2020年10月3日土曜日

ちょっとの違いで…

猛暑の時に比べて涼しくなっているはずなのに
なんか蒸し暑く感じるのは、楽な方に体が慣れてしまっているからだろうな…
昨日は、青空が広がっていたけど
今朝は、雲がいろいろ変化して面白かったです。
落とし物が小枝にかけてありました。
訪問者が少ないので役にはたたないと思うけど(^^ゞ
トランプ大統領 軍の病院に移る「問題ないか確認してもらう」〟(NHK)

大統領は回復すると思います。

トランプ大統領の新型コロナ語録」(AFP 2020.10.2)
7月28日
抗マラリア薬ヒドロキシクロロキンについて。
「信じている。私は服用した。知っているだろうが、私は14日間、服用した。で、ご覧の通り、ここにいる。早い段階のほうが効くと思う」


PCR検査も毎日受けていたようです。
そのおかげで早期発見できて、アメリカの最新の治療を受けているのですから。
日本では、自覚症状があっても検査を受けることができない、待たされて重症化している例もあるようです。
アメリカで死者が多いのは、格差の拡大も一因だと思います。
十分な治療を受けることができない貧困者が重症化し、死に到っていると思います。
坂本史衣さんのTwitter

4年前に肺炎のヒラリーを嘲笑する大統領の動画が発掘される。
What goes around comes aroundのような。
医療者としては1日も早い回復をお祈りします。
お元気になられたら、是非ユニバーサル・マスキング、ソーシャル・ディスタンシングの推進を。


これ覚えている!
人の不幸を揶揄してはいけません。
いつか我が身に降りかかってきます。
新型コロナに感染した人を非難していけません。
ウイルスは人を選びません!
日本初の「ファシリティドッグ」 ベイリーが死ぬ 横浜〟(NHK)

認定NPO法人シャイン・オン・キッズのTwitterに

ベイリーのたくさんのお友だち、医療従事者皆さま、ボランティア皆さま、そしてすべてのご支援者の皆さまへ。
ハンドラーの森田優子より、大切なお知らせがあります。
名誉ファシリティドッグのベイリーは10月1日14時25分、お空に旅立ちました。
12歳と10ヶ月になるところでした。(人でいうと80代)


これまでよく子どもたちのために尽くしてくれました。
天国で待っている子どもたちと一緒に遊んであげてください。
10月3日
 大津皇子(おおつのみこ)が謀叛(むほん)の疑いで捕えられ、自殺した。 686年

 天武(てんむ)天皇の第三皇子大津皇子は、頭がよく、容姿もすぐれていた。
幼少のころから人々の信頼をかちえ、683年には父の天武天皇をたすけて政務をとるようになった。
 ところが、686年9月、天武天皇が世を去ると、その殯宮(もがりのみや)の場において皇太子の草壁(くさかべ)皇子と、皇位の継承の問題で、決定的な対立をひきおこした。
 そのため、大津皇子は謀叛の疑いありとされて、10月2日逮捕、翌3日には自殺させられた。
父の死によって庇護(ひご)を失った皇子は、衆望をにないながら、悲劇の生涯を閉じたのである。
 『万葉集』に収める、

  ももづたふ磐余(いわれ)の池になく鴨(かも)
     今日のみ見てや雲隠りなむ

は死にのぞんだ皇子の悲痛な歌である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
発病前は、何度か二上山に登り、大津皇子の墓を訪ねました。
万葉集で好きな歌といえば大伯皇女の歌です。

万葉集と古代史』より大津皇子に関する記事を一部紹介しますφ(..)
天武・持統朝の宮廷の人びと
 悲運の人大津皇子―その没落の過程
 大津ひそかに伊勢へ行く


 草壁と大津とが政治の上でも恋愛の上でもこうした対立の状態にあるうちに、天武天皇は病に臥(ふ)し、朱鳥元年(686)7月15日、「天下の事、大小を問わず、悉(ことごと)く皇后と皇太子に啓(まう)せ」と勅し、9月9日に没した。
天武はこの年の正月1日や2月1日に大極殿・大安殿などに出て、宴や授位を行なっているから、長い病気ではなかったが、書紀の前年の天武14年9月条に「天皇、体不予(みやまひ)したまふ」とあり、このころから病気がちであったと思われる。
宮廷には皇位の継承をめぐって、さまざまな憶測やうわさが囁(ささや)かれ、それとともに大津皇子を監視する鸕野(うの)皇后の眼はきびしくなったであろう。
万葉集にみえるつぎの歌はそのころのものと見てよかろう。

   大津皇子、窃(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯
(おほく)皇女の作らす歌二首

 我が背子(せこ)を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし

 二人(ふたり)行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
         (巻二―105・106)
(『万葉集と古代史』直木孝次郎 吉川弘文館 2000年)
 大伯は大津と2歳ちがいの同母の姉で、天武3年(674)10月、14歳で伊勢大神に仕えるため斎宮(さいぐう)として伊勢へ下った。
その大伯に会いに大津が伊勢へ下り、おそらくひと晩語りあかし、翌日未明に大和へ帰る大津を見送るに際しての大伯の歌である。
二首目の「秋山」は固有名詞ではなく、秋の山であろう。
それで大津の伊勢行きは、天武の病状が重篤になった時、または逝去直後の8~9月のころと推測される。
 皇位継承の問題が緊迫の度を深めた時期である。
大津の一挙一動は鸕野だけではなく、宮廷の貴族・官人の注目の的であったにちがいない。
そういうときに、都を抜け出して伊勢へ行くのは、伊勢が壬申の乱の際、大海人側の勢力基盤の地の一つとなったところだけに、大津への疑惑を深める行為である。
大津もそれはよくわかっているはずであるが、よほど思い余ったのであろう。
それゆえに、「窃かに」下ったのである。
この語は前述したように密通のイメージがあるが、この場合はそうではあるまい。
謀反に関連するので「窃かに」という語が用いられたとする説があるが、私はそれは短絡の意見であると思う。
 養老令仮寧(けにょう)令請仮条に、五位以上の者が「畿外に出でんと欲(ねが)はば奏聞せよ」という規定がある。
大宝令にもほぼ同じ規定があったらしく、唐令には対応する規定は見られない(一部類似の規定はある)。
五位以上、つまり中級以上の官吏・貴族は奏聞(そうもん)して天皇の許可を得なければ畿外には出られないのであり、その慣例は大宝令成立以前の天武朝にも存したと思われる。
伊勢はむろん畿外である。
天武の死後はもちろん、重病の床にある時に、伊勢へ行きたいと言っても勅許が得られるとは思われない。
それゆえ大津は「窃かに」伊勢に下ったのであって、「窃かに」がただちに謀反と結びつくのではない。
 思うに大津は謀反の計画を胸にして伊勢へ行ったのではあるまい。
鸕野のめぐらした監視網のもとでは、謀反を思い立っても実行に移すことは不可能であろう。
といってこのまま手をこまぬいていても、鸕野はなんらかの口実をもうけて、自分を謀反の罪に陥(おとしい)れることは、十分にありうる。
どちらにしても前途に待つものは極刑しかない。
思い悩んだ末、大津は自分の苦しい心中を愛する姉に聞いてもらいたく、危険を承知で、朝廷に断りなく、窃(ひそ)かに伊勢へ下ったのではなかろうか。
津守通に見あらわされることを承知のうえで石川女郎(いしかわのいらつめ)と交わったのと通ずる心境である。
 ただし鸕野が、実際にそこまで細心巧緻に大津を見張っていたかどうかはわからない。
それは大津の胸に宿った疑心暗鬼にすぎないかもしれない。
しかし大津は人目(ひとめ)を忍んで伊勢行きを決行し、おそらく鸕野はそれを察知したであろう。
書紀は天武の死後15日めの9月24日条に、

  大津皇子、皇太子を謀反(かたぶ)けむとす。

と記すのは、この伊勢行きのことを指すのかもしれない。
 鸕野は伊勢を往復した大津の心中は知らないが、このような危険な行動を取る人物を放置しておくわけにはいかない。
彼女はじっと断を下す機会を待った。
 河島皇子、大津の謀反を密告

 機会を与えたのは、天智天皇の子・河島(川島)皇子の告発であろう。
懐風藻の河島皇子の伝につぎのように記す。

  皇子は淡海帝の第二子なり。志懐は温裕にして、局量は弘雅(度量が広く正しい)。始め大津皇子と莫逆の契(ちぎり<たがいにさからわない約束)を為す。津(大津皇子)の逆を謀るに及び、島則ち変を告ぐ。
 河島皇子は大津と親交があるので、その心事を知り、密告したのであろう。
なぜ河島が親友の大津を告訴したかはつぎの章で述べるが、理由はなににせよ、鸕野(うの)は得たりとばかりに大津を謀反の罪で捕えた。
書紀には大津が謀反したという9月24日から八日目の十月二日の条(ただし天武前紀ではなく、持統前紀)に、

  皇子大津の謀反、発覚(あらは)れぬ。皇子大津を逮捕す。

とある。
同日、直広肆(じきこうし<浄御原令制の位階。従五位下相当>)の八口朝臣音橿(おとかし)ら三十余人も連座して捕らえられた。
翌3日、早くも大津は訳語田(おさだ<桜井市戒重・橿原市膳夫のあたり>)の舎で死を賜わった。
時に年24。
妃山辺(やまべ)皇女は髪をふり乱し、素足のまま駆けつけて殉死し、見る者皆すすり泣いたと、書紀は記している(既述、3ページ)。
山辺皇女は天智天皇の娘。
母は、有間皇子をあざむいて死に追いやった蘇我赤兄(あかえ)の娘・常陸娘である。
 しかし本当に大津は謀反を企てたのであろうか。
同じ10月の末、大津に連座した三十余人は、大津の側近に仕えていた帳内(とねり)の礪杵道作(ときのみちつくり)と、大津に謀反をすすめたとされる新羅僧行心(こうじん)を伊豆と飛騨に流した他は、すべて赦免している。
のみならず3年後の持統3年(689)2月には、赦免されたもののうちの中臣朝臣臣麻呂(おみまろ)と巨勢(こせ)朝臣多益須(たやす)は判事という裁判に関係する重要な職に任用されている。
大津皇子の謀反一件は追いつめられた大津皇子の軽率な行動を種子(たね)にして作りあげられた疑獄事件ではないかと思われる。
 薄命の皇子

 けれども死刑は実行された。
辞世の漢詩と短歌が懐風藻と万葉集に残っている。

   臨 終
 金烏(きんう)西舎に臨み 鼓声短命を催(うなが)す 泉路賓主なく この夕(ゆふべ)家を離れて向かふ
 (金烏―太陽、西舎―西の山、泉路―死後の国へ行く道)

  大津皇子、死を被(たまは)りし時、磐余(いはれ)の池の堤に涙を流して作らす歌一首
 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ (巻三―416)
 初冬の風がつめたく膚をさす夕ぐれであったことが思われる。
しかしこの歌についても、皇子の死をいたむ後人の仮託の作とする説がある。
 鸕野皇后(この時点では皇太后)は安心して草壁を皇位に即けることができるはずであったが、2年2ヵ月の及ぶ天武の長い殯(もがり)が終って葬儀が完了し、いよいよ即位の段どりが整ったその翌年(持統3年)の4月に草壁皇子は逝去した。
享年28、遺児軽皇子(後の文武天皇)はまだ7歳であった。 
(『万葉集と古代史』直木孝次郎 吉川弘文館 2000年)
今朝の父の一枚です(^^)v
エゾビタキを写していました。
父は、野鳥に会えるのを楽しみにしていますp(^^)q