グー、パー、グー、パーしながら歩いていましたが
次第に日差しで体が温まりました(^^)v久しぶりにアオバトに会いました。
あを【青】〘名〙
①青色。白と黒との間の広い範囲の色で、おもに青・緑・藍をさすが、時に灰色などもさした。
②馬の毛色で、青みがかった黒。
(『古語林』林巨樹・安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)多くの鳥が水を飲むときは、クチバシをスプーンのようにして水を含み、上を向いて飲み込みます。
一方、ハトの仲間は、ゴクゴク飲むことができます。
アオバト
……
また、群れで海岸に現れて海水を飲む珍しい生態も知られています。
一般に鳥は、水を飲む時には嘴(くちばし)で水をすくい取り、頭を上げて流し込みますが、ハト類は水面に嘴をつけたまま飲み込むことができます。
アオバトは海岸の岩場などのくぼみにたまった海水を、口をつけたまま、まさにゴクゴクと飲むのです。
……
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一 ナツメ社 2015年)
「野鳥の観察 (4.食べる) 水を飲む」(平塚市博物館)記事を見てビックリしました。
保健所の職員が大変だ!
「今どきファクスって…コロナ集計にアナログの限界、大阪市1.2万人漏れ」(産経新聞 2月6日)
データを打ち込むには1件につき10分程度かかるという。
計上漏れ問題について、神戸大病院感染症内科診療科長の岩田健太郎氏は
「ファクスで報告していたら急増する患者に対応できなくなるのは何年も前から分かっていたこと。
逼迫(ひっぱく)を生む必然的な構造があるのに、それを放置し続けたことが一番の問題だ」と批判する。
岩田氏によると、米国では医師が電子カルテに診断名を入力した時点で、
自動的にデータが吸い上げられて登録・集計されるシステムがあるといい、
「人の手で報告・入力を行うというシステム自体が問題だ」と断じる。
一方、批判にはすぐ反応するのだけど、墓穴を掘る。
〝「ヒトラー想起」と言えばヘイトスピーチなのか? 研究者に聞く〟(毎日新聞 2月5日)
橋下徹氏自身が批判者に対して「ヒトラー」と言葉を投げつけている。
故石原慎太郎氏には、なんの反論もしなかった。
〝橋下徹は盟友・石原慎太郎から「ヒトラーに該当」と称賛されていた! ……〟(LITERA 1月25日)
〝維新が「ヒトラー」抗議でブーメラン棚上げのうえ橋下徹と一体認める馬脚! ……〟(LITERA 1月28日)
( 〔カバーイラスト〕映画『独裁者』初公開時(1940年)のイギリスの雑誌“ All Family News Magazine”表紙より)〝「ヒトラー想起」と言えばヘイトスピーチなのか? 研究者に聞く〟(毎日新聞 2月5日)
橋下徹氏自身が批判者に対して「ヒトラー」と言葉を投げつけている。
故石原慎太郎氏には、なんの反論もしなかった。
〝橋下徹は盟友・石原慎太郎から「ヒトラーに該当」と称賛されていた! ……〟(LITERA 1月25日)
〝維新が「ヒトラー」抗議でブーメラン棚上げのうえ橋下徹と一体認める馬脚! ……〟(LITERA 1月28日)
本書の冒頭にチャップリンとヒトラーの言葉が引用されています。
「記録映像はどのように洗っても、どこかに毒がのこっている」
――チャールズ・チャップリン(最後の来日時の記者会見での発言。1961年)
「宣伝だ、宣伝だ。それが信仰となり、なにが想像でなにが現実かわからなくなるまで宣伝することだ」
――アドルフ・ヒトラー(無名だったウィーン時代に知人J.グライナーに語った言葉。1910年頃)
(『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』大野裕之 岩波書店 2015年)
まさに、維新やトランプ前大統領は、ヒトラーの
「なにが想像でなにが現実かわからなくなるまで宣伝することだ」
という言葉のごとくに、テレビやSNSで叫んでいると思う。第7章 完成――作品分析、公開とその衝撃
戦中の日本人と『独裁者』
ところで、戦中はドイツと同盟国だったわが国では、『独裁者』はどのように受容されたのだろうか。
1930年代、日本が軍国主義へと傾斜していくなかでも、チャップリンは大衆には人気を保持し続けたが、時代をうつしてインテリ層の評価は変わっていった。
1934年には「チャップリンの没落」というエッセイが「文藝春秋」に発表される。
「アメリカの繁栄は、チャップリンの芸術を成長させた。しかし、アメリカの没落はチャップリンの笑いを不健康にしてしまった。(略)チャップリンが人々に与えた、沈黙の興奮は『サーカス』と共に終わっている」(1934年8月号)。
政治色が濃くなっていったチャップリン作品を、日本社会は受け入れなくなっていった。
事実、『モダン・タイムス』が1938年に日本で初公開されたとき、ストライキのシーンをカットした映画館もあった。
(『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』大野裕之 岩波書店 2015年) 『独裁者』については、いくつかの映画雑誌で新作制作の短信が出た他は、ほとんど情報は出ていない。
もちろん、ドイツ、イタリアを同盟国だった戦前の日本では、『独裁者』は公開されなかった。
それでも戦中に、何人かの日本人は見ている。
脚本家の廣澤榮は、1944年、ちょうど戦地に赴く直前に、『独裁者』を見た。
軍部がフィリッピンで押収したフィルムを、東宝幹部が極秘で試写したのだが、噂を聞きつけた撮影所のスタッフで試写室は満員だった。
廣澤は英語が分からないながらもラストの演説シーンを見て驚愕する。
「チャップリンはこの映画でサイレントでなくはじめてトーキーを撮った。そして、サウンドトラックの彼の最初の声が、ファシズムを正面から弾劾することばになった。(略)どのような状況の中でも己れを謬(あやま)たず、毅然として自分のことばをいう。それが、かくも高らかなものなのであろうか」。
廣澤は、その感動を誰かに話したい気分だったが、「チャップリンの台詞はあまりにも大胆すぎて、それをうかつに口外することすらはばかれ」た。
出征すれば、こんな立派な映画を作った国と戦うことになるのかと考えながら、「なにかやりきれないような思い」で一人家路についた(『日本映画の時代』)。 廣澤のように素直に受け止めたのは、少数派だった。
大多数は、軍国主義の濁った目でしか『独裁者』を見ることができなかった。
1941年にインドネシアで見た作家の高見順は、当時、次のようなエッセイを書き残している。
ひどく後味の悪い映画だった。チャップリンがヒットラーそっくの人物(扮装も似せて)と、ユダヤ人の理髪師(これは例の得意の扮装で)と二役やり、ジャック・オーキーがムッソリーニそっくりの恰好をして出てくる。ヒットラーの政策を何か批判したつもりかも知れないが、ドイツの今日の躍進を歴史的な意味と必然を理解しようとせずもう頭からやっつけ揶揄する態度なので、結局天に唾するような結果に陥っている(「蘭印映画記」『映画評論』、1941年7月号)。
1945年8月15日、我が国は敗戦を迎えた。
「天に唾するような結果」に陥ったのは誰だっただろうか。第8章 『独裁者』というメディア
日本公開と『独裁者』の現在
時代が変わって再評価されるということであれば、日本はその極端な例である。
『独裁者』の日本公開は戦後の1960年10月22日になった。
敗戦とともに「平和国家」になった日本は、戦後15年たってようやく上映された傑作に拍手喝采する。
世論の移り変わりについては、いくつかの新聞記事を比べるよりも、同じ人が戦前戦後でどのように発言を変えたかを見た方がはやい。
高見順が戦前に『独裁者』を見て「天に唾するような結果」と酷評していたのを前章で引用したが、以下は、同じ作家が戦後に書いた文章だ。 (戦前に)日本人の私はスクリーンのヒットラーをどう見たか。日本とナチ・ドイツが防共協定を結んだのは1936年のことである。そのとき、銀座通りの商店街に大きなナチの旗が飾られ、(略)にがにがしい思いで、それを見たのを覚えている。そのころ「人民文庫」をやっていた私は、ナチを憎んでいた。(略)この映画が訴えようとしているのはデモクラシーの擁護であり、ヒューマニズムの強調なのだ。(略)自由というものに対して人々が懐疑と絶望を感じはじめたあの時代に、チャップリンはこの映画で希望と勇気を人々に与えようとしたのだ。それが今日、強い感銘として心に迫ってくる(「暴力否定の強い感銘『チャップリンの独裁者』を見る」毎日新聞、1960年10月28日)。 戦前の文章と並べると、とても同じ人が書いたようには思えない。
現代の読者が高見の変わり身を嗤(わら)うのはたやすい。
だが、それよりも、多くの人々の思考にかように残酷な皮肉を強いた戦争の恐ろしさがよく分るし、何より、これだけ時勢が変わる中、変わらないチャップリン作品の不朽の価値を思い知る。
……後略……
(『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』大野裕之 岩波書店 2015年)
本を紹介するサイトで「試し読み」(「プロローグ 四日違いの光と影」「『独裁者』ストーリー」)ができます。
橋下徹様ならびに維新の皆さま、貴方たちの発言などは記録されています。
御自身の発言については責任をもってください。
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキのオスがバトルをしていたそうです。
ジョウビタキ
……
この鳥が元気よくヒッヒッカタカタと鳴いているのは、なわばりの宣言だ。
シベリアでの繁殖期のなわばりとは別に、日本の冬を過ごす間、自分の食べ物を維持するためのなわばりをオスもメスも1羽ずつもつ。
春が来れば結婚するかもしれないもの同士でも、冬は互いに容赦しない。
自動車のサイドミラーに映ったわが身ですら激しくライバル視する。
……
(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)