2020年10月18日日曜日

久しぶりに歩くと…

スカッとした秋晴れではないけど、雨が止んでくれました。
枝垂れ桜が咲いていました。
猛暑で葉が紅葉になる前に枯れ落ちてしまったからかな?
沖縄では例年1月に開花するヒカンザクラが咲き出したそうです。

季節外れ 早くもヒカンザクラ」(NHK 沖縄 10月16日)
問題43 植物は、ツボミをつくるために、夜の長さをどの部分で感じるか?
 多くの植物は、気温の変化ではなく、夜(暗黒)の長さを感じて、ツボミをつくる季節の訪れを知る。
 では、植物は、ツボミをつくる夜の長さを、どの部分で感じるのか。
(A)芽
(B)葉
(C)茎
(D)根
(『クイズ 植物入門 一粒のコメは何粒の実りになるか』田中修 講談社ブルーバックス 2005年)
正解(B) 植物は、葉で夜の長さを感じる
 アサガオの芽生えを、電灯をつけっぱなしの照明下で育て、葉、茎、芽、根のいずれかだけを覆って長い暗黒を与える。
すると、葉を覆った場合にだけツボミができる。
つまり、葉で夜の暗さを感じるのだ。
アサガオだけでなく、多くの植物は葉で夜の長さを感じてツボミをつくる。
 暗黒に敏感な植物では、かなり小さな葉でもツボミをつくる。
アサガオの子葉の面積は1枚で約6平方センチメートルである。
その大部分を切り落とし、0.25平方センチメートルになっても、長い暗黒を感じてツボミをつくる。
 植物が夜の長さで季節の訪れを知る理由は、夜の長さの変化を感じていれば、冬の寒さの到来を約2ヵ月前に予知できるからだ。
たとえば、夏至の日から夜は長くなり始め、もっとも冬らしく夜が長いのは12月下旬の冬至の日だ。
一方、もっとも寒いのは2月頃である。
つまり、夜の長さの変化は、気温の変化より約2ヵ月先行する。
だから、夜の長さで季節を知れば、冬の寒さがくるまでに、ツボミをつくり花を咲かせ種をつくることができるのだ。
 もう一つ、夜の長さは変動がないことも大きな理由になる。
気温の変化は、冷夏や暖冬など、必ずしも安定しない。
夜の長さなら間違いなく季節の変化を感じとることができるのである。
(『クイズ 植物入門 一粒のコメは何粒の実りになるか』田中修 講談社ブルーバックス 2005年)
10月18日
 大隈重信(おおくましげのぶ)が爆弾を投げつけられて片足を失った。 1889(明治22)年

 この日の午後3時ごろ、大隈は御前会議を終えて宮中を退出し、3頭立ての馬車で外務省の門を入ろうとした。
その時、モーニング姿に洋傘を持った男が走り出て、隠し持っていた爆弾を大隈に投げつけた。
その男は玄洋社(げんようしゃ)の社員で来島恒喜(くるしまつねき)といい、大隈の外交のやり方に不満を持っていた。
 大隈外相は治外法権を撤廃させるために、大審院(だいしんいん<今の最高裁>)の裁判官に外国人を日本人より多く採用する案を諸外国に示した。
日本では秘密にされたこの案がイギリスの新聞『タイムズ』で報道され、それが翻訳されて日本に伝えられたため、国民の非難がわきおこっていた。
この日の御前会議でも、強い反対があったが大隈は譲らなかった。
 爆弾を投げつけた来島は、その場で自殺し、大隈は右足を失った。
この事件がきっかけで、大隈の改正案も破棄されてしまった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
大隈重信」(小学6年 動画 1分54秒)

大隈重信に関する記事」(早稲田大学)

日本の歴史21 近代国家の出発』より大隈重信について転記しますφ(..)
条約改正と対清軍備
 国別談判

(前略)
 ところが、4月19日、大隈案の秘密が『ロンドン・タイムス』にすっぱぬかれた。
そして5月末から新聞『日本』に訳載された。
この間をとりもったのが、外務省翻訳局長をしていた小村寿太郎(こむらじゅたろう)であったといわれる。
小村はのちに日露戦争のときの講和全権として、腰抜け外交だと国権派からたたかれるが、20年当時は国権主義者としてひそかに大隈案に反対していた。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中央公論社 昭和41年)
 外人判事問題

 それでは大隈案とはメキシコに示したような対等条約案ではなかったのか。
いま、井上(馨)案と大隈案の相違点からその内容をみてみよう。
 税権については両案ともちがいはないが、法権の点では、大隈案は井上案よりはるかに前進している。
まず、治外法権の存続期間が5年に短縮されている。
完全対等な権利を回復するまでの期間も、17年から12年にちぢめられている。
次に、井上案では、外人にかんする訴訟事件はすべて外人判事が多数をしめる裁判所で取り扱うことになっていたが、大隈案では外人が被告であるときに限ると制限している。
また、裁判所も井上案のように各級裁判所にではなく、大審院に、しかも判事のみをおくと限定している。
最後に、わが国の立法権への侵害だと騒がれた法典編纂(へんさん)については、「泰西ノ原理」によるとか、事前に外国政府の承認を求めるとか、という井上案の内容はすべて削除された。
 これをみると、明治20年に600人もの追放者をだした民衆運動はむだではなかった。
その犠牲の結果が、政策立案者への圧力となって、大隈案をこれほど前進させた。
しかし、このていどの「進歩」で、国民が満足するはずはなかった。
大隈とその与党改進党グループは、この点でも国民の心情の読みをあやまっていたといえよう。
 反対の急先鋒になったのは、新聞『日本』に代表される国権主義者であった。
かれらは国粋保存主義をもって自任していたが、民権派の大同(だいどう)倶楽部・大同協和会とも連携して、しだいに反対派の連合戦線をつくりはじめた。
7月から8月にかけてこの動きは活発化し、
(1)国粋主義者の集まる政教社(せいきょうしゃ)および新聞『日本』の社友、
(2)九州団体連合(熊本国権派の紫溟会<しめいかい>や福岡の玄洋社<げんようしゃ>の連合体)、
(3)鳥尾・三浦・谷ら三中将のひきいる保守中正派、
(4)大同倶楽部、
(5)大同協和会の5団体の「非条約改正委員会」が結成された。
そして8月25日から3日間、全国有志大連合演説会をひらいて世論をもりあげにつとめた。
 これにたいして、郵便報知新聞を筆頭に、改進新聞・東京横浜毎日新聞・東京経済雑誌などが大隈案の擁護につとめたが、劣勢はおおいようがなかった。
 言論戦では国権主義者が主導権をにぎったが、地方の建白運動では民権派の大同両派が多年の組織活動の基盤を生かして主力となった。
明治22年9月30日、元老院調査の建白書総数は305通、署名人員は6万3616人、そのうち条約中止論が185通(署名5万6857人)、断行論が120通(同6759人)あった。
断行論の約半分は栃木県と兵庫県のものである。
 しかし、これだけの力なら、黒田(清隆<きよたか>)首相に助けられた大隈外交の急進行はくいとめられなかったかもしれない。
 ところが、またもや内部からブレーキがかかった。
7月に入って内閣法制局の長官である井上毅(こわし)が、外人法官任用は憲法第19条に違反するといいだした。
その第19条というのは、「日本国民ハ法律命令ニ定ムル所ノ資格ニ応ジ、均(ひと)シク文武官ニ任ゼラレ、其ノ他ノ公職ニ就クコトヲ得(う)」とあるもので、文武官になれるのは日本臣民だけだという『憲法義解(ぎげ)』の解釈によったのである。
 『憲法義解』は伊藤博文の見解である。
しかも伊藤は、このとき憲法解釈の決定権をもつ枢密院議長であった。
井上毅は暗黙の伊藤の支持を期待して、7月23日に辞表を提出した。
農商務相井上馨も、閣議で大隈案にいったん承認をあたえておいた自分の責任は棚にあげ、この形勢をみて大隈失脚の策謀をはじめた。
大隈の「失脚」

 井上馨は、先の自分の条約案が大隈案にくらべていちじるしく見劣りがするうえに、ことごとく郵便報知新聞などによって批判されたのが不快でたまらなかった。
井上は、明治天皇にさえ「狡猾(こうかつ)」な人間だと見られていたほどだから、自分からは動かず外遊中の内相山県有朋を利用することをおもいついた。
10月に山県が帰ると、かれを説きおとし、山県を正面に立て、西郷(海相)・大山(陸相)らを味方にひきこみ、大隈の孤立をはかった。
 しかし、大隈外相は黒田総理大臣を楯(たて)にして、この内外の反対に耳をかさず、改正交渉を強引におし進めた。
このころかれは、主観的には愛国の精神に燃えていたのであろう。
改進党もまた悲壮な決意で、街頭にでて5団体連合とたたかっていた。
 10月12日、違憲か合憲かの鍵をにぎる伊藤枢密院議長が辞任の意志表示にでた。
こうなっては大隈案の成立は絶望である。
3日後の10月15日に、御前(ごぜん)会議がひらかれ、断行か中止かで激論がかわされたがきまらない。
17日には井上馨も辞表を提出。
18日、三たび閣議、だが大隈は捨て身の決意をかため、長大の弁舌をふるって抗論しぬき、ついに決しなかった。
 そして、その日の昼すぎ、かれが外務省の門を過ぎようとしたとき、フロックコートを着た一人の壮士から爆弾を投げつけられた。
大隈は重傷を負い、黒田内閣は総辞職し、あとをついだ三条実美(さんじょうさねとみ)の暫定内閣が条約改正中止を決定、12月24日に山県有朋の新内閣が成立した。
 大隈は文字どおり「失脚」したのである。
投弾した壮士は、皇居にむかって正坐し、その場で短刀で自刃(じじん)したが、その行為はながく日本国粋主義者の模範としてたたえられた。
その壮士は来島恒喜(くるしまつねき)といい、頭山満(とうやまみつる)らのひきいる玄洋社の社員であった。
 こうして大隈案も葬られた。
そのあとは、青木周蔵(あおきしゅうぞう)・榎本武揚(えのもとたけあき)らが外相となって手がけたが決着せず、けっきょく、日清戦争の直前になって陸奥(むつ)外交のもとに法権完全回復が達成された。
それを思うと、大隈案がこのとき破棄されたことは、わが民族の独立にとって幸いだったということができよう。
 以上、欧米にたいする外交の歴史をみてきたが、これをもって明治外交の基軸だとうけとられたら大変なまちがいになる。
それは事態の半面にしかすぎない。
もうひとつの面、より本質的な面は、その後の日本民族の運命のみか、アジア諸民族の運命に決定的な影響をあたえたアジア外交の歴史である。
その核心は朝鮮問題であり、その発端と基本針路がどのようなものであったかは、前巻に詳説されているので、読者はその章(第20巻314ページ)をぜひ参照していただきたい。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中央公論社 昭和41年)
今朝の父の一枚です(^^)v
駐車場に戻ってきた父が「宝くじに当たった」と喜んでいました。
足が疲れて来て休憩しようとベンチを見ると濡れていたので探している時に、池にカワセミがいたそうです。
新しいコンデジにも慣れてきて、望遠側にズームする操作もできるようになりました。