2020年2月28日金曜日

薄曇り…

午前中は、先週から歯の痛みがあるので歯科を受診しました。
私の場合、マウスピースをしているのですが、歯ぎしりがひどく
知覚過敏になっているそうです。
冷たい水などは避けて、
体温ほどの水温でうがいなどをすればいいと教えていただきました。

午後から公園に来ました。
鳥は歯がないので虫歯などで悩まないのだろうな…
2月28日 
 千利休が豊臣秀吉の命令で切腹させられた。 1591(天正19)年
 2月13日、突然秀吉により、堺で謹慎を命じられた利休は、京都葭屋町(よしやちょう)の屋敷にうつされ、3千の軍勢にとりかこまれた中で、この日、切腹させられた。
70歳だった。
折しも戸外では親指の先ほどもある大あられがはげしく軒をうっていた。
利休は秀吉の命令を伝えにきた3人の役人を、不審庵(ふしんあん)という茶室にまねき、役人の一人でお茶の弟子でもあった蒔田淡路守(まきああわじのかみ)の介錯(かいしゃく)で切腹したのである。
死にあたって利休は、「私がひっさげている一本の太刀(たち)を、今こそ天にむけてながつけてやるぞ」と、秀吉へのはげしい怒りのことばを残した。
利休の死は中世の堺の最期でもあった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
今朝の朝刊の一面に
なぜ一律 根拠説明を
…略…
繰り返される「説明のなさ」は社会的な混乱だけでなく、無用な不安をも増幅させる。決断の根拠を早急に説明し、ウイルスに立ち向かう道筋をきちんと示して欲しい。
…略…
朝日新聞 視点 2020.02.28

昨日も嘆いたけど、毎日、コロコロ変わるのは何故なんでしょうか?
首相動静に
午後6時21分から同31分まで、新型コロナウイルス感染症対策本部。」(時事ドットコム 2月27日
とあるけど、どんな情勢分析がなされたうえで決定されたのだろう。
結局、コロコロ変わる首相の言動に国民が動揺して、買い物に行くと
トイレットペーパーなどが品薄になっている。
「トイレットペーパー 在庫は十分」買いだめの動きに工業会〟(NHK)と報道しても
国民は疑心暗鬼になっている。
普段、韓国を批判している産経新聞でさえ
ドライブスルー方式で新型コロナウィルス検査 韓国、感染リスクも軽減」(産経新聞 2月27日)
と報道するように、何故、日本では検査ができないのだろう。
いろいろと説明されているが納得できない。
知恵を働かせている韓国に学ばないのは嫌韓が日々、日本に蔓延しているから?
首相が対策会議よりもテレビに映ればいいと思っているから?
首相を補佐する立場の人間が
「催しなどの自粛広がる中 秋葉首相補佐官が政治資金パーティー」(NHK)
大河内泰樹さんのTwitter

ドイツの保健大臣が会見でコロナウィルスの危険性とすべき対応についてよどみなく説明するのを見てて、私たちはなぜ大臣たちがばかであることにこんなに慣れてしまっているのかと思った。

と呟かれています。

YouTubeで発言する姿を見ていると、言葉が分らなくとも説得力があるだろうなと思う。
Gesundheitsminister Jens Spahn zur Ausbreitung des Coronavirus (26.2.2020)

首相だけでなく同じ穴の狢ばかりの内閣だから
〝北村地方創生相「予算委で答弁に詰まって有名」発言を反省〟(NHK)
ハヴェルが大統領になって最初にしたことは、嘘をつかないことでした。
100分de名著「プロデューサーAのこぼれ話。」をご一読ください。
首相や閣僚が嘘をついていなかったら国民は疑心暗鬼にならなかった。
ボヤいてばかりで申し訳ありませんm(__)m

日本の歴史12 天下一統』より「利休の切腹」を転記したいと思いますφ(..)
利休の切腹
 小田原の役も奥州征伐も終わり、検地も刀狩も順調で、海内統一は完成したものの、「唐入(からいり)」のうわさが都鄙(とひ)に流れ、天正19年(1591)の春はかならずしも明るくなかった。
正月22日に大和大納言(やまとだいなごん)といわれた豊臣秀長(ひでなが)が死に、人望の高かった人だけに、いっそう世情は暗かった。
そのような春の2月13日に、千利休が突然堺追放を命ぜられた。
秀吉の使いとして冨田知信(とみたとものぶ)・柘植左京亮(つげさきょうのすけ)の両人がやってきて、その趣旨をつたえたのである。
その晩利休は、聚楽屋敷をでて堺に向った。
茶湯門下の諸大名はだれも秀吉に気をかねて見舞うものとてはなかったが、古田織部(ふるたおりべ)と細川忠興(ほそかわただおき)の二人だけが、淀(よど)の船着き場まで見送りにきていた。
利休はそこで二人を見つけて、おりがおりだけに驚喜した。

(画像は省略)
利休遺偈 利休の辞世の頌で、70年の迷いの生涯を断つにあたり、祖も仏もあるものかという意味を述べて、激しい抵抗を秘めている」
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
 それから十余日間を利休は堺ですごした。
その間、秀吉の周辺からも大政所(おおまんどころ)や北政所(きたのまんどころ)を通じて命乞いをするから謝罪するようにというすすめがあったが、利休はかたくこれを辞した。
その心底には関白秀吉へのつよい対立感情がもえあがっていたからであろう。
そして2月28日、ついに切腹した。
 この利休の突然の死については、むかしからさまざまな説が行われている。
その一つは茶器の鑑定に不正があったという説である。
……略……
 その二には、大徳寺山門(だいとくじさんもん)木像事件があげられるのがふつうである。
大徳寺の山門は平素一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の遺徳を追慕していた連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)が、発句(ほっく)の謝礼としてえた百貫文を喜捨して造営したものだが、その資材不足のために門上の楼閣が未完成であったので、利休がそのうえに金毛閣(きんもうかく)をたてそえたのである。
この山門の楼上に、杖をつき雪踏(せった)をはいた利休の木像が安置せられていた。
これを利休が切腹を命ぜられた理由とするのである。
利休追放と同時にそれは関白に召し上げられ、一条戻橋(いちじょうもどりばし)ではりつけにかけられた。
当時木像のはりつけは前代未聞だと京中で噂をし、貴賤の見物、際限がなかったといわれている。
 この事実は木像事件が直接の動機であったことをじゅうぶん裏書しているのである。
しかし注意されることは、この山門の楼閣は利休自身が寄進(きしん)したものだということである。
したがって山門に木像をあげたことも、利休の意志というよりは、たぶん寄進をうけた大徳寺のほうで寄進の善根を記念し、かつ顕彰するために行なったことではなかろうか。
利休はその好意にたいして、秀吉のとがめをうけても、累の大徳寺におよぶのをおそれてか一言の弁明をしなかったが、その木像の造立(ぞうりゅう)の推進者は、たぶん当時の大徳寺住持(じゅうじ)古渓宗陳(こけいそうちん)であったろう。

(画像省略)
大徳寺山門金毛閣 その名は道力絶大の禅者をあらわす『金毛の獅子』に由来する。扁額は雲英宗偉筆」
 そのほかには、秀吉が利休の女(むすめ)を所望して、これを拒否されたのを怒ったという説が知られているが、それも確実な根拠があるわけではない。
 だいたい上の三つは通説の代表的なものだが、最近の新しい観方を紹介すると、一つは朝尾直弘(あさおなおひろ)氏の説である。
氏は利休の死を豊臣政権内部の権力闘争のなかに位置づける。
すなわち一つには秀長―利休ラインとそれの反対勢力という形がはやくから存在し、秀長の病没によって破局の時期を早めたことが考えられるが、それとは別に、豊臣政権の東国政策にかんして、増田長盛・石田三成に代表される中央集権派のグループと、徳川・北条・伊達三氏の独立的な領国権力グループがあって、それぞれ対立していたと考える。
 さきのを集権派、あとを分権派と名づけると、集権派は大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景とし、増田・石田―上杉―佐竹・宇都宮・結城(ゆうき)―蘆名(あしな)の系列で強硬路線を推進し、分権派には冨田知信・津田信勝(のぶかつ)らがうごき、秀吉側近では施薬院全宗(やくいんぜんそう)・和久宗是(わくそうぜ)らの名が浮かび、秀次・前田利家(としいえ)・浅野長政がこれに近く、家康を通じて宥和路線をとると考える。
そして北条・奥羽の討伐は、集権派の強硬路線の勝利であったが、その最終的段階で、伊達政宗(まさむね)は小田原参陣、ついで上洛(じょうらく)という形で宥和路線によって処理されてしまった。
この宥和路線のうごきにいつも連なったのが利休だというのである。
そこで天正19年(1591)2月4日、奥羽より伊達政宗が入洛し、9日、政宗に葛西(かさい)・大崎(おおさき)の旧領が安堵された直後の13日に、従来説かれてきた山門木像問題など、早くから用意された利休の罪科がいっきょに問題化したとみるのである。

(……略…… 野上弥生子<やえこ>さんの『秀吉と利休』の説などを紹介)

 しかしけっきょくその死は、利休自身の問題が中心にある。
利休の草庵の茶の理想が、秀吉の黄金茶屋に象徴される権力主義の茶と衝突し、利休自身も絶望的になっていたにちがいない。
茶器売買も金毛閣の木像も、そうした空虚な心のゆるみに入りこんだつまずき石であったのである。
秀吉の側も、国内一統をなしとげてしまうと、茶堂として利休をはべらせる権力の荘厳としての意味もなくなり、九州の役後は博多に関心が移ったので、堺衆の代表として利休の意味もうしなわれた。
双方に離反の条件があったのである。
利休が生前の天正17年、ひそかに堺の旧主三好長慶(みよしちょうけい)の菩提寺聚光院(じゅうこういん)の長慶の墓のかたわらに墓を求めたことも、秀吉にたいする抵抗の現われであろう。
 そのようなときに、豊臣秀長が没したのである。
大友宗麟(おおともそうりん)がその日記に、公儀のことは秀長、内々のことは宗易(そうえき<利休>)が存ずると言ったことを記しているが、その相手を失ったことはもっとも大きな痛手であったにちがいない。
この二人は秀吉の政権を家族的にみていたし、人情的な経営に意義を認めるほうであったが、時代はかなり変わっていたのであって、五奉行のように官僚的な眼も必要になっていたし、検地による合理的な経営が目標とされていた。
ここに九州の役後、小田原の役をへて朝鮮の役にいたる秀吉による第二の五ヵ年間の大きな転換があったといわねばならない。
そしてこの官僚主義と合理化は、権力的な圧力となって表面化する。
利休のばあいにもそのような匂いがつよい。
 利休の失脚は、増田長盛・石田三成の集権派をくわえて解釈する見方は、これも確証があってのことではないが、『兼見卿記(かねみきょうき)』という日記によると、利休の死後の三月八日条に、この日、利休の母と女が三成に拷問されて蛇責(へびぜめ)にあい、母と女もやがて死んだ旨が、「不慥(ふたしか)」とはことわってあるが記録されている。
したがってそれは、すでに述べたようにじゅうぶんに妥当性をもった推理である。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)

利休遺偈(りきゅうゆいげ)
千利休が自刃するに際し、天正19年(1591)2月25日にしたためた辞世の偈。利休没後は一時千家を離れていたが、7代如心斎が再び千家に戻した。「人生七十 力囲希咄 吾這宝剱 祖仏共殺 提ル我得具足の一太刀 今此時そ天に抛」と記されていて、死を恐れることのない気迫があらわれている。
(表千家不審菴)
女性(スタッフ)が掲示板に何か貼っておられたので確認すると

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(対応は、随時変更になる可能性がありますので、チラシやポスターに記載のホームページをご確認ください。)