昨日は、出かけるといったら買い物だけだったので、万歩計を見ると2000歩程でした。
入院中の方が病棟の廊下を歩いていたのでもっと多かった…
昨日、雨と風が強いなと思ったら
〝近畿地方で「木枯らし1号」〟(関西NHK)世界はほしいものにあふれてる「京都 KIMONOスペシャル」
今回も着物への固定概念を解き放してくれました。
ナレーションや山本真希さんの言葉をを転記しますが、聞き間違えたり、記入ミスをしていると思います。
帯をパレスチナの女性たちが手刺しゅうしたもの。
パレスチナ暫定自治区で奔走したパレスチナ刺しゅう帯プロジェクト代表の山本真希(まき)さん。
パレスチナの文化に魅せられ6年前から現地の人々に刺しゅうを依頼。
エキゾチックな帯は着物好きの間で話題を呼んでいる。
パレスチナの良さを帯に凝縮させたいと考えた山本さん。
難民が暮らす地域を一つ一つ訪ねた。
パレスチナにはその地域ごとに独自の模様があるという。
人々は故郷を追われた今も、それを大切にしている。
山本さん)
「難民の女性たちのふるさとへの愛や、家族の絆というものを強く感じました。
この刺しゅうの帯は、言葉なしにそれを伝えることができる。」
山本さんは2年かけてパレスチナ各地に足を運び刺しゅうを集めて回った。
10か所のエリア、それぞれの場所で女性たちの思いを聞きながら帯のデザインを考えたという。
そうして今年7月、帯が完成した。
13種類の模様が、色彩豊かに並んだ。
山本さん)
「パレスチナ、かわいそうだからとかじゃなくって、見て“かわいい”という感動を与えられる帯をつくる。
世界の人々に知って、見ていただきたいなと思っています。」
「パレスチナ刺繍帯プロジェクトby ICEJ・Palestinian Embroidery OBI Project」(Facebook)
Eテレで放送されている
今まで見たことのない芸術に圧倒される5分間「no art, no life」
5分間の番組ですが、圧倒されますよ!
渡邊義紘さんは、クヌギの落ち葉に命を吹き込んでいます。
ナレーションを内田也哉子さんが語っていて
「高校時代をスイスで過ごしていた私は、そこで初めてアールブリュットに出会いました。
その時の衝撃と感動の余韻が今もなお響きわたり、この番組と出会えたことで、内なる扉が音を立てて開き始めています。
恐るべき作品と魅力溢れるアーティストの静かで揺るぎない情熱が、みなさまにもじんわり届きますように!」
特別展「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち―」(終了しています)
「国連創設から75年 大国の対立の中 さまざまな課題が」(NHK)
中満泉さんのTwitterに
ナウル共和国とジャマイカが #核兵器禁止条約 を批准しました。
これであと1カ国の批准で発効に必要な50カ国に達することになりました。
#核廃絶 #核軍縮
10月24日
ノルマントン号が沈没し、日本人乗客全員が死んだ。 1886(明治19)年
神戸行きの英国汽船ノルマントン号は、この日の午後7時ごろ、紀州(きしゅう)沖で暗礁にぶつかって沈没した。
その時、英国人船長は乗客を見捨てて同国の乗組員26人とボートで脱出して助かり、残った日本人乗客23名全員と乗組員13人が水死した。
それにもかかわらず、英国領事館は船長の責任を問わずに無罪とした。
この事件が、国民は憤慨(ふんがい)したが、政府は領事裁判権に口出しできないと言って、ただ傍観するばかりであった。
しかし世論はおさまらず、法律学者の集まりである法律協会が英国領事館へ抗議した。
世論におされて政府も思い腰をもちあげて英国領事に抗議し、同領事も事件から1ヵ月半ほどあとに船長を3ヵ月の禁錮刑(きんこけい)にした。
この事件をきっかけに、領事裁判廃止、不平等条約改正の世論が高まった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「ノルマントン号事件」(中学・高校 動画1分33秒)
『日本の歴史21 近代国家の出発』より「長崎水兵事件」、
『日本の歴史22 大日本帝国の試練』より「条約改正ついに成る」を転記しますφ(..)
伊藤博文と憲法発布
長崎水兵事件
伊藤が総理大臣になって、すぐにぶつかった問題は、清国水兵暴行事件とノルマントン号事件であった。
明治19年8月1日、清国北洋艦隊の精鋭を誇る定遠(ていえん)・鎮遠(ちんえん)・成遠(せいえん)・済遠(さいえん)の主力艦が、水師提督丁汝昌(ていじょしょう)にひきられて長崎に入港した。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
それだけでも明治政府にはじゅうぶんの威圧になったのに、長崎に上陸した清国水兵の一部のものが暴行をはたらき、取締りに出た日本の警察と激突して、さながら市街戦のような斬り合いを演じ、双方80余名の死傷者をだすという椿事(ちんじ)をひき起こした。
政府はただちにこの対策をねり、圧倒的に優勢な清国艦隊に対抗するため、19年10月、いそぎ砲台を全国重要地点に建築することにしたのをはじめ、12月には、対馬(つしま)に警備隊を新設した。
一方、伊藤は、地方の資本家に海防費に献納を訴え、20年3月、海防費にかんする勅諭渙発(かんぱつ)、海軍の建造計画を急ピッチに進めさせた。
ノルマントン号事件とは、長崎水兵事件もまだかたづかない10月25日に、イギリス貨物船ノルマントン号が紀州大島(おおしま)沖で、難船・沈没したときにおこった。
この船には日本人乗客22人がのっていた。
ところが、船長やイギリス人水夫などが助かったのに、日本人の乗客は助けられず、ひとり残らず死んでしまった。
それなのにイギリス領事は海事審判所で、船長に無罪を言い渡した。
この二つの事件が、日本国民の感情を傷つけたことは非常なものであった。
しかし、当時、欧米化熱をあおり、条約改正会議を開催中であった伊藤内閣は、ノルマントン号事件にたいしては消極的な態度しかとらなかった。
そのため民間側がこの事件をとりあげ、政府の腰抜け外交と民族の主権の完全回復を叫んで奮起していった。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中央公論社 昭和41年)
日本帝国の明暗
条約改正ついに成る
条約改正は明治政府長年の宿題であった。
安政条約は二つの点で日本を劣等国とするまったく不平等な条約である。
それは第一に、定められた関税率がきわめて低かったことである。
そのため外国製品がとうとうと流れこんで、日本の産業をおしつぶした。
だが、日本は関税を自主的にきめることを認められていないので、どうすこともできなかった。
第二に、日本に在住する外国人が犯罪をおかしても、日本はこれを裁判する権限をもっていなかった。
外国人はそれぞれの国の領事が裁判をしたのである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年) 明治13年(1880)以降、外務大臣井上馨(かおる)はこれを多少でも改善しようとして、条約改正案をねり、百方努力した。
鹿鳴館(ろくめいかん)時代を現出させたのも、その努力の一つである。
だがこれにたいしては、内閣内部の反対もあり、欧化政策にたいする世論の反撥も強く、予期したような外国の賛成をえられなかったので、井上外相は20年、条約改正失敗の責任をとって辞職のやむなきにいたった。
井上のあとをついだの大隈重信(おおくましげのぶ)である。
かれは井上案を修正したうえ、縦横の策を用い、才をふるい、世論の逆潮に抗してその目的を達しようとした。
だが条約改正の代償として、外国人の裁判に外国人裁判官を任用する点と、外国人に内地雑居を許すこととが、依然、屈辱的だ、非国民的だというので、反対派や国粋主義者から袋叩きにあうこととなる。
福岡玄洋社(げんようしゃ)の壮士来島恒喜(くるしまつねき)の投じた爆弾で、大隅の片脚が吹きとぶとともに条約改正案も吹きとんでしまった。
このように、条約改正の歴史は失敗の歴史であった。
この困難な仕事をひきついだのが、第2次伊藤内閣の外務大臣となった陸奥宗光(むつむねみつ)である。
そのとき日本は、安政条約で欧米諸国に治外法権を認めている一方で、朝鮮にたいしては自分のほうが治外法権をにぎっている、という二重の関係にあった。
そこに当時、日本が先進国に従属し、後進国は従属させるという国際的関係にあったことが如実に示されているとともに、近代化をいそぎ、国力を充実して、従属的地位からはい上がろうとする国民的課題のあったことを知りうるであろう。
陸奥は、井上・大隈案のような半面的対等条約案ではとうてい国民を納得させられないし、他方、全面的対等条約案では諸外国の同意をえられない、というディレンマのなかに立たされた。
かれは内外の情勢をあれこれ考えたうえ、どんなに交渉が困難であろうとも、第二の途をとろうと決心する。
交渉の相手は、まず通商上もっとも重大な関係を持っているイギリスである。
イギリスとの交渉にさえ成功すれば、あとは問題ではない。
陸奥は通商航海条約案を作って閣議の了承をえ、26年(1893)7月、イギリスと交渉を開始した。 当時イギリスは、前述したようにトルコ、ペルシア、アフガニスタンでロシアと対立しており、極東でことがおこるのを好まなかった。
その点で、清韓宗属の関係を認める現状維持を基本政策としたのである。
そのうえ朝鮮への英国製品輸出は清国商人の手によっていたから、その点でも現状の変更に乗気ではなかった。
しかし、ロシアのシベリア鉄道建設が進捗しているなかで、極東の力関係にも大きな変化がおころうとしており、日本の国際的地位もようやく上昇してきている。
現状自体がくずれてきているとすれば、日本を積極的にだきこむほうが有利ではないか、とイギリスも考えるようになった。
条約改正の条件はととのったのである。 当時日本国内では、条約改正にたいし、とくに外国人の内地雑居をめぐって、依然として国粋派からの反対が盛んであったし、そのうえ、イギリスが不快の心をかくさなかった朝鮮出兵という事態も発生し、交渉はしばしばデッド・ロックにのりあげるかに思われた。
だがそのころ、イギリスはようやく清国の実力に疑惑を持つようになり、日本の朝鮮出兵も、それが結果においてロシアの進出を予防することになるなら、あえて異議をはさまない、という態度をとるようになってきた。
こうして、朝鮮での危機が進行するにつれて、条約改正の交渉も進んでいった。 日英条約改正は、ついに日清開戦の直前、明治27年7月16日に調印されるにいたった。
これをきっかけとして、イギリス以外の国々との交渉も引き続いて成功した。
条約改正の成功によって、日本は後顧の憂いなく戦争に突入することができたのである。 改正条約は実施までの準備期間を5年とし、この間に日本は法制を整備し、内地雑居の用意をすることとなったが、ともあれ、これによって日本は欧米諸国とまったく対等な関係にたつこととなったのである。
戦争の結末をつける講和条約をみると、この時点が日本の国際的地位にとって、二重に画期的であったことがいよいよ明らかになる。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)今朝の父の一枚です(^^)v
いっぱい実がなっていますが、前に見た時は、葉が枯れていたので心配していました。
このカキノキに甘い実を目当てにメジロがやってきます。
まだ、実が固いのかついばんだ様子は見られませんが、
母も実がなるのを楽しみにしていたそうです。