2020年10月21日水曜日

青空が広がり…

青空が広がっていました。
この青空も今日までかな?
季節が進んでいるようで、キンモクセイの花が散り始めていました。
美智子さまのお言葉
今まで出来ていたことを授かっていたこととお思いになるのか、お出来にならないことを「お返しした」と表現され、受け止めていらっしゃるご様子です〟(「上皇后陛下のご近況について」より 宮内庁)

に多くの人たちが感動されています。
中島岳志さんは

美智子さんの主体は、与格的なのだと思います。
私が能力を所有しているのではなくて、能力は私にやって来て宿っているもの。
私は「器」だという感覚を強く抱いていらっしゃるのだと思います。


矢野顕子さん

わたしも真似して、そう思うことにしましょう。
10月21日
 源義経が奥州(おうしゅう)から黄瀬(きせ)川にかけつけ、兄と対面した。 1180(治承<じしょう>4)年

 20日、平維盛(これもり)の大軍は富士川をはさんで源頼朝軍と対陣したが、夜、飛び立った水鳥の音に驚いて京都へ逃げ帰った。
 21日、頼朝は黄瀬川に陣を返した。
ここへ一人の若者が鎌倉殿に会いたいといってきた。
とりつぐものもなく、時が過ぎるうちに、頼朝がこれをききつけた。
奥州の九郎ではないかと思い対面したところ、果して義経であった。
二人は懐かしの涙を流してめぐり会いを喜んだ。
『吾妻鏡(あづまかがみ)』の伝える黄瀬川の対面である。
義経はうまれた年に平治(へいじ)の乱にあい、のち奥州藤原氏を頼ったが、兄頼朝の挙兵(きょへい)を聞いて駆けつけたのであった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
頼朝の約束」(小学6年 動画2分1秒)

源義経」(小学6年 動画1分36秒)

どうも頼朝は冷血で非情な人間に思えて好きになれないのです。
どちらかと言えば、頼朝よりも後白河の方が腹黒い人物だと思います。
頼朝も後白河もその報いを受けているような…
頼朝の天下草創 日本の歴史09』より「弟たち」と「頼朝の死」を転記しますφ(..)
第1章 幕府開創
 1 頼朝という人間
 弟たち


 これほど深くかつ遠くに及ぶ頼朝の政治的配慮は、誰にでも感得できるものではない。
しかも皮肉にも、その点では近親の最たるものである範頼(のりより)と義経が、実はもっとも鈍かった。
それはあるいはむしろ近親ゆえだったかもしれない。
それが骨肉の悲劇を生む原因となった。
(『頼朝の天下草創 日本の歴史09』山本幸司 講談社学術文庫 2009年)
 頼朝の直系に代わりうる可能性の大きさからいえば当然かもしれないが、頼朝は他の一門以上に範頼・義経に対しては嫡庶(ちゃくしょ)の別を厳しく要求していた。
それに対して、二人の弟、中でも義経は、そうした頼朝の態度を理解できなかったようである。
平氏との勝敗も定まらぬ時点で、すでにその兆候は見えていた。
すなわち鶴岡若宮宝殿の上棟式(じょうとうしき)に臨んで、頼朝が工匠に与えるための馬を引くよう義経に命じたところ、義経は嫌がった。
すると頼朝は役柄が卑しいと思って嫌がるのだろうといって重ねて厳命したので、義経は急いで座を立って二匹の馬を引いてきたという一件である。
 公然の儀式の場における、ことさらな差別の誇示として、この件は有義の場合と共通する。
そして頼朝は範頼と義経とを競わせるかのように、義経がしきりに朝廷の官職に吹挙(すいきょ)されることを望んでいたのをあえて許さず、先ず範頼を吹挙した。
それに対して、義経の側はかえって競争心を煽(あお)られて官職に執着を見せ、その結果、頼朝の許しを得ぬままに後白河(ごしらかわ)によって左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任官された。
これが頼朝を怒らせたため、義経は一旦、平氏追討軍から外され、やがて改めて追討の任について平氏を討った後もなお、頼朝の怒りは解けない。
せっかく平宗盛(たいらのむねもり)以下の捕虜を連れて鎌倉へ赴きながら、鎌倉へ入ることを許されずに空しく引き返さざるを得なかったのである。
その際にしたためたのが有名な「腰越状(こうしごえじょう)」であったが、その中で義経は自分の功績に免じて許すよう懇願するだけであって、頼朝が譴責(けんせき)した真意は理解できていなかったようである。
 平氏追討にもっとも功のあった義経を追い詰め、最後は奥州藤原氏のもとで悲壮な最期を遂げさせた頼朝の態度を、非情だとする捉え方が後世では多い。
だが、頼朝の付けた軍目付(いくさめつけ)を尊重せず、鎌倉への報告も怠り、果ては後白河に重用され、頼朝の許しを得ずに官職に就くといった義経の行動は、頼朝から見れば、やがて一族の分断を招き、同族が相分かれて戦った保元(ほうげん)の乱の過ちにつながるものでしかない。
 壇ノ浦(だんのうら)の合戦の前に、義経と梶原景時(かじわらかげとき)が船の舳先(へさき)にも櫓(ろ)を立てるかどうかで争った「逆櫓(さかろ)」の事件で、景時が義経を恨んで頼朝に讒言(ざんげん)したという、広く流布した説がある。
だが、「逆櫓」事件の真相はどうあろうと、義経と頼朝とで肉親というものについて相異なった感覚が存在する以上、早晩、義経は同じ運命をたどったに違いない。
 範頼の方は、義経と頼朝との対立に学んだと見え、せっかく任じられた三河守を辞任して控えめな態度を示していた。
だが、1193年(建久<けんきゅう>4)8月、反逆の嫌疑によって頼朝の尋問を受け、起請文(きしょうもん)を書いて献じたが、かえってその文言を頼朝に見咎(とが)められてしまう。
その挙げ句、家来を頼朝の寝所(しんじょ)床下に忍ばせて様子を探らせたという一件により、伊豆へ送られて誅殺された。
 『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によれば、この事件の起こりは、同年5月に曾我(そが)兄弟(祐成<すけなり>・時致<ときむね>)が工藤祐経(すけつね)を富士野の狩場で討ち取った仇討事件に際して、頼朝が討たれたという風説が鎌倉にいた頼朝の妻政子(まさこ)のところまで流れ、政子が大いに嘆いたのを、留守役として鎌倉にいた範頼が、範頼が健在であれば何事も大丈夫だと慰めた。
ところがそれが、かえって範頼に天下を手に入れようという下心がある証拠だとされてしまったのだという。
この説の真偽は不明だし、唐突で揚げ足取りのような印象を受ける。
だが、自己を頼朝に代わる存在として位置づけた発言が事実だとすれば不用意であり、頼朝をもっとも刺激する類(たぐい)の言葉であるには違いない。
 後世に至るまで頼朝を酷薄非情な人物として印象づけた苛烈な態度は、彼本来の自然な感情の発露と見るべきではない。
もちろん孤独で不安定な境涯の中で、猜疑心(さいぎしん)が必要以上に強くなったという一面はあっただろう。
だが、これまで挙げたような事例は、頼朝の中に厳として存在する原則を侵した者に対して、その苛烈さが発動された結果として受け止めるべきなのである。
第三章 頼家・実朝と政子
1 頼家の失政と廃位
 頼朝の死


 1199年(正治<しょうじ>元)正月13日、源頼朝は数え53歳で世を去った。
『吾妻鏡(あずまかがみ)』は、詳しい事情に触れることを避けるかのように、直接、死を伝える記事は載せていないが、諸書の記事から、死没の年月日について疑う余地はない。
 死因は、稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻の追福のために相模川の橋を新造し、その供養(くよう)が前年の10月に行われたので頼朝も列席したが、その帰り道で頼朝は馬から落ち、その後しばらくして亡くなったとされている。
しかし、落馬そのものが単なる事故なのか、それとも脳溢血(のういっけつ)のような急病だったのか、あるいはまたそれ以上に暗い背後の事情があったのかは判断できない。
 いずれにせよ、急死であったことは確かなようで、とりわけ京都の人びとが驚いた様子は、『愚管抄(ぐかんしょう)』に載せる「夢か現(うつつ)かと」人びとは思ったという慈円(じえん)の形容や、『明月記(めいげつき)』に藤原定家(ふじわらのさだいえ)が残した「頓病(急病)か」という言葉に表れている。
そして急病であり、その意味で尋常でない死であったがゆえか、頼朝の死は彼によって滅ぼされた人びとの怨霊(おんりょう)の祟(たた)りだとする見方も行われた。
 例えば『保暦間記』は次のような話を載せている。
すなわち、橋供養の帰途、頼朝が八的ヶ原(やまとがはら)にさしかかると、志田義広(しだよしひろ)・義経(よしつね)・行家(ゆきいえ)などの亡霊が現れて頼朝とにらみ合いになり、さらに稲村ヶ崎(いなむらがさき)に至って、海上に10歳ばかりの童子姿で安徳(あんとく)天皇の亡霊が現れ「今こそ(頼朝を)見つけたぞ」と叫んだ。
その後、鎌倉に帰って頼朝は病みついて亡くなったが、これは老死ではなく平家の怨霊のせいであり、多くの人を滅ぼしたためだというものである。
八的ヶ原というの現在の藤沢市辻堂(つじどう)付近の海岸に当たるが、この場所は、生虜(いけどり)になった平家関係者が鎌倉への行き帰りに通った道筋であり、頼朝に鎌倉入りを拒まれた義経が弁明の状を捧(ささ)げた腰越(こしごえ)にも近い。
さらに頼朝の本拠である鎌倉の西端から出たところで、頼朝を狙(ねら)う怨霊が出現する場所として条件は揃(そろ)っている。
 権力者の不幸の背後に、その人物によって敗亡した人びとの怨霊の祟りを見るのは、当時の社会にあってはごく当然のことでもあった。
とりわけ大量の犠牲者を生んだ、保元(ほうげん)・平治(へいじ)から治承(じしょう)・寿永(じゅえい)にかけての争乱期には、こうした噂(うわさ)が広く行われ、治承・寿永の争乱自体が、崇徳(すとく)上皇・藤原頼長(ふじわらのよりなが)ら魔道に堕ちた保元・平治の乱の敗者たちの怨霊のせいだとまで考えられていた。
 この争乱の時代を生き延びて天寿(てんじゅ)を全うした後白河(ごしらかわ)さえ、死を前にして痢病(りびょう)に苦しみ、怨霊の恐怖に怯(おび)えながら、崇徳・安徳をはじめとする戦乱の犠牲者たちの菩提(ぼだい)を祈る措置を講じている。
頼朝もまた生前、崇徳の慰霊や、奥州合戦の死者の鎮魂に努めたりしていたが、死の数年前からの『吾妻鏡』には、怨霊の祟りを窺(うかが)わせる怪異についての記事が散見される。
そうした時代にあっては、平氏を逐(お)い、源氏一族を粛清し、弟たちをも滅ぼした頼朝の死に関して、怨霊の出現が取り沙汰(ざた)されるのは必然だったともいえるのである。
(『頼朝の天下草創 日本の歴史09』山本幸司 講談社学術文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ホウキポプラだと思いますが、ゴッホの糸杉を思い出しました(*´▽`*)
午後から心臓リハビリでした。

リハビリ室入室前のアンケート調査を記入。

本日から2週間以内の症状について教えてください。
①のどの痛み、咳や痰などのかぜの症状
②37.5℃以上の発熱
③新たな息苦しさ(持病の息切れ、息苦しさが悪化していない場合は「いいえ」)
④味覚や嗅覚に異常
⑤下痢等の消化器症状
⑥感染者との接触
⑦海外からの帰国者との接触
⑧同居家族に①~⑦「はい」の有無
⑨介護施設等に入所中の場合、 

公園でリハビリ仲間の方と新型コロナの初期症状の多くの項目が当てはまるなぁと話していました。
今のところ、発熱も嗅覚・味覚異常はないけど…
新型コロナ 典型的な症状、経過、重症化のリスク、受診の目安」(忽那賢志 10月11日)

30分間のトレッドミルで歩行距離は1.7km、消費カロリーは108kcalでした。