2020年10月4日日曜日

蒸し暑かった…

気温は低くなっているのに蒸し暑く感じました。
歩いていると結構汗が出ました(^^;
そして吐く息でファインダーが曇るようになってきました。
息を止めたいのですが、心肺機能が低いので長く続きません。
ただでもピンボケが多いのに、これから…(-_-;)
母と歩いていた時に、「この草の実、ミカンに見えるだろう」と教えてあげると喜んでいました。

コミカンソウ(トウダイグサ科)
〔解説〕
草丈がわずか5~10センチぐらいなものの、この花は見どころがいっぱいです。
特に、葉の下で順序良く一列に並んだ小さな丸い実は見てしまったら、あなたはもうメロメロになること間違いなしです。
また、直径1ミリ(!)しかない花も、じっくり見れば素朴な美しさにあふれています。
そんな小さなものなのに、ちゃんと花びらが6枚あってきれいに放射状に開いているのですから、もうかわいいを通り越していじらしくなってしまいます。
畑や道ばたにありますので、ぜひ探してみましょう。
一見の価値ありです。
(『花のおもしろフィールド図鑑(秋)ピッキオ編著 実業之日本社 2002年)
村山由佳(時々もみじ)さんのTwitterに

ここまで来たらあとほんのひとまたぎじゃないかしら。
たとえば身を削って書きあげた小説が突然発禁を食らい、お上にいくら理由を訊こうが答えてもらえず「法に基き適切に対応」とか言われるところまで。
水はいきなり煮え湯にならない。
火を消し止めるなら今だ。

#日本学術会議への人事介入に抗議する
中沢けいさんのTwitterには

日本学術会議の任命拒否。
岡田正則さんが「人事の問題ですらない。行政運用上の問題だ」とおしゃっていた。
ああ、そうだ!説明抜きで恣意的な行政運用なんかされたらたまったもんじゃない。
昨年の愛知トリエンナーレの助成金交付中止も恣意的な行政運営だった。
撮影しているとご高齢の男性が「何の花?」と聞いてきたので
自信がないので「野菊だと思います」(ヨメナ?)と答えると
ノジギクではないのか?」と返事が返ってきました。
話を聞いているとその方の父親は軍隊で満州に行かれて、上官にノジギクを取ってくるようにと命令されたそうです(耳が悪いので聞き間違えているかも)。
そんな会話を交わしていて「私の母は沖縄で機銃掃射で頭を砕かれた死体などを見ているので戦争映画は、嫌いだった」と話すと、
男性は、「戦争映画は綺麗ごとにしている」言っておられました。
柏尾安希子(神奈川新聞記者)さんのTwitterに

ふと思う。
なぜ日本が戦争に走ったか、止められなかったのか、民衆はどう感じていたのかとずっと思ってきたが、今はなんとなくわかる。
好んで疑問を感じない、だまされる、見てみぬふりする。
メディアがそれを助ける、というか目くらましする。
それでも日常は続く。
とてもまずいところに来ているのに。

新型コロナ 大阪府議会議員感染」(関西NHK)
大阪維新の会からお二人。
都構想の住民投票に向けて、活動されているからかな?
人と会う機会が増えれば増えるほど感染のリスクは高くなります。

正直この時期に住民投票をすることが理解できないでいる。
知事が民放にひっきりなしで出演して人気を得ているので
タイミングとして今を逃したくないのでしょうね。
選挙の立会人には、高齢者が多いように思うのだけど、
住民投票の立会人も高齢者が多いのでしょうか?
10月4日
 官営富岡(とみおか)製糸場が開業した。 1872(明治5)年

 3月に工事がはじまり7月に完成した群馬県の富岡製糸場が、この日開業した。
政府雇いのフランス人技師の設計で、堂々たる西洋風のレンガ造り2階建ての建物である。
その中で、糸取(いとと)り技術の指導のために雇ったフランス人女工4人が、日本人女工4人にはじめて技術を教えた。
 当初、工女のなり手がなく、政府は各県に士族の娘を参加させるように呼びかけたので、翌年1月には404名の工女があつまった。
 当時の工女の生活のようすは、士族出身の伝習工女である和田英(わだえい)の『富岡日記』に描かれている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
紡績女工と製糸女工について8月30日の記事で紹介しましたが、
維新の構想と展開 日本の歴史20』より「士族授産会社」、「企業勃興の技術」、「二つの産業類型の意味」を転記しますφ(..)
第5章 内治を整え民産を殖やす
 士族授産会社


 10年前後からは、士族授産(しぞくじゅさん)を目的とした一連の会社が登場する。
前述のように国立銀行の大半もこれに含めることができるが、士族たちが金禄公債(きんろくこうさい)を元手に興(おこ)す企業である。
これには府県を通じて政府の補助が与えられた。
(『維新の構想と展開 日本の歴史20』鈴木淳 講談社学術文庫 2010年)
 生糸輸出に対応した製糸業では、明治5年に渋沢らの尽力で官営富岡(とみおか)製糸場が創設された。
フランスから輸入された鉄製の繰糸(そうし)台、ボイラー、そして蒸気機関が煉瓦(れんが)造りの工場内に配置されて文明開化を象徴していたが、各地で士族が会社を作り、授産資金の援助を得て、小規模ながらこれに倣(なら)った工場を設置した。
また、紡績業の分野では、11年(1878)に大久保利通(おおくぼとしみち)内務卿の上申で二千錘(すい)規模の紡績所2ヵ所の設立が上申され、その後同規模の紡績所15ヵ所が政府の援助を受けて設立された。
これらは基本的に、士族授産と地域の綿作の振興を意図して保護を与えられた。
 このように、出資者や従業員となる人々に対する直接的な授産と養蚕・綿作といった地域の関連産業の振興を通じた、間接的な授産の両面での士族救済を主な目的に、各地に会社形態の工場が作られていった。
これらの中には士族以外の人々の参加もあり、地域産業の振興は士族以外にも益することは当然であったが、一地域で一会社にだけ補助金が与えられたため、競合する会社が興ることは想定されていなかった。
各地に資金を配当するという点では公平であっても、未だ企業家に対して公平とはいえない段階であった。
企業勃興の技術

 企業の勃興は、制度的な枠組みとともに、当時の日本の条件に適した技術の形成を背景として発生した。
 玉川寛治氏の研究によれば、大久保の上申による二千錘(すい)紡績は、繊維の長いアメリカ綿向けの機械を輸入して繊維の短い日本綿に用いたため操業が困難で、外国人技術者を招かなかったことが問題点の認識すらむずかしくしていた。
これに対して大阪紡績は、山辺丈夫(やまのべたけお)にイギリスで紡績技術を調査させ、また比較的短い繊維のインド綿向けの紡績機械を輸入して、国産綿より安価で繊維が長い中国綿を使用し、機械の据え付けと操業指導のためイギリス人技術者を招いた。
また工場の規模を1万5百錘と大きくすることで、蒸気機関の効率が良くなり、技術者に経費をかけることも容易になった。
 高村氏の研究によれば、中国綿の使用と、機械の効率を倍化させて設備投資に対する利益を大きくする昼夜二交代制は、大阪紡績の開業直前に二千錘紡績の一部で開始され、さらに大阪紡績に成功により二千錘紡績の多くも採用された。
紡績企業としての経済性を最優先した大阪紡績は、イギリスに学ぶとともに二千錘の経験にも学んで、日本における紡績技術を確立したといえよう。
22年(1889)末には3万錘規模になった大阪紡績をはじめ、8千錘以上の紡績会社が二千錘から拡大した4工場を含め10社となり、1万錘以上の5社が開業準備中であった。
この15社中8社が大阪に所在していた。
 製糸業においては器械製糸の進展がいちじるしかった。
器械製糸では工場に多数の繰糸者を集め、生糸を動力によって巻き取り、また繭(まゆ)をほぐすための湯を蒸気で暖めた。
これによって繰糸者は、繭の糸口をさがして巻き取られる糸に適宜添えてゆく作業だけに専念し、時折コックを調整して鍋の温度を調整すればよくなった。
これを支えた技術は、動力面では水車、一部に蒸気機関であり、また蒸気を供給するボイラーであった。
 士族授産資金を受けた会社の多くでは、富岡製糸場の機械類の完全に近い模倣を試みた。
そして、それを参考にしつつ多くの農民たちが動力を水車や人力に改め、ボイラーは大きな釜で代用し、繰糸台は木製といった不完全な模倣による工場を建設していった。
全国への技術普及には前者が貢献したが、量的に多かったのは後者であった。
後者の釜は当初は炊事用の鉄製のものが用いられたが、明治12年(1879)に長野県松本の銅器製造者丸山弥平(まるやまやへい)が製糸家二木立造と共同で輸入品の薄い鉄板を用いて洋風のボイラーを作ることに成功し、これが急速に普及した。
 このボイラーは大きさが繰糸者60人程度までという限界があり、これがその後数年間の小資本の製糸工場の規模を規定していた。
しかし19年までに多管半通式(たかんはんつうしき)という形式に発展して、3百人程度まで作れるようになったため、企業勃興期には諏訪(すわ)を中心にこれを用いた製糸工場が増加し、製糸業の工場制工業化が進んだ。
 紡績業の労働時間は二交代制のため12時間程度にとどまったものの、深夜の就業や昼夜業の交代による労働者の負担は重かった。
これは機械の効率を優先して人の働き方が決められたためである。
また製糸業では、長時間労働が見られた。
19年には甲府にある製糸工場で日本初の工場労働争議が起こった。
きっかけは、山梨県の蚕糸(さんし)業組合が午前4時30分から午後7時30分までの15時間拘束(こうそく)と定めていた労働時間を、この工場がさらに1時間無報酬で延長したことであった。
当時甲府では、職工30人以上の製糸工場38軒のうち31軒までが年間150日以内の操業であったから、これは農家で農繁期に短期間なされていた最も過重な労働習慣が持ち込まれたものと思われる。
二つの産業類型の意味

 以上の、紡績業と製糸業に象徴される新技術の活用の二つの類型が同時並行したことは、日本の企業勃興、さらにはこれを起点すとる産業革命の原動力となった。
紡績業の場合は西洋の機械で日本の条件に適するものを輸入して、会社形態で操業する。
西洋からそのまま持ってくるという点では移植産業と呼べよう。
製紙業、鉄道業、外航海運業などがこの類型になる。
製糸業は、西洋式の工場を参考に、国内で何とか生産できる機械を用いて主に個人企業の形態で操業する。
産地織物業や、大阪商船に結集する瀬戸内の汽船海運なども類似している。
石炭業では、この二類型が併存していた。
 石炭業で導入された新技術は、蒸気機関によるポンプと巻き揚げ機であった。
ポンプは坑内に湧(わ)き出す地下水を排出し、巻き揚げ機は土砂や石炭を搬出するのに用いられた。
これらは外資と合弁で開発された高島炭鉱で明治初年に導入され、明治10年代には工部省によって国産化が進められた。
18年末に工部省の廃止により大蔵省に移管された三池炭鉱は外貨獲得のための増産をめざして、より力量の大きい輸入機械を導入して移植産業的な形で発展していったが、同じ頃、筑豊炭田(ちくほうたんでん)では、主に地元の人々によって国産のポンプや巻き揚げ機を用いた炭鉱開発が進められた。
 折から、ワットの発明以来使われてきた竪坑(たてこう)の坑口に設置する大型のポンプに代わって、坑内設置型の小型ポンプが用いられるようになっており、筑豊ではこれが広範に採用されて比較的小資本の業者による開発を可能にした。
中小の炭鉱では巻き揚げ機が1台、ポンプは数台用いられた。
特にポンプは採掘の進展や急な出水に応じて追加する必要があったから、炭鉱地域ではポンプの円滑な供給が要求され、それに応じたのは、工部省の長崎造船所や阪神・東京の官営あるいは外国人経営の大工場で経験を積んだ熟練職人たちであった。
 熟練職人の開業は諏訪の製糸業におけるボイラー生産でも見られ、官営工業がこのような熟練職人を数多く生み出していたことが、この時期の在来産業への機械導入の背景になっていた。
また、諏訪においては最大の製糸家である片倉(かたくら)家が、また筑豊においては地元炭鉱業者の貝島(かいじま)家が呼び寄せた職人がそれぞれ最初に地域に定着して開業しており、このような熟練職人の必要を感じ、それを呼び寄せる力が地域の有力者にあったことも重要である。
 同じ時期に中国でもインドでも、開港場に大規模な製糸・紡績工場ができたことは共通しているが、その技術が内陸部で形を変えながらも急速に広まり、幅広く活用されたのは日本の特異な点であった。
すでに見たような、機械工業部門での官営事業の先行と、全国的な情報の普及、そして在来産業でありながら輸出産業であったために、その生産者が開港場との情報のつながりをもっていたことなどが、この相違を生み出している。
そして、紡績業の原料・機械、鉄道業の車両やレールも輸入に依存していた当時の日本では、製糸業、石炭業といった外貨獲得産業のこのような形での成長なくして、産業革命はありえなかった。
(『維新の構想と展開 日本の歴史20』鈴木淳 講談社学術文庫 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)v
90㎜マクロで撮影しているので、萩の花がいっぱい咲いているのを写すのは私には難しいです。