2020年10月22日木曜日

歩いていると…

 「歩いていると暑いですね…」という女性の会話が聞えてきました。
ジ~ッとしているとヒンヤリしているのですが、歩くと汗をかくほどでした。
これから天気が荒れるようです。

22日夜遅くから大気不安定に」(関西NHK)
地図はいまも悪夢を知っている」(NHK 10月21日)

「旧河道」と書いて「きゅうかどう」
ブラタモリでタモリさんがよく暗渠を探しておられます。
土地の痕跡(記憶)を探ることで蓋などをされて見えなくなった河の通り道を見つけることができます。
旧河道には、再び水が戻る
ところがハザードマップには載っていないようです。
 なかのとおるさんのTwitter

「確実に成長」と松井市長が言っても「2011年~16年の年平均成長率は0.58%」で非常に少なく(掲げた目標は年平均2%)、大阪府よりも過疎地域を抱える全国平均よりも低い。

政令指定都市から特別区への“格下げ”となる都構想のデメリットに、大阪市民も気づいてきた」(Yahoo!ニュース 10月19日)
歩いていてアレッと思ったのが、ナシの花が咲いていました。
葉っぱが毛虫などにやられていないのに…
サヘルローズさんがTwitterに「火の鳥」とアップした写真(クリックして画像をごらんください)。
雲の姿は、刻々と変化するのでアッと思った時に写しておかないとp(^^)q
10月22日
 桓武(かんむ)天皇が平安京に移った。 794(延暦<えんりゃく>13)年

 77年間もつづいた平城京から、長岡京(ながおかきょう)に都が移されたのは784年。
そのときはまだ都造りの途中であった。
ところが翌年、都移りを主張した藤原種継(たねつぐ)が暗殺されるなどの暗い事件がつづいたため、和気清麻呂(わけのきよまろ)の献言によってまた新都に移ることとなった。
この日、桓武天皇の乗った車駕(しゃが)は新京に入った。
造都の事業はまだなかばであったが、内裏(だいり)を初めとする都の規模は壮大で平安京と名づけられた。
国名も「山背(やましろ)」が「山城(やましろ)」と改められた。
 これ以後明治維新に至るまで、平安京は千年以上も日本の都であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
平安京」(中学・高校 動画1分56秒)

京都史跡見学』より平安京について転記しますφ(..)
1章 平安京の誕生
 時代祭


 毎年10月22日に行なわれる時代祭は、5月の葵祭(あおいまつり<賀茂祭>)、7月の祇園祭(ぎおんまつり<祇園御霊会(ごりょうえ)>)とともに京都の三大祭といわれ、観光客でにぎわいます。
祭は各時代の衣装をまとった人びとの行列が、京都御所から平安神宮まで歩む一大風俗絵巻です。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
 先頭を切るのは鼓笛(こてき)をならして威勢のよい山国隊(やまぐにたい)――幕末・維新期に活躍した農兵隊の一団です。
平安造都(ぞうと)のとき、いま京北町(けいほくちょう)に属するこの山国の地から材木を伐(き)りだしたとされ、山国庄(やまぐにのしょう)と呼ばれて皇室の庄園となり、近世に及びました。
勤皇隊(きんのうたい)が出たのはそういう因縁(いんねん)によるものです。
その山国隊のあとを、時代がさかのぼりますが、京都にかかわりあった歴史上の人物がつぎつぎと登場し、延暦文官参朝(さんちょう)列が、最後尾にしたがいます。
天下統一のきっかけとなった織田信長の上洛(じょうらく)もあれば常盤御前(ときわごぜん)と牛若丸こと幼少の源義経ら母子の旅姿も見られます。
清少納言(せいしょうなごん)と紫式部(むらさきしきぶ)がおなじ輿(こし)に乗っているのはご愛敬(あいきょう)でしょう。
この二人が宮廷で顔を合わせたことはたぶんなかったでしょうし、紫式部が清少納言のことを高慢ちきな女だとこっぴどく批判した事実が知られるからです。
ともあれ衣装の特徴を見るだけでも、唐風から和風へ、あるいは貴族的なものにかわる武士の装束(しょうぞく)や庶民的な衣装の登場、というふうに、時代の推移をうかがうことができます。
 時代祭は古い歴史をもつ他の二つの祭とちがい、明治28(1895)年、平安遷都(せんと)千百年を記念して創建された平安神宮の祭として、この年にはじめられたものです。
当初は行列もずっと簡単でしたし、時代順でした。
鼓笛隊がくわわるようになり、その威勢のよさが買われて先頭に置かれたのでしょう。
 10月22日というのも、延暦13(794)年のこの日(といっても陰暦でですが)、桓武(かんむ)天皇をはじめ貴族官人たちが長岡京(ながおかきょう)から平安新京に遷都した日がえらばれているわけです。
ちなみにこの日は干支(かんし)では辛酉(かのととり)で、陰陽道(おんみょうど)にいう「革命」のときにあたります。
すべてがあらたまるといわれた日で、つまり遷都は天下草創(そうそう)の事業だったのです。
 これよりさき、桓武天皇は、延暦3年以来、長岡京を造営していましたが、ある時期からこれを放棄する決意をかためています。
宮都の主要部分はあらかたできていたことが、近時の発掘調査でたしかめられており、それを放棄した理由はいまひとつ明らかではありません。
造都工事が本格的に開始された直後、中心人物の藤原種継(たねつぐ)が反対派に暗殺されたことや、この事件に関係ありということで罪に問われ、無実を叫んでみずから命を断った皇太弟(こうたいてい)早良親王(さわらしんのう)の怨霊(おんりょう)の出現、さらに2度にわたる大洪水の被害などがからまり、和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧(すす)めもあって、長岡京にかわる新京の造営に気持ちが移ったようです。
そんなわけで天皇は、長岡京のとき以上に積極的に平安造都にとりくみ、工事の視察にもたびたび出かけています。
造宮役夫

 平安京は、けっきょく古代では最後の宮都となりましたが、そもそも造都はどのように行なわれたのでしょうか。
 まず事業を推進する役所として、いまでいう公団にあたる造宮職(ぞうぐうしき)が設けられ、造宮役夫(えきぶ)の徴発動員や必要物資の調達などにあたりました。
造宮役夫は諸国から動員されましたが、実際には範囲が限られていて、東海道は駿河国(するがのくに<静岡県>)、東山道(とうさんどう)は信濃(しなの)国(長野県)、北陸道は越前(えちぜん)国(福井県)、山陰道(さんいんどう)は出雲(いずも)国(島根県)、山陽道(さんようどう)は備前(びぜん)国(岡山県)、南海道は紀伊(きい)国(和歌山県)を限界に、それより近い国々、つまり中国・近国でした。
大量の人間を動かすわけですから、遠距離は避けたのです。
役夫を出さない国を虚役の国と申しましたが、就役の国には租税の減免をするなどして負担のアンバランスをなくしています。
また役夫には功賃(稲)が支給されましたのでこれを雇役(こえき)といいました。
無償ではなかったのですが、実際には割当による徴発でしたから、強制労働とちがいはありません。
 この造宮役夫が単純労働に従事したのにたいして、技術者として徴発された役夫を諸国匠丁(しょうてい)といい、とくに木工技術の伝統をもつ飛騨国(ひだのくに<岐阜県>)の匠丁は飛騨匠(たくみ)と称され、造宮の中心となりましたが、一般役夫と同様、苦しい労働に耐えかねて逃亡した飛騨匠も少なくありませんでした。
なお飛騨匠だけは造宮事業が打ち切られてからも、宮廷の建物の修理保繕(ほぜん)のために必要だとして毎年100名(のち80名)ほどが都に動員されています。
高山市の祭に用いられる曳山(ひきやま)はその飛騨匠の伝統が生かされたもので、市内には飛騨匠神社というのもあります。
 さて京都盆地にはすでに居住者があちこちにおり、田畑をもっていましたから、宮域部分についてはそれらの土地を収用し、他所に代替地をあたえています。
内裏(だいり)のあたりは秦(はた)氏の屋敷があったのでしょうか、左近の梅は秦河勝(はたのかわかつ)の屋敷にあったものと伝えています。
いまでは想像もつきませんが、たくさんあったと思われる樹木を伐採し、河川を整備し、道路や宅地の造成が進められました。
そしてこれをつぎつぎと貴族にわかちあたえていったのです。
京域の決定

 ところで平安京は東西で約4.5キロメートル、南北で約5.2キロメートルの広さがあったのですが、その範囲はどうのようにして決められたのでしょうか。
というのは、藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいじょうきょう)の場合、それまであった道路を東西の京極路(きょうごくじ)や中心の朱雀路(すざくじ)を利用したことがわかっているからです。
平安京の場合はなにがよりどころにされたのでしょう。
地図(省略)をひろげて、ひとつ都づくりの机上計画にくわわってくれませんか。
 まず船岡山(ふなおかやま)
大徳寺(だいとくじ)の南にある孤立した小山ですが、朱雀大路を北に延長するとこの船岡山に突き当たることから、逆に、この山を基準にして中心線を定めたのではないか、という考え方があります。
土地がらのいいわるいをいうのに中国の考え方で四神相応(ししんそうおう<東に川、西に道、北に山、南に池のあること>)ということがいわれ、とくに北方に丘陵があるのがいいとされた考え方にも合致するというのです。
いまこの山には明治に移された建勲(けんくん)神社(織田信長を祀<まつ>る)がありますが、山頂には磐座(いわくら<岩そのものを神に見たてて信仰の対象とする>)と見られる岩石もあります。
船岡山基準説は大いにありうるものと思われますが、残念ながらいまは樹木のため南方を展望することはできません。
 山といえば双ヶ丘(ならびがおか)が西の境界を決める上での1要素になったでしょう。
その東に西京極路がつくられました。
つぎに北辺の東西線。
これは近江(滋賀県)から山中越(やまなかご)えで京都盆地に入り、嵯峨野(さがの)方面に向かう古道が決め手になりました。
 問題は東の境界(東京極)です。
現状からすれば鴨川(かもがわ)ということになりますが、じつはこの鴨川の流れについては、昔はいまとちがい、東北から流れ出る高野川(たかのがわ)がそのまま西南方向に流れをとっていて(図① 省略、以下同じ)、それを造都の際、糺森(ただすのもり)あたりから真南に流した(①’)のだろう、という説があるのです。
しかもその糺森で高野川とY字形に合流している賀茂川(かもがわ)についても、かつては②のごとく流れたいたが(それが堀川<ほりかわ>)、京中を通るので氾濫(はんらん)を防止する必要上、②’のような新しい流路をつくったのだ、②’が直線的なのはそれが人為的な流路だからである、こうして川はY字形となり、それで生れた空間に京域を求めた、という説です。
高野川がかつて①にように流れていたことは、地質の調査からたしかめられており、これまで一般的な理解であったといってよいでしょう。
 ところが最近こうした通説にたいして、すでに平安造都の自分には、ほぼ現状のような流れ(つまりY字形)をとっていたとする説が出されています。
それによれば鷹ヶ峰(たかがみね)のほうから流れでる賀茂川が本流で、堀川はその分流であり、本流の賀茂川が高野川と合流して鴨川(かもがわ<ふつう賀茂川と高野川とが合流してから、この字であらわしています>)となり南に流れていたというのです。
そういえば、通説なら鴨川の部分は高野川の名で呼ばれてしかるべきですが、それが鴨川(つまり賀茂川)なのは、西北から東南へ流れる賀茂川(→鴨川)の流れが本流だったからでしょう。
造都のとき、堀川や葛野川(かどのがわ<現在の大堰川(おおいがわ)・桂川(かつらがわ)>)の修堤工事の記事があるのに、賀茂川(鴨川)についてはなにも史料がないのは、史料が失われたというより、流路変更といった大工事がなかったことを暗示しています。
わたくしもこの説をとりたいと思っています。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
今朝の父の一枚です(^^)v
モズの瞳に光(キャッチライト)が入っているのに喜んでいました。