2020年10月2日金曜日

秋晴れ…

今朝も秋晴れです。
でも、雲が浮かんでいないのが淋しいなぁ…
キジバトが小枝をくわえていました。
巣作りをするようです。
これから寒くなるのに子育てができるのかと思うのですが
鳥類は、ヒナが食べられるエサが豊富な時期にしか繁殖しない。
しかしハト類は、親鳥が体内で分泌する物質・ピジョンミルクをヒナに与えるので、親鳥が十分に採食できれば、いつでも繁殖できる。」(森と水の郷あきた

1時間ほどの短い散歩でも野鳥の姿を見るようになりました。
今朝は、カワセミやヒタキの仲間を見ました。
望遠レンズで写したいのですが、もうしばらくは我慢しようと思います。
岩波書店のTwitter

「私は学問の自由という観点からだけでなく、この決定の経緯を知りたい」
「新しい学術会議が発足する2日前の9月29日夕に、任命拒否を連絡してくるというのは、どうしたことだろうか」

学術会議の任命を外された加藤陽子さんが、
毎日新聞にコメントを寄稿されています。
中島岳志さんのTwitter
「選考理由はコメントを控える」がポイント。
メディアや研究者が「あのときの発言が引っかかったのではないか」「いやあの発言だ」と詮索し、自主規制のハードルをあげていくことを狙っている。
明確な理由が提示されないほど、忖度は加速する。
日本学術会議 会員の一部候補の任命を菅首相が見送り」(NHK)
昨日、最初、ネットで見た時に意味がわかりませんでした。
戦後、このような学問の自由を露骨に侵すことはなかったと思います。
これって戦前の美濃部達吉の「天皇機関説問題」や滝川幸辰の「京大滝川事件」と同じ。
言論弾圧の戦前回帰が加速している。
そして政権が目指している国家像は中国なんだと改めて実感する。

#日本学術会議への人事介入に抗議する

10月2日
 江戸を直下型地震がおそった。 1855(安政<あんせい>2)年

 夜10時ごろ、ゴオゴオという地ひびきとともに、マグニチュード6.9の強い地震が江戸とその周辺をおそった。
震源地は、北緯35.8度、東経139.8度で、被害は半径20キロ以内という、直下型地震であった。
日本橋茅場町(かやばちょう)に住んでいた佐久間長敬という若者は、ちょうどふとんに入ったばかりのところに地震がおこり、「ねまきのままふとんごと1メートル以上なげあげられた。雨戸も障子もふすまもガラガラとはずれ、壁はおちてくるし」と書いている。
死者は1万人以上、こわれたり焼失した家は1万4346戸に及んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
 『江戸の災害史』より「安政江戸地震」を転記しますφ(..)
続いて現代のようにSNSのない江戸庶民に情報を提供した鯰絵について
鯰絵―民俗的想像力の世界』より解説と訳者注を一部転記しますφ(..)
なお鯰絵を紹介しているサイトがあります。
鯰絵コレクション」(国際日本文化研究センター)
第4章 「徳川システム」の疲労
 安政江戸地震

 
 翌安政2年(1855)10月2日、江戸を中心とした大きな地震が起きた。
東京湾北部の30~50キロメートルの深さで起きた直下型地震で、M7.0~7.1。
江戸では元禄地震以来の大地震であった。
とくに軟弱地盤の下町で家屋の倒壊が目立った。
その数は1万4346軒、死者は約1万人と推定されている。
地震直後に市中30か所以上で火災が発生した。
吉原はほぼ全焼し、遊女や客など1000人余が死亡したという。
地震が起きたのが午後9時過ぎの夜間であったために、被害が大きくなった。
(『江戸の災害史』倉地克直 中公新書 2016年)
 大名屋敷も大きな被害を受けた。
諸藩は「海防」などで出費がかさむなか、領民などの献金に頼りながら藩邸の再建に努める。
幕府は、幕閣など12家には拝借金を認め、旗本など無利息10か年の恩貸をを行なった。
下層の御家人層には扶持米の支給も行っている。
江戸の町人の救済は町が担った。
町会所は市中5か所に御救小屋(おすくいごや)を設け、被災者への施行を実施した。
この施行には有力商人250余人から1万5000両の合力があったという。
 安政江戸地震の特徴は、瓦版の氾濫現象である。
それらは速報性を重視した無許可の出版物で、弱小版元(はんもと)・戯作者・浮世絵師たちの商魂が生み出したミニコミであった。
それらの内容は次のようだ。
 一つは、被害状況の情報化である。
これは以前から災害時の瓦版で中心となっていたもので、安否確認や見舞いのための情報、職人の需要情報などとして有用であった。
国元への情報伝達のためにも利用された。
 二つは、救恤(きゅうじゅつ)の情報。
これは被災者に焚き出し・救米・御救小屋・施行などの情報を提供した。
それは、まだ施行に合力していない富裕層への圧力にもなっただろう。
 三つは、地震そのものへの関心を満たすもの。
地震の予兆や原因、過去の事例など、今回の地震を理解するために必要な知識を提供した。
従来も知識人たちが私的に記録に書いていたことが、広く民間に提供され、共通の社会的な「知」とされるようになった。
 四つは、いわゆる「鯰絵」が大流行したこと。
鯰絵が作られた背景には、鹿島神宮の要石(かなめいし)に関わる民間伝承があった。
この要石は地中深く地軸にまで達していて、地震を起こす鯰を押さえ込んでいる。
ところが鹿島神は10月神無月(かんなづき)には出雲に出かけ、その留守をエビスに託したのだが、その守りが不十分であったために鯰が暴れ出して地震が起きたのだという。
この伝承では、要石・鹿島神・鯰・エビスがキーワードとなっている。
それらをさまざまに組み合わせて、多様なバリエーションの鯰絵が生み出された。
 要石と鯰の伝承は古くからあり、江戸時代には民間にも広く流布していたが、瓦版に鯰が登場するのは、北原糸子によれば文政13年(1830)の京都地震のときからだという〔『安政大地震と民衆――地震の社会史』三一書房、1983年〕。
それが安政江戸地震に鯰絵として大流行した。
その種類は300とも400とも言われる。
そこには、庶民の風刺や批判・期待の意識が籠められていた。
鯰絵は本屋組合の改めを受けない無許可出版であったため、幕府が発行禁止の取締りを強化すると急速に姿を消した。 
(『江戸の災害史』倉地克直 中公新書 2016年)
解説 宮田登
(略)
安政2年(1855年)10月2日に、大都市江戸に起こった大地震を契機に、世に鯰絵と称する多色摺の民俗絵画が大量に出回った。
本書をひもとけば分かるように、その画題の多様性は、研究素材としてまことに面白く、垂涎(すいぜん)の的となり得るものだ。
(『鯰絵―民俗的想像力の世界』C.アウエハント著 小松和彦他訳 岩波文庫 2013年)
 だが不思議なことに、この鯰絵を正面からとり上げ、体系的に論じた研究者は本書の著者C.アウエハントが最初であり、それまで、興味深い風刺画として関心を寄せた若干の研究者たち、たとえば藤沢衛彦のような民俗学者の手によって、資料の私的な収集しかなされていなかったということである。
 日本研究のために来日した著者が、こうした鯰絵を本格的にとり上げ、日本民俗学上の成果を踏まえながら、かつ文化人類学的に分析した本書を、外国人による日本研究の優れた到達点を明示したものであることは大方の認めるところであろう。
(後略)
訳者あとがき
 江戸時代末期の安政2年(1855年)10月2日の夜10時頃、江戸湾内を震源地とする直下型の大地震(マグニチュード6.3と推定されている)が江戸をの町を襲い、多くの被害をもたらされた。
その直後、鯰の怪物を描いたユーモアと風刺に富んだ版画が売られ、庶民がこぞってこれを買い求めて一大ブームの観を呈したと伝えられている。
これが今日「鯰絵」と呼ばれているものである。
 下級の浮世絵師が下絵を描いたと考えられるこの「鯰絵」は、芸術性に重きをおいたものではなく、江戸庶民の一時的な欲求を満たすもので、護符や守り札として用いられたものも中にはあったが、多くは見たり読んだりして楽しんだのち保存されることなく捨てられてしまったらしい。
このため、今日まで残っている「鯰絵」はきわめて少なく、しかもその多くが海外に流出してしまっている。
残念なことにも「鯰絵」の最大のコレクションは、100点近くの版画を所蔵するオランダのライデンにある国立民族学博物館のものである。
(後略)
(『鯰絵―民俗的想像力の世界』C.アウエハント著 小松和彦他訳 岩波文庫 2013年)