蒸し暑くて、結構、汗をかきました(^-^;キンモクセイ モクセイ科
近所に角刈りにされているキンモクセイが立っていて、旦那が「アニキ」と名付けました。
秋になるとアニキからよい香りがするので「アニキー香水変えたっすか?」と話しかけます。
キンモクセイの花の香りは一時期トイレの芳香剤に使われて、「トイレの匂い」という人もいました。
昔はトイレのそばに植えられたから、芳香剤の匂いに使われたようですが、アニキにはいい迷惑です。
キンモクセイには雄花が咲く雄の木しかなく、雌はいません。
だからキンモクセイには実はならず、アニキはずっと独り者です。
キンモクセイは挿し木で増やされ、葉ははじめ鋸歯(きょし)がありますが、大きくなるとなくなり波打ちます。
樹皮は白っぽく黒いひし形マークが見えることがあります。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
似ているギンモクセイとウスギモクセイは実がなります。
ギンモクセイは白い花を咲かせ、キンモクセイより香りは弱いです。
ウスギモクセイの花は卵色です。
キンモクセイはウスギモクセイの突然変異かもしれないといわれていますが、定かではありません。
新しい葉を伸ばす春から梅雨時にかけては移植が難しく、枯れる可能性が高いといわれます。
葉が出る前と葉がかたまってからは移植可能のようです。
アニキもあんまり葉が少ないと花が咲かないので、角刈りをやめてロン毛もためして欲しいものです。
花がたくさん咲いて、強めの香水になることでしょう。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)10月5日
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が官位を捨て消息をたった。 1334(建武<けんむ>元)年
藤房は父とともに後醍醐天皇の信任を得、討幕計画に加わり、建武政権のもとで中納言に進んだ。
ところがこの日突然39歳の若さで消息をたってしまった。
京都北山の岩倉で出家して諸国遍歴の旅に出たと伝えられ、越前や常陸(ひたち)、高野山などに伝承が残っているが、たしかな足跡は誰にも知られていない。
失踪(しっそう)の原因を『太平記(たいへいき)』は次のように記している。
11時間ほどで出雲(いずも)国から京都に着いたという、駿足(しゅんそく)で筋骨たくましい馬が天皇に贈られた。
天皇は天馬が現われたと喜び、近臣たちも中国の故事をひいて天皇の徳によって天からあたえられたものだと称賛した。
しかし藤房は逆に天馬のため王朝が衰えた例をあげ、さらに建武の新政を批判し、天馬より仁政を施すことこそ大事だと意見を述べた。
またこの後もたびたび天皇を諫(いさ)めたが、ききいれられなかったからだという。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
平安神宮の時代祭に足利将軍が加わったのは2007年からのようです。
「京都 時代祭」(全日本通訳案内士連盟)
明治政府の史観が影響していました。
幕末、「足利三代木像梟首事件」(ウィキペディア)さえあったのですから。
足利尊氏は、武士たちの生活を守るために立ちが上がったと思っています
(上司によってその後の人生が変わってしまった…)。
楠木正成は好きですが、後醍醐天皇は、好きになれないのです(^_-)-☆
『日本の歴史第11巻 南北朝内乱』より「元弘の変」、「北条氏与党の反乱」を転記しますφ(..)
建武の新政
鎌倉幕府の滅亡
元弘の変
元弘(げんこう)元年(1331)4月、吉田定房(さだふさ)が、天皇方の討幕の計画を幕府側に密告したことによって、歴史は急速度に展開をはじめる。
幕府はただちに長崎高貞(たかさだ)・南条高直(たかなお)を上洛させて、日野俊基(としもと)らを逮捕した。
8月には、六波羅の兵が皇居を包囲しようとした。
後醍醐天皇らはのがれて南都におもむき、いったんは東大寺東南院にはいったが、ついで笠置(かさぎ)寺(京都府相楽郡)へとうつり、ここを本陣と決した。
9月、大仏貞直(おさらぎさだなお)・金沢貞冬(さだふゆ)のひきいる大軍が鎌倉をあとにした。
『北条九代記(ほうじょうくだいき)』では、その数20万8千騎という。
笠置寺の衆徒(しゅと)や畿内各地から参集した武士・野伏(のぶせり)らが笠置山の要害にたてこもり、約1か月間わたってささえはしたが、衆寡(しゅうか)敵せず、ついに落城した。
(『日本の歴史第11巻 南北朝内乱』佐藤和彦 小学館 1974年)
天皇は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)・同秀房(ひでふさ)・北畠具行(ともゆき)・千種忠顕(ただあき)らと笠置をのがれ、山野に臥して三日間をすごした。
天皇が、
サシテ行ク 笠置ノ山ヲ 出(いで)シヨリ
アメガ下ニハ 隠家(かくれが)モナシ
と詠(よ)んだのは、この間のことである。
かれらは、河内国金剛山のふもと赤坂城に挙兵した楠木正成(くすのきまさしげ)を頼ろうとした。
しかし、いかんせん慣れない山路に迷って、疲労困憊(こんぱい)のすえ、山城国有王(ありおう)山において、山城国住人深栖(みす)三郎入道によって捕らえられた。
10月、大仏貞直(おさらぎさだなお)らに警固されて、天皇は六波羅南方に送られ、神器を量仁(かずひと)親王にゆずることを強要された。
天皇の討幕計画は、またしても失敗に帰した。
天皇は隠岐(おき)へ、尊良(たかなが<よし>)親王は土佐へ、尊澄(そんちょう)法親王(宗良<むねなが(よし)>親王)は讃岐(さぬき)へと流された。
元弘2年(1332)3月のことである。
そして同月22日、光厳(こうごん)天皇が即位した。
後醍醐天皇が隠岐へ配流されてのちしばらくのあいだは、反幕府のとくにめだった動きはない。
しかし、これはやがて吹きすさぶ戦乱のまえの、つかのまの静寂であった。
この間、畿内各地では、楠木正成や大塔宮護良(だいとうのみやもりなが<よし>)親王を中心として、反幕府組織がひそかに、しかし確実に強化されつつあった。
元弘2年の暮れには、正成が千早(ちはや)城で、護良親王は吉野で挙兵した。
正成は、畿内各地の在地領主層や、土地の地理に明るい野伏(のぶせり)らを組織し、方一里にみたない赤坂城や、金剛山につらなる要害の地千早城にたてこもり、はしり木や石つぶてをもって敵を攻撃した。
2、30のわら人形に甲冑(かっちゅう)をまとわせて敵の目をあざむき、敵軍が人形に矢をあびせかけ、討ちとろうとして押し寄せたところへ巨岩をころがし、大損害をあたえたという、有名な「わら人形作戦」をはじめとして、機略・策略を縦横に駆使し、数十万の幕府軍とわたりあっている。
赤坂城落城ののちも、正成が千早城に幕府軍をひきつけ、林屋辰三郎(たつさぶろう)氏もいうように、かれ正成が散所(さんじょ)の長者として、河内における交通の要衝をおさえ、抜群の情報収集能力をもっていたという経緯があり、そうした状況は、銘記されなければならないだろう。
うちつづく戦乱
崩れる建武体制
北条氏与党の反乱
天皇絶対・公家中心の建武政府の諸政策に対して、地方の武士たちは、しだに不満をつのらせていった。
かれらは、北条氏与党を擁立して、建武政府に対する反抗を開始する。
それは、一枚の綸旨(りんじ)によって所領をうばわれた旧幕府御家人たちの、所領回復の闘争でもあった。
はやくも元弘3年(1333)の暮れには、奥州において名越時如(なごえときゆき)・安達高景(あだちたかかげ)らが兵をあげ、翌年正月には規矩高政(きくたかまさ)・糸田貞義(さだよし)らが北九州において、3月には渋谷・本間の両氏、さらには武蔵の豪族たちが関東において挙兵した。
10月には、紀伊飯盛(いいもり)山において、高時の甥、興福寺の僧佐々目(ささめ)僧正を中心とする北条氏与党の挙兵事件がおこり、建武政府側から、楠木正成・三善信連(みよしのぶつら)らが鎮圧に出動した。
護良(もりなが)親王が宮中で捕縛され、直義(ただよし)によって鎌倉薬師堂に幽閉されたのは、この間のできごとであった。
翌建武2年(1335)正月には、長門探題(ながとたんだい)北条時直(ときなお)の遺児らが長門国府で蜂起し、2月から6月にかけては、伊予においても、赤橋重時(あかばししげとき)ら北条氏与党が蠢動(しゅんどう)している。
建武政府は謀反発生の報におどろき、鎮圧を知らせる早馬にするというていたらくであったが、それでも専制支配体制を改めようとはしなかった。
万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)の子藤房(ふじふさ)が、「痛ましきかな、今の政道」にはじまる諫言(かんげん)をのこして、いずこへともなく姿をくらましたのは、このころである。
『太平記』によれば藤房は、歌舞・蹴鞠(けまり)・競馬にふける天皇に対して、「足利尊氏が政府への批判行動を開始したならば、今日の政道に恨みをもつ人々は、尊氏が参集をよびかけなくても、みずから糧(かて)をになって、かれのもとにあつまるであろうことは疑いない」と述べたという。
そのようなおりもおり、6月に国家転覆という一大陰謀が、天皇支配の膝下(しっか)において発覚した。
北条氏の遺子たちと西園寺公宗(さいおんじきんむね)が中心となり、廷臣橋本俊季(としすえ)、公宗の妻の兄にあたる日野氏光(うじみつ)らが加わって練られた計画であった。
西園寺という家柄は、第9巻の292ページにも述べられているが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)のさいに公経(きんつね)が、親幕派貴族の筆頭というゆえをもって幽閉されたように、北条氏の信を得ていた貴族である。
したがって、後醍醐天皇らの鎌倉討幕には反対の立場をとったため、建武政権の主流からははずされていたのである。
かれらの計画とは、持明院(じみょういん)統の後伏見(ごふしみ)法皇を奉じて後醍醐天皇を暗殺し、時をうつさず北条氏与党が、全国各地で蜂起するというものであった。
すなわち、北条高時(たかとき)の弟泰家(やすいえ)は京都において、高時の子時行(ときゆき)が信濃(しなの)において、また、北条氏一族の名越時兼(なごえときかね)が北国において、いっせいに行動をおこそうという計画であった。
泰家(やすいえ)は鎌倉が陥落したのち奥州にのがれたが、ひそかに京都にはいり、西園寺公宗(さいおんじきんむね)にかくまわれ、その名も刑部少輔時興(ぎょうぶしょうゆうときおき)と改めていた。
一方、時行は、諏訪の神官である諏訪氏一族が北条譜代の臣であったところから、その地にかくまわれていたのである。
このように線密に規模大きく謀(はか)られた計画であったが、意外にも公宗の異母弟公重(きんしげ)の密告によって、謀られた時間とは比べられぬ早さと、謀られた志の幾層倍もの痛手のもとに霧散してしまった。
6月17日の夜、天皇は後伏見法皇や花園(はなぞの)・光厳(こうごん)両上皇を、御所としていた持明院殿から京極殿にうつした。
そして22日には、公宗・氏光(うじみつ)、氏光の父資名(すけな)、公宗の執事三善文衡(みよしあやひら)らを捕縛した。
きびしい処断がくだされたことはいうまでもないが、また建武政府がかかえた亀裂は、だれの目にも明白なものとなっていったのである。
京都においてこそ事は露見し、志は頓挫したかにみえたが、政府の亀裂がみえたいま、反政府という一つの力は、ここからいよいよその渦を拡大してゆくのである。
(『日本の歴史第11巻 南北朝内乱』佐藤和彦 小学館 1974年)
今朝の父の一枚です(^^)v
休憩場所にしているテーブルの上のゴミを竹で払おうとしたら
竹に先客がいたそうです(*´▽`*)
楠木正成は好きですが、後醍醐天皇は、好きになれないのです(^_-)-☆
『日本の歴史第11巻 南北朝内乱』より「元弘の変」、「北条氏与党の反乱」を転記しますφ(..)
建武の新政
鎌倉幕府の滅亡
元弘の変
元弘(げんこう)元年(1331)4月、吉田定房(さだふさ)が、天皇方の討幕の計画を幕府側に密告したことによって、歴史は急速度に展開をはじめる。
幕府はただちに長崎高貞(たかさだ)・南条高直(たかなお)を上洛させて、日野俊基(としもと)らを逮捕した。
8月には、六波羅の兵が皇居を包囲しようとした。
後醍醐天皇らはのがれて南都におもむき、いったんは東大寺東南院にはいったが、ついで笠置(かさぎ)寺(京都府相楽郡)へとうつり、ここを本陣と決した。
9月、大仏貞直(おさらぎさだなお)・金沢貞冬(さだふゆ)のひきいる大軍が鎌倉をあとにした。
『北条九代記(ほうじょうくだいき)』では、その数20万8千騎という。
笠置寺の衆徒(しゅと)や畿内各地から参集した武士・野伏(のぶせり)らが笠置山の要害にたてこもり、約1か月間わたってささえはしたが、衆寡(しゅうか)敵せず、ついに落城した。
(『日本の歴史第11巻 南北朝内乱』佐藤和彦 小学館 1974年)
天皇は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)・同秀房(ひでふさ)・北畠具行(ともゆき)・千種忠顕(ただあき)らと笠置をのがれ、山野に臥して三日間をすごした。
天皇が、
サシテ行ク 笠置ノ山ヲ 出(いで)シヨリ
アメガ下ニハ 隠家(かくれが)モナシ
と詠(よ)んだのは、この間のことである。
かれらは、河内国金剛山のふもと赤坂城に挙兵した楠木正成(くすのきまさしげ)を頼ろうとした。
しかし、いかんせん慣れない山路に迷って、疲労困憊(こんぱい)のすえ、山城国有王(ありおう)山において、山城国住人深栖(みす)三郎入道によって捕らえられた。
10月、大仏貞直(おさらぎさだなお)らに警固されて、天皇は六波羅南方に送られ、神器を量仁(かずひと)親王にゆずることを強要された。
天皇の討幕計画は、またしても失敗に帰した。
天皇は隠岐(おき)へ、尊良(たかなが<よし>)親王は土佐へ、尊澄(そんちょう)法親王(宗良<むねなが(よし)>親王)は讃岐(さぬき)へと流された。
元弘2年(1332)3月のことである。
そして同月22日、光厳(こうごん)天皇が即位した。
後醍醐天皇が隠岐へ配流されてのちしばらくのあいだは、反幕府のとくにめだった動きはない。
しかし、これはやがて吹きすさぶ戦乱のまえの、つかのまの静寂であった。
この間、畿内各地では、楠木正成や大塔宮護良(だいとうのみやもりなが<よし>)親王を中心として、反幕府組織がひそかに、しかし確実に強化されつつあった。
元弘2年の暮れには、正成が千早(ちはや)城で、護良親王は吉野で挙兵した。
正成は、畿内各地の在地領主層や、土地の地理に明るい野伏(のぶせり)らを組織し、方一里にみたない赤坂城や、金剛山につらなる要害の地千早城にたてこもり、はしり木や石つぶてをもって敵を攻撃した。
2、30のわら人形に甲冑(かっちゅう)をまとわせて敵の目をあざむき、敵軍が人形に矢をあびせかけ、討ちとろうとして押し寄せたところへ巨岩をころがし、大損害をあたえたという、有名な「わら人形作戦」をはじめとして、機略・策略を縦横に駆使し、数十万の幕府軍とわたりあっている。
赤坂城落城ののちも、正成が千早城に幕府軍をひきつけ、林屋辰三郎(たつさぶろう)氏もいうように、かれ正成が散所(さんじょ)の長者として、河内における交通の要衝をおさえ、抜群の情報収集能力をもっていたという経緯があり、そうした状況は、銘記されなければならないだろう。
うちつづく戦乱
崩れる建武体制
北条氏与党の反乱
天皇絶対・公家中心の建武政府の諸政策に対して、地方の武士たちは、しだに不満をつのらせていった。
かれらは、北条氏与党を擁立して、建武政府に対する反抗を開始する。
それは、一枚の綸旨(りんじ)によって所領をうばわれた旧幕府御家人たちの、所領回復の闘争でもあった。
はやくも元弘3年(1333)の暮れには、奥州において名越時如(なごえときゆき)・安達高景(あだちたかかげ)らが兵をあげ、翌年正月には規矩高政(きくたかまさ)・糸田貞義(さだよし)らが北九州において、3月には渋谷・本間の両氏、さらには武蔵の豪族たちが関東において挙兵した。
10月には、紀伊飯盛(いいもり)山において、高時の甥、興福寺の僧佐々目(ささめ)僧正を中心とする北条氏与党の挙兵事件がおこり、建武政府側から、楠木正成・三善信連(みよしのぶつら)らが鎮圧に出動した。
護良(もりなが)親王が宮中で捕縛され、直義(ただよし)によって鎌倉薬師堂に幽閉されたのは、この間のできごとであった。
翌建武2年(1335)正月には、長門探題(ながとたんだい)北条時直(ときなお)の遺児らが長門国府で蜂起し、2月から6月にかけては、伊予においても、赤橋重時(あかばししげとき)ら北条氏与党が蠢動(しゅんどう)している。
建武政府は謀反発生の報におどろき、鎮圧を知らせる早馬にするというていたらくであったが、それでも専制支配体制を改めようとはしなかった。
万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)の子藤房(ふじふさ)が、「痛ましきかな、今の政道」にはじまる諫言(かんげん)をのこして、いずこへともなく姿をくらましたのは、このころである。
『太平記』によれば藤房は、歌舞・蹴鞠(けまり)・競馬にふける天皇に対して、「足利尊氏が政府への批判行動を開始したならば、今日の政道に恨みをもつ人々は、尊氏が参集をよびかけなくても、みずから糧(かて)をになって、かれのもとにあつまるであろうことは疑いない」と述べたという。
そのようなおりもおり、6月に国家転覆という一大陰謀が、天皇支配の膝下(しっか)において発覚した。
北条氏の遺子たちと西園寺公宗(さいおんじきんむね)が中心となり、廷臣橋本俊季(としすえ)、公宗の妻の兄にあたる日野氏光(うじみつ)らが加わって練られた計画であった。
西園寺という家柄は、第9巻の292ページにも述べられているが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)のさいに公経(きんつね)が、親幕派貴族の筆頭というゆえをもって幽閉されたように、北条氏の信を得ていた貴族である。
したがって、後醍醐天皇らの鎌倉討幕には反対の立場をとったため、建武政権の主流からははずされていたのである。
かれらの計画とは、持明院(じみょういん)統の後伏見(ごふしみ)法皇を奉じて後醍醐天皇を暗殺し、時をうつさず北条氏与党が、全国各地で蜂起するというものであった。
すなわち、北条高時(たかとき)の弟泰家(やすいえ)は京都において、高時の子時行(ときゆき)が信濃(しなの)において、また、北条氏一族の名越時兼(なごえときかね)が北国において、いっせいに行動をおこそうという計画であった。
泰家(やすいえ)は鎌倉が陥落したのち奥州にのがれたが、ひそかに京都にはいり、西園寺公宗(さいおんじきんむね)にかくまわれ、その名も刑部少輔時興(ぎょうぶしょうゆうときおき)と改めていた。
一方、時行は、諏訪の神官である諏訪氏一族が北条譜代の臣であったところから、その地にかくまわれていたのである。
このように線密に規模大きく謀(はか)られた計画であったが、意外にも公宗の異母弟公重(きんしげ)の密告によって、謀られた時間とは比べられぬ早さと、謀られた志の幾層倍もの痛手のもとに霧散してしまった。
6月17日の夜、天皇は後伏見法皇や花園(はなぞの)・光厳(こうごん)両上皇を、御所としていた持明院殿から京極殿にうつした。
そして22日には、公宗・氏光(うじみつ)、氏光の父資名(すけな)、公宗の執事三善文衡(みよしあやひら)らを捕縛した。
きびしい処断がくだされたことはいうまでもないが、また建武政府がかかえた亀裂は、だれの目にも明白なものとなっていったのである。
京都においてこそ事は露見し、志は頓挫したかにみえたが、政府の亀裂がみえたいま、反政府という一つの力は、ここからいよいよその渦を拡大してゆくのである。
(『日本の歴史第11巻 南北朝内乱』佐藤和彦 小学館 1974年)
今朝の父の一枚です(^^)v
休憩場所にしているテーブルの上のゴミを竹で払おうとしたら
竹に先客がいたそうです(*´▽`*)