2020年10月6日火曜日

曇り空だった…

天気予報を見ていると晴れてくれるかなと思ったけど
どちらかと言えば曇りでした…
ノウゼンカズラ(アメリカノウゼンカズラ?)に実がなっているのに初めて気がついた。

●意外に多いカメムシの仲間
 「カメムシ」というと、みなさんはどんなイメージをもつでしょうか。
おそらく多くの人は「触ると、あの臭い匂いを出す虫」と思うことでしょう。
そういうことからすると、あまりいいイメージをもたれない昆虫なのかもしれませんね。
じつはいろいろな昆虫たちがカメムシの仲間に属しています。
臭い匂いを出すことで嫌われ者のカメムシは、体が固そうな外観からコウチュウの仲間だと思っている人も多いかもしれませんが、カメムシ目(半翅目<はんしもく>)と独立したグループに属しています。
しかも不完全変態で蛹を経ないで成虫になりますから、コウチュウとはまったく違うグループです。
(後略)
(『観察する目が変わる昆虫学入門』野村昌史 ベレ出版 2013年)
植木雅俊さんのTwitter

スガ氏の母校・法政大学の田中優子学長が日本学術会議会員任命拒否に対して長文のメッセージを出された。
大いに賛同いたします。


【総長メッセージ】日本学術会議会員任命拒否に関して
アメリカ大統領が退院したけど、アメリカの医療技術は凄いのだなと思います。
入院して数日しかたたないのに退院できる。
大統領の専用機を操縦している兵士は防護服を着ていないように見えました。
狭い機内でも感染しない処置がなされているようです。
日本や世界の国々にもその感染予防法を伝授していただきたい。

感染予防規定を無視、トランプ氏の外出「パフォーマンス」に医療関係者ら怒り〟(AFP 10月5日)
10月6日
 武田信玄と北条氏康(うじやす)の軍勢が相模三増峠(みませとうげ)で戦った。 1569(永禄<えいろく>12)年

 小田原城攻撃をあきらめて甲府へ引上げる武田軍と、それを追撃しようとした北条軍との間で、この日、相模北部の、津久井(つくい)から甲斐(かい)を目前にした三増峠の山中で、早朝から激しい戦いが行なわれた。
これより先、武田軍は甲府からはるばる信濃(しなの)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)を通って相模に入り小田原城を攻撃したのに対し、北条方は籠城策(ろうじょうさく)をとって全く動かなかった。
武田軍は城内に攻め入ることができず、城下町に放火して退却を始めると、北条軍は出陣したのである。
山中での勝敗はなかなか決しなかったが、そのとき武田の一隊が北条軍の背後にまわってどっと鬨(とき)の声をあげて攻めかかった。
前後から攻めたてられた北条軍はたちまち敗走した。
北条氏政(うじまさ)は救援にかけつける途中でこの敗戦を聞いてむなしく引返した。
戦国時代でも有数の激戦である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
小田原城の歴史
 名古屋の名物だとばかり思っていたけど
外郎売(ういろううり)」(小田原市)

戦国時代』より「城下都市小田原」を転記しますφ(..)
都市と商人
 城下都市小田原


 戦国大名の城下都市の事例として小田原を見よう。
韮山を本拠としていた伊勢長氏(北条早雲)が、大森氏を追って小田原城を手に入れたのは、前述のとおり今日の研究では明応5年(1496)またはそれ以降で、本格的入城=本城化は二代目の氏綱になってからと見られている。
大森氏時代の小田原城は現存する近世の小田原城域より山側に登った(東海道新幹線を北西に越えた)今日八幡山古郭(はちまんやまこかく)とよばれる部分が中心の山城であった。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 一方、東海道が鎌倉時代初めごろまでは、酒匂(さかわ<小田原市>)から関本(せきもと<南足柄市(みなみあしがらし)>)を経て足柄峠を越え、駿河側の竹之下(静岡県小山町)に通ずるから、その道筋からはずれた小田原は宿駅的発展もありえなかった。
しかし足柄道に代わって箱根道が主流となる鎌倉時代以降は事情が変わる。
鎌倉後期から室町期にかけて小田原は宿町としてしだいに発展をとげていくのである。
それが都市小田原の原点である。
 したがって大森氏がおそらく15世紀後半、駿河東部から相模西部に進出し、小田原城を本拠としたころ、小田原はすでに宿町としての発展期にあった。
しかし大森氏が宿町を当初から軍事拠点としての城にとって不可分一体の城下町として取り込んでいたといえるのかどうかは十分検討してみなければならない。
大森時代の小田原宿の関所の支配にかかわる事実は知られているが、城下都市の支配をうかがわせる史料は存在しない。
 これに対し早雲の死の直前、永正16年(1519)につくられた菊寿丸(=幻庵、早雲の子、氏綱の弟)の所領目録には、「宿地子銭六貫文」「各々より出す屋敷銭二〇貫文」という記載があり、高田(たかた)・鬼柳(おにやなぎ)・井細田(いさいだ)など小田原市内の地名も見える。
これによって早雲が菊寿丸に小田原の宿支配を行わせていたことが確かめられる。
宿地子(しゅくじし)の金額はさして大きなものではないが、城と宿町との一体化が進められはじめていることは確かであろう。
屋敷銭は侍屋敷に賦課したものである。
 そして、小田原城は二代氏綱、三代氏康の時代を通じて、八幡山古郭から東南の低地部に向けて城域を拡大していく。
すなわり平地部につづく現存の近世本丸・二の丸・城米曲輪(じょうまいくるわ)の方向への進出である。
 同時にそのころになると城下には侍屋敷が増加し、また商人も集まりだし、町は宿町から城下町へと相貌を変えだした。
城下町は城の南側の海岸に近い平地部を東西に通ずる東海道が松原神社(現存)近傍では北に甲州道を分岐させるあたりの「宮前(みやまえ)町」と中心に発展し、商人、問屋が集まり、その東方に「新宿」が形成され、鋳物師(いもじ)、舞々(まいまい)大夫(芸能者)なども住んだ。
宮前町の西につづく「今宿(いまじゅく)」には薬種商人外郎宇野氏(京都の外郎氏の一族と推定)が住み、それにつづく地域、東海道と海辺のあいだには、「安斎(あんざい)小路」「狩野(かのう)殿小路」などという小路名から推定できるように老臣、奉行級の人物の屋敷があり、それにつづく早川(はやかわ)河口部東側は「広浜」とよばれて梶原(水軍)屋敷もあった。
その部分がおそらく小田原の港津的機能を果たした場所であろう(早川は急流で河口も狭いので浜が利用されたと思われる)。
 天正18年(1590)の秀吉の攻撃を阻止するための小田原を町ぐるみ囲む形でつくられた「大外郭」の土塁は、東は新宿、西は広浜あたりまで、北西は「八幡山古郭」をとりこんでいた。
それが発達した城と城下町小田原の全部で、周囲約9キロメートルほどであった。
この内部には、伊勢から移ってきた有力呉服商人富山(とみやま)氏、奈良下りの商人紙屋甚六、小田原と上方を往復し、京都の中央支配層と北条とを連絡した商人左近士と呼ばれる政商的人物もいた。
職人では鍛冶・畳刺し・石切などの存在も確認できる。
「小田原番匠」とよばれ、氏綱の鶴岡八幡造営工事に大きな役割を果たした大工の集団もいた。
 このような商人・職人の混住する宮前・新宿・今宿など町の中心部では、「宮前下町奉行賀藤」と史料にあることから推定できるように、有力商人が「町奉行」として自治的な町の運営に当たっていたと見られる。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
よく父と母と二人でドングリ拾いをしていました。
この「クヌギ」の名前を思い出すのに苦労しました(^-^;
今年の記事は、歴史関係を調べていましたが、
来年の話をすると鬼が笑いそうですが(おせちの広告が早々と出ているので)
植物や生物のことを調べたいなと思っています。
めを出すクヌギのどんぐり」(小学4年 動画)