越えて逃げる人は、
持病の薬やインシュリン、喘息の吸入薬など持ってるのだろうか」と話した。
人工透析や在宅酸素必要な人はどうなっているのだろう。
強者の戦いで犠牲になるのはいつも弱い人や病んでる人だ。


明日、通院日で、薬を処方してもらいますが、
薬を服用することで、このように歩くことができる。
命を永らえることができている。
先日、こころの時代~宗教・人生~「“ほんとう”を探して」で小野和子さんのことを知り、本を取り寄せました。

 はじめに (清水チナツ)

 2014年6月、一通の手紙とともに一冊の手製本を小野和子さんから手渡された。
ホチキスで綴じられたそれは、小野さんが民話を求めて歩き始めた三十代半ばから五十代にかけて記した「民話採訪ノート」から八話をまとめたものだった。
(『あいたくてききたくて旅にでる』小野和子 PUMPQUAKES 2019年)
 小野さんの手紙には
 「消えていく泡を掬うような気持ちで、『民話』の足もとで見え隠れしたものを記しました」
とあり、自身が八十歳になつたのを記念して、家族や近しい人に読んでもらえたらと四十冊だけつくったそうだ。
そのうちの一冊をいただいたことに、うれしさよりも、大事なものを受け取ってしまつたという高鳴りがあり、鞄に心臓をしまい込んだような気持ちで、家路を急いだ。
アパートの玄関からまっすぐにある台所の灯りをつけて、ページをめくった。
一気に読んだ。
その場に立ち尽くしてしまった。
 折に触れて感じてきた小野和子という一人の人間の知性と奥深さが、その人でしかありえない仕方で全うされ、立ち現れていた。
その言葉を浴びることは、わたしを含む世界が浄化されてゆくような経験だった。
 以来、わたしはこの本をことあるごとに開き、携えてきた。
と同時に、この本は、もっとたくさんの人たちに届けられるべきものだと思うようになった。
小野さんのわずか四十冊の手製本の姿は、とても潔くうつくしいものだったけれど、たくさんの人の手に渡っていけるようにしたいと願った。
 手紙はこう結ばれていた。
 「…登場していただいたみなさんは、残らず鬼籍にはいられています。今頃は、あの世で待っていてくださることでしょう。それでも、わたしは『まだまだこの世にはばかってやるぞ』という気持ちで、毎日を過ごしています」

 本を手渡された日から五年半も経ってしまったけれど、「本にしたい」というわたしの申し出に、「それならば」と、小野さんはさらに十話を寄せてくださった。
小野さんの旅の途次で記されたこの一冊が、これからどんな旅をするだろう。
雨の日も風の日も旅してゆけるよう、カバーを着せて丈夫にした。
 『あいたくて ききたくて 旅にでる』
 この本は、いまなお旅を続ける小野和子さんの歩みとともにある。
 この本を、みなさんのもとへ送り出したいと思う。
       2019年12月 清水チナツ
 あとがき (小野和子)

 山の村や海辺の町を歩いて、民話を求める旅を続けてきました。
五十年になります。
 なにか意図することがあったわけでもなく、ただ歩きたくて歩き、歩き出したら足が止まらなくなったというのが正直なところです。
 思えば、わたしの旅の根は、小学五年生で体験したあの「戦争」がありました。
生地は山襞に隠れるようにしてたたずむ小さな町でしたが、やがて来る空襲に備えて、町の中心部に家屋疎開の命令がくだり、取り壊しの期限が八月十五日だったのも皮肉です。
わが家も土蔵二つを残して、店舗と住まいを自らの手で取り壊し、その作業がほぼ終わったところで天皇の「放送」を聞いたのでした。

 幼い生活は一変し、登校した教室で、先生が黒板に「自治」という見慣れない文字を大きく書いて、
 「以後は、これでいくのです」
と言われ、大切に扱ってきた教科書に黒々と墨を塗りました。
真っ黒になって意味がつかめなくなったそれを読みました。
 わたしは目に見えない傷を負ったまま成長し、信ずべきものを無意識にいつも求めて生きていたのかもしれません。
初めて民話を語ってもらった時、その語りに滲む物語の世界の深みと、この土台文化を支えてきた底辺の暮らしの健気に心を奪われました。
 そして、出会った話を聞かせてもらうたびに、
 「ああ、知らなかった。知らなかった」
と、自身の無智蒙昧(むちもうまい)に気づかされるのです。
それがうれしくて、民話を語る人たちを追いかけまわす――そんな年月を重ねてしまいました。
 この一冊は、民話を乞うて歩いたわたしに施された尊い言葉からなっています。
そして、その言葉をたどたどしく記した文集に目をとめてくださった清水チナツさんとその友人たちの手によって生れました。
みんな三、四十代の若い表現者たちです。
わたしはそれがなによりうれしいです。

 ありがとう、みなさん。
 すべての人にお礼を申します。
       小野和子
(『あいたくてききたくて旅にでる』小野和子 PUMPQUAKES 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v

かはせみ【カワセミ】
…前略…
姿や色が美しいので〝かほとり〟〝かほよどり〟の一種とされる。
仲間に全身が赤褐色のアカショウビンや、白地に黒い斑文のあるヤマセミ等がある。
 カワセミは昔から知られている鳥で、奈良時代には〝そにとり〟〝そび〟と呼ばれていた。
「古事記」に大国主が后に詠んだ「鴗鳥(そにとり)の青き御衣(みけし)を」という歌があるが、「そにとりの」は「青」の枕詞になっている。
鎌倉時代になると〝そび〟から〝しょび〟(「字鏡集(じきょうしゅう)」)に変わり、室町時代には〝しょうび〟小微(「壒嚢鈔(あいのうしょう)」)と呼ばれるようになり、江戸時代には、〝しょうびん〟となった。
…後略…
(『図説 日本鳥名由来辞典』菅原 浩・柿澤 亮三編著 柏書房 1993年)