2020年10月1日木曜日

10月になって…

涼しい朝。
通学する生徒を見ているとカーディガンを着ている姿を見かけるようになりました。
リハビリ仲間の方となんとか酷暑を乗り切れましたねと話していました。
更衣(ころもがえ・ころもがへ)

 昔は、宮中でも民間でも、陰暦四月朔日(ついたち)と十月朔日とに、衣を更えるのを例としてた。
江戸時代には民間で、この日、綿入れをぬいで袷(あわせ)になった。
今でも五月一日(陽暦)から袷をかえる人もいるが、一般的にはそれほど厳密に、日を言わない。
要するに、冬より夏へ時節の衣服に更えることである。
(『基本季語五〇〇選』山本健吉 講談社学術文庫 1989年)
 昔は四季の衣裳を一々更えることなく、冬装束と夏装束を下着などで調節した。
四月一日から袷を着、寒ければ白重(しろがさね)と言って、下に白小袖を重ねる。
五月五日から帷子(かたびら)を着るのは室町以後で、涼しければ一重(ひとえがさね)と言って、下衣を着る。
夏以後は、八月十五日から生絹(すずし)、九月九日から綿入、または小袖、十月一日から練衣(ねりぎぬ)を着る。
江戸幕府では、四月一日から袷小袖、五月五日から一重帷子麻布、九月一日から綿入小袖に更って三月晦日(みそか)に至る。
その翌日、四月一日を綿抜の朔日と言う。
誹諧では単に「更衣」と言ったら四月一日のことで、十月一日を「後の更衣」という。
神社でも更衣(こうい)祭、御衣(おんぞ)祭、神御衣(かむみぞ)祭、御更(ごこう)祭などと称して四月(今は5、6月)、九月(今は10、11月)に、神々の更衣行事を行うところが多い。
(以下略)
(『基本季語五〇〇選』山本健吉 講談社学術文庫 1989年)
葛原(?)にヒガンバナが咲いているので写していると声をかけてくださった方がいて
ここに花などを植えた人がいるそうですが、クズの勢いがすごいので諦めたそうです。
昔の人は、クズを上手に利用していました。
今は、クズを活用しようとすると手間がかかるので、邪魔者扱いになっていますねと話していました。
アメリカでは「デビル・プランツ(悪魔の植物)」とさえ言われているそうです。
昔の人は、知恵と手間を惜しまない。
現代人は、知恵はあるのですが、手間暇をかけるのを嫌がります。
クズの花言葉は「はにかみ」だそうですよ(^_-)-☆
湯川れい子さんのTwitter

それでは今夜は少し早いけれど、ゆっくりとお風呂に入って休みます。
戦後、女手一つで私を育ててくれた母は、夜やっとお布団に入ると「ああ、今日も極楽、極楽。ありがとうございました」と言って、枕元の電気を消していました。
ああ、今日も極楽、極楽。ありがとうございました。
おやすみなさい

岩波書店のTwitter

【今日の名言】
君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。


――吉野源三郎『君たちはどう生きるか』
10月1日
 東海道新幹線が開通した。 1964(昭和39)年

 東京オリンピックの開会までに開通させようと急ピッチで進められた東海道新幹線建設は、開会式の10日前に開通式を迎えることができた。
ブラスバンドが「汽笛一声(きてきいっせい)」のメロディーを演奏する中、午前6時、ひかり1号は東京駅のこれまでとは全くちがう広軌レールの上をすべり出した。
当時の特急の東京―大阪間6時間半を4時間(のち3時間10分)に縮めたのは画期的だった。
だがそれとともに、明治初めに日本が招いたイギリス人技師がインドと同じ幅に決めてしまって以来の狭い軌道から解放されたことの意義も大きい。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「東海道新幹線開通記念」切手の原画〟(朝日新聞)

世界初の高速鉄道『東海道新幹線』」(動画 1分)

0系の新幹線のスカート(青色)と呼ばれる「排障器(はいしょうき)」を父たちも作ったそうです。
昭和の歴史第10巻 経済大国』より「新幹線と高速鉄道網」を転記しますφ(..)
都市化と大量消費社会
 大量高速輸送時代
 新幹線と高速鉄道網


 日本の交通の主役が自動車に交代したといったが、そのなかで交通革命の一環をになったのが、新幹線と大都市圏の高速鉄道(地下鉄)であろう。
 新幹線の構想は、戦前の中国・ヨーロッパをむすぶ弾丸鉄道にまでさかのぼりうる。
実際、その後新幹線公害訴訟で有名になった名古屋市内の7キロ区間は、戦前に買収されていた弾丸鉄道の用地を利用したものである。
とはいえ、戦後の新幹線は戦争の遺児ではなく、高度成長の申し子であり、ここには、日本の戦後の技術革新の成果がよくも悪くも結晶しているといってよい。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)
 新幹線は、1955年(昭和30)、当時の十河(そごう)信二国鉄総裁の下で構想化され、高速道路と重複投資となるという反対論を押しきって、58年、閣議決定されたものである。
これは五分の四を日本政府負担で、残りを世界銀行から8000万ドル借款(しゃっかん)してはじめられた。
 この新幹線には、航空機の機密構造などの技術、高性能のモーター、エレクトロニクスによる自動制御装置、あるいは継ぎ目のないロングレールや鉄骨入りのプレストレスト=コンクリートによる枕木などの、最新の技術が応用された。
東京オリンピックに間に合わせるために突貫作業をつづけ、ついに1994年10月に開通した。
新幹線は当初、東京―大阪間を4時間10分でスタートしたが、やがて、3時間10分でむすんだ。
これは高度成長の前半期に、日本の経済力の大部分を集中させつつあった三大都市圏を結合させ、「東海道メガロポリス」をつくったといわれている。
 その後の経過をみると、名古屋や大阪の経済的機能が相対的に低下し、東京の政治・経済的管理機能の地位が向上することに、新幹線はもっとも貢献したといえそうである。
たとえば、それまでは3回に1回は名古屋や大阪で開かれていた会議は、ほとんど東京で開かれることになり、東京出張は東京通勤となって、新幹線日帰り族がふえていった。
 その後、1972年3月には岡山、75年3月には博多までの路線が開通し、さらに82年には大宮―盛岡間に東北新幹線、大宮―新潟間に上越新幹線が、営業運転を開始した。
開業当時65年の輸送人員は年3100万人であったが、75年には1億5700万人、1日平均では、65年8万4841人から、75年42万9557人となっている。
国鉄は、モータリゼーションと過密過疎問題の影響をうけて、60年代後半から赤字を累積(るいせき)させているが、東海道新幹線は黒字である。
 モータリゼーションの進行とともに、大都市圏内に高速道路網がつくられ、街路が急速に整備された。
地価上昇もあって、住宅は郊外に広がった。
当初マイカー族は、郊外のベッドタウンから都心の事業所へ通勤していた。
マイカー通勤は、戦後の新しい生活様式のシンボルであった。
しかし、自動車の増大は交通渋滞を引きおこし、60年代の終わりころには、都心内では営業用に自動車を使用することがあっても、通勤・通学に使用することは困難となりはじめた。
 各都市は60年代をつうじて、自動車交通をすすめ、すでに赤字経営になっていた市電を撤去していった。
これは地方の県庁所在地からはじまり、やがて大都市も軌道を全廃してバス路線にかえた。
ついで自動車交通がゆきづまると、大都市内の交通の主力は、高速鉄道に依存せざるをえなくなった。
東京では1964年のオリンピック前後、大阪では70年の万国博覧会前後、他の大都市では70年代にはいってから、地下鉄網の建設がすすんだ。
 東京圏では時計回りに人口の分散がすすんだが、それに合わせて高速鉄道も、まず1962年、丸の内線の全線開通(荻窪<おぎくぼ>―池袋)、64年、日比谷線がつくられた。
62年に8路線177.5キロが計画され、70年には11路線285キロへと拡大していった。
 東京の高速鉄道網は、当初は国鉄の混雑を緩和し、ついで既設地下鉄の混雑を緩和し、最近では私鉄の混雑緩和のために路線を計画している。
東京の高速鉄道網は大阪のそれとくらべると、国鉄や私鉄との相互乗り入れ方式を特徴としている。
これにたいして、大阪は私鉄がターミナル=デパートに客をあつめる目的もあって、相互乗り入れは一部である。
 高速鉄道網は、日本の広域化する大都市圏の経済活動を効率的にすすめるために有効な働きをしている。
ラッシュ時には2~3分間隔で運行する神業的(かみわざてき)な運営は、他国、たとえば有名なサンフランシスコ湾岸高速鉄道(バート)ですらまねのできないすばらしさである。
だが、このような大量交通システムも限界にきたのではなかろうか。
それは、交通混雑によるマイナスだけではない。
地下鉄のコストが急増して、国や地方団体がトンネル建設に補助金を出しても採算がとれないという経営危機が表面化している。
東京の場合、1962年の丸の内線は1キロ当たり17.6億円であったが、64年の日比谷線31.8億円、69年東西線は41.4億円、近年では278億円にのぼっている。
文字どおり黄金路線である。
 これまでの交通政策は、最初はモータリゼーションをすすめ、ついでその社会的費用の大きさに気づいて、鉄道・バスなどの大量公共輸送体系をすすめた。
しかし、いまや交通そのものを節約するような国土や都市のあり方を考えるべき時がきたようである。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)
今朝の父の一枚です(^^)v
風車の丘のコスモスもチラホラ咲き出しています。

昨日は、義弟の13回忌でした。
月日の経つのは早いものです。
でも、妹にとって義弟が倒れた時のことはいつまでも昨日のようだと思います。
いつもは、三人で夕食を食べているのですが、
昨日は、義弟と二人で食べたいと希望しました。