2020年8月30日日曜日

体調がいまいちなので…

夜の気温は、29度から28度で熱帯夜だった。
朝から気温が高く体調管理が大変です。

猛烈な暑さ 一方で激しい雷雨も」(関西NHK)

夜11時くらいにクーラーで涼しいのに汗がふき出していて目が覚めました(冷や汗?)。
血圧を測ると上が146で、下は86。
なんとか眠ることができて、5時前にいつものように血圧と体温の測定をすると、体温は36.5度だけど血圧の上が137、下が89ありました。

暫くすると135前後を行ったり来たり、食事は普通に食べることができました。
明日は、虫歯の治療があり、リハビリ散歩は休みなので、短めに歩くことにしました。
発病以来、体調が良かったことはありません。
退院直後は、不安で診察日以外にも病院に行っていましたが、少しずつ、これくらいなら様子をみていたらいいというのが分かるようになってきました。
主治医の先生や心臓リハビリで理学療法士の方が親切に対応してくださったおかげです。
今日も帰ってから測ると上が127、下が80に下がっていました。

ホシホウジャク(星蜂雀)がジーッとしている…
口吻(こうふん)がとれなくなり、力尽きたのかな?
何度か、口吻がひっかかって苦労している姿を見たことがあります(2016年6月2日の記事
8月30日
 諏訪(すわ)の製糸会社山一林組(やまいちはやしぐみ)のストライキがはじまった。 1927(昭和2)年

 この日の午前10時、諏訪湖畔にある山一林組の3工場で、工員1357年(うち女工1213名)がストライキに入った。
会社側が女工らの要求した労働条件改善・賃金引上げ・労働組合への参加を認めること、などを拒否したからである。
 争議は翌月17日まで続き、製糸労働者の最大の争議に発展し、全国の労働者がこの争議を支援した。
しかし、団結を誇ったこの争議も、翌月7日の会社側の工場閉鎖の発表や寄宿舎の閉鎖によって切りくずされたうえ、幹部の裏切りなども重なり、ついに労働者の敗北に終った。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
父は、子どもの頃に蚕の世話をしていたそうです。
濡れた桑の葉を与えると蚕が病気になったりすると話してくれた。
また、伯母は、小学校4年生で鹿児島へ奉公に行き、家族の生活を支えました。
小学校を卒業する年齢には、愛知の紡績工場で働いていたそうです。

富岡製糸場」(動画1分26秒)

野麦峠」(動画1分51秒)

日本の歴史22 政党政治と天皇』より「紡績女工と製糸女工」を転記しますφ(..)
第5章 改革のうねり
 紡績女工と製糸女工


 1930年(昭和5)の国勢調査によると、女子の職業従事者のうち、60パーセント近くを占めていたのは、依然として農業を本業とするものであった。
次いで多いのが工業従事者で、その過半は製糸・紡績・織物などの繊維産業従事者(女工<じょこう>)であった。
これは、日本の工業生産額が、1931年の満州事変以前においては繊維産業が最も多く、輸出産業として一貫して重要であったことも反映していた。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)
 女子の職業において、それに次ぐのが、家事(下女)、物品販売業で、料理飲食・貸席(料金を取って座敷を貸す商売)・置屋(おきや<芸者などを抱えていて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店>)の女給・娼婦などのサービス産業も、かなりの割合を占めている。
以上に比べると、割合はかなり小さいが、教員・医療(女医・看護婦など)、公務や、交通(バスの車掌など)なども、1910年代から30年前後にかけて増大し、一定程度を占めるようになった。
 女子の繊維産業従事者は、小作農民など貧しい家庭の出身で、小学校卒業程度の教育で親元を離れ、寄宿生活を送った。
「女工」という言葉は、女給や娼婦と並んで蔑称(べっしょう)でもあった。
大島栄子氏(*)によると、紡績工場は二交代制昼夜業であった。
夜業にあたる女工は、夕方6時から朝6時までの徹夜の11時間労働を6日間連続し、1.5日の後に昼業に交代するしくみである。
深夜業は女工たちの健康を害し、夜業期間に減少した体重が、昼業期間となっても回復しないこと等が報告されている。
このため、1929年7月1日、改正工場法で、女子と16歳未満の年少者が午後10時から午前5時までの徹夜作業を行うことが禁止された(官庁の許可を得れば午後11時まで就業できる)。

(*)大島栄子「大戦間期の女子労働」女性史総合研究会編『日本女性史5』(東京大学出版会、1982年)
 深夜業が廃止されると、紡績女工の健康は回復した。
彼女らの生活は、前番が午前5時から午後2時の就業、後番が午後2時から11時までの就業の、8時間半労働となった。
紡績女工の賃金は、出来高払いが中心であった。
これは、勤労意欲を刺激するためであった。
賃金は1929年まで、1日平均1円前後(現在の4千円程)であったが、深夜業廃止の結果、労働時間が11時間から8時間半に短縮されたことや不況が加わって、31年には81銭、33年には68銭まで低下した。
 紡績女工は、29年まで月約30円弱の収入であるが、巡査の初任給45円(1920年、35年)や小学校教員の初任給40~55円(1920年)、45~55円(1931年)の約65パーセントにすぎない。
巡査は高等小学校卒業程度(合計で8年の教育)、小学校教員は師範学校卒業(同、12~13年の教育)の資格が要る。
6年からせいぜい8年の教育しか受けていない彼女らに比べ、学歴が少し上である。
また、庶民の家庭の少年にとって、巡査になることは「立身出世」であり、かなりの競争があった。
これらのことを考慮しても、昼夜二交代11時間労働の辛さに対して、彼女たちの賃金はきわめて低かった。
 それでも紡績工場は都市の大工場であり、女工は自ら待遇のよい工場を求めて移動したり、労働組合に待遇改善を訴えたりすることができた。
紡績業の経営者も、豊かな資本力を背景に、福利施設を改善したり、継続して勤務する女工に割増金を与えたりするなどして、女工をつなぎとめた。
 これに対して製糸(生糸の製造)工場は、原料の蚕(かいこ)を手に入れやすい養蚕地帯に立地し、中小企業家の経営するものが多く、都市の労働運動の影響を直接受けることもなかった。
女工の移動に関しても、長野県の岡谷(おかや)を中心とした製糸工場の経営者たちが、職工登録制度を作り(1922年まで15万人、長野県内で5万人を登録)、同盟に加盟している製糸工場に一度就業した女工は、同盟加盟の他の工場に移動することが事実上できなかった。
これらのため、製糸業の女工の待遇は、さらに悪かった。
 製糸工場の登録制度については、1925年になると、デモクラシー潮流のなかで、地元の『信濃毎日新聞』のみならず『万朝報(よろずちょうほう)』『東京朝日新聞』なども非人道性を批判するなど、世論が高まり、1926年2月18日、長野県が命じて廃止させた。
その後、長野県では、同年12月に、内規として1人1日60銭以上の平均保障賃金と、30銭以上の最低保障賃金(半月通算)を決定した。
 しかし、ある水準以下の糸を挽(ひ)いた女工に対する罰制度が残っていたので、30銭以上稼いだ日も、水準以下の日の埋め合わせに使われ、半月4円50銭(月9円)の最低賃金を保障しているにすぎなかった。
このため、1929年10月、長野県は罰制度の廃止を提起した。
翌30年、長野県製糸業者はそれを受け入れ、1日最低30銭の稼ぎを女工に保障し、別の日にそれ以上稼いだ額はそのまま保障されることになった。
このように、製糸女工の待遇も少しずつ良くなっていった。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)