今朝も天気が良くて朝日が眩しかったです。
昨日は、午後から寒くなったけど…今朝の「NHK NEWS おはよう日本」(見逃し配信:2月9日)を見ててビックリしたのは
シカが越前水仙を球根まで食べてしまっている(43分30秒過ぎ)。
人間は水仙をニラと間違えて食中毒になるのに…
シカの食害を防ぐ仁愛大学の安彦智史准教授の研究が紹介されていました。
「MORIoTプロジェクトをリリース! MORI(森)×IoT で地域問題解決を目指す」(仁愛大学)
捕獲されたシカの肉は、9割以上が有効活用されないまま処分されているそうですが
〝シカ肉の「へしこ」づくり始まる〟(NHK福井 1月28日) 松本侑子さんのTwitterに
「悲劇のヒロイン」「薄倖の詩人」「子供向けの詩」といった、
やや紋切型になってしまったみすゞのイメージが大きく揺るがされ、
「大人の文学者」「チャレンジし続けた詩人」といった新たなみすゞ像を提出できたと思います。
以下の「こぼれ話」より引用文政十年二月二日<晴れ>茅場町(かやばちょう)
江戸橋を南へ渡り、下流の紅葉(もみじ)川にかかる海賊橋を東へ渡って茅場町へ行く。
海賊橋については、少し前に読んだ幕末期の随筆「真佐喜(まさき)のかつら」にちらりと出ていた。
「…いとやさしき名の川にかけたる橋の名には、似ざる事とおかしかりし…」名の不釣合(ふつりあい)をおかしかりしと記(しる)す江戸の人はいかにものんびりしている。
海賊橋は、東側に海賊奉行の屋敷があったための名という。 茅場町の薬師堂の近くには、俳人其角(きかく)や儒者荻生徂徠(おぎゅうそらい)が住んだそうだ。
八日、十二日の薬師さんの縁日には大変な人出と聞くが、平日はのどかなものである。
風に乗って油紙のすえた匂(にお)いがするのは、このあたりに傘屋(かさや)が多いせいだ。
茅場町傘は江戸では名高い。 鎧(よろい)の渡しへ出る。
渡しといっても、対岸の小網町はすぐそこだ。
何のことはない。
平安中期、この辺が入り江だった頃(ころ)に、荒れる波をしずめるため鎧を投げ込んだ、そうして無事に下総(しもうさ)へ渡った故事が名の由来という。
白壁の倉の並ぶ町に凧(たこ)が舞う太平の風景には、海賊も鎧も、なるほど場違いな響きに感じる。
(『江戸アルキ帖』杉浦日向子 新潮文庫 平成元年)
「[2-201] 海賊橋」(江戸マップβ版 人文学オープンデータ共同利用センター)
「〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(国立国会図書館)昨日、紹介した芭蕉の『おくのほそ道』より「雲巌寺」を転記します( ..)φ
◆雲巌寺(うんがんじ)――禅の師仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)の庵(いおり)
この下野国(しもつけのくに<栃木県>)の雲巌寺(臨済宗)の奥に、私の禅の師である仏頂和尚の山ごもりした跡があった。
いつだったか、和尚が私に、「山ごもりしたときに、『竪横(たてよこ)の五尺(ごしゃく)にたらぬ草の庵(いお)結ぶもくやし雨なかりせば(人ひとり寝るのやっとの狭い小屋でも、雨をしのぐために、捨てることができないのが残念だ。まだ無一文の心境になれない)』と、自分を戒(いまし)める歌を、松の炭で近くの岩に書きつけたものだよ」とおっしゃったことがある。
(『おくのほそ道(全) ビギナーズ・クラシックス』角川ソフィア文庫 2001年) その跡を見ようと、雲巌寺に杖をついて出かけたが、周(まわ)りの人々が自然に誘いあって大人数となり、若い人が多く、にぎやかに道を進むうちに、いつのまに、寺のある麓(ふもと)に到着した。
山は奥深い雰囲気がただよい、谷沿いの道がはるかに続き、松や杉が光りも射さないほど黒々と生い茂っている。
地面には緑の苔が敷きつめられ、初夏の空も、ここではまだ寒々と感じられた。
雲巖寺十景(じっけい)の終点にある橋を渡って、雲巌寺山門をくぐった。 さて、あの仏頂和尚の山ごもりの跡はどのあたりか、と寺の裏山によじのぼると、岩の上に小屋が、洞窟に寄せかけて造ってあった。
古い中国の高僧の話だが、妙禅師(みょうぜんじ)がこもり、そこで没した「死関(しかん)」という名の洞窟や、法雲法師(ほううんほうし)が岩上(がんじょう)に造った庵を、目の前に見る思いがした。
木啄(きつつき)も庵(いお)は破(やぶ)らず夏木立(なつこだち)
〔静かな夏の林のなかで、啄木鳥(きつつき)の木をつつく音が聞こえる。
その啄木鳥も、仏頂和尚の庵には敬意を払って、つつき破らないとみえ、元のかたちを保っている。
季語――夏木立(夏)〕
その場の気分を一句にしたてて、庵の柱に掛けておいた。◇当国雲巌寺(とうごくうんがんじ)の奥に仏頂和尚山居(ぶつちやうをしやうさんきよ)の跡あり
竪横(たてよこ)の五尺(ごしやく)にたらぬ草の庵(いほ)
結ぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩(いは)に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。
その跡見んと、雲巌寺に杖(つゑ)を曳(ひ)けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多(おほ)く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓(ふもと)に到る。
山は奥にある気色(けしき)にて、谷道遥(はる)かに、松・杉黒く、苔しただりて、卯月(うづき)の天今なほ寒し。
十景(じつけい)尽(つ)くる所、橋を渡つて山門(さんもん)に入(い)る。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢ登れば、石上(せきしやう)の小庵(せうあん)、岩窟(がんくつ)に結び掛けたり。
妙禅師(めうぜんじ)の死関(しくわん)、法雲法師(ほふうんほふし)の石室(せきしつ)を見るがごとし。
木啄(きつつき)も庵(いほ)は破らず夏木立
と、とりあへぬ一句(いつく)を残しはべりし。✿ 芭蕉が仏頂和尚の山居の跡を訪ねたのは、黒羽滞在中のことである。
しかし、禅の師、仏頂和尚に敬意を払うために、他の名所見物の記事とは別に、一章を特設した。
仏頂和尚は、茨城県鹿島(かしま)に生まれ、芭蕉より4歳年上である。
江戸深川(ふかがわ)に住んだおり、芭蕉と懇意になり、以後、芭蕉は、仏頂和尚を参禅(さんぜん)の師として仰いできた。
今回の奥州(おうしゅう)の旅に出る2年前には、鹿島に和尚を訪ねて、俳文『鹿島紀行(かしまきこう)』を編んでいる。
師の修業の跡を訪ねることが、いかに俳諧(はいかい)精神の錬磨(れんま)に必要であるか、芭蕉は十分承知していた。 雲巌寺は、1283年に執権北条時宗(ときむね)が建立した禅寺に始まる。
時の名僧が寺務をあずかり、地方の名刹(めいさつ)となった。
1590年、豊臣秀吉に伽藍(がらん)を焼かれたが、江戸期に再興して今日に至っている。
雲巌寺の境内にある十か所の美しい眺めは、「雲巌寺十景」と呼ばれて人々に愛されていた。
その名称をあげると、海岩閣(うんがんかく)・竹林(ちくりん)・十梅林(じゅうばいりん)・竜雲洞(りゅううんどう)・玉几峰(ぎょつきほう)・針盂峰(ぼうほう)・水分石(みくまりいし)・千丈岩(せんじょういわ)・飛雪亭(ひせつてい)・玲瓏岩(れいろうがん)である。(曾良<そら>の『随行日記』による)
…後略…
(『おくのほそ道(全) ビギナーズ・クラシックス』角川ソフィア文庫 2001年)