2020年10月25日日曜日

いつもの日曜日に…

晴れわたって雲がない青空で行楽日和、多くの人で賑わっていました。
いつもの日曜日に戻ったような…。

毎日放送の「皇室アルバム
お誕生日を迎えられた美智子さまのこれまでの活動などが紹介されていました。
第26回IBBYニューデリー大会(1998年)での基調講演 
子供の本を通しての平和――子供時代の読書の思い出」(宮内庁)の中で
新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」を紹介しながら子ども時代に読書がどれだけ心の支えになるかを語っておられました。
そして最後にこう結ばれています。

どうかこれからも,これまでと同じく,本が子供の大切な友となり,助けとなることを信じ,子供達と本とを結ぶIBBYの大切な仕事をお続け下さい。

子供達が,自分の中に,しっかりとした根を持つために
子供達が,喜びと想像の強い翼を持つために
子供達が,痛みを伴う愛を知るために
そして,子供達が人生の複雑さに耐え,それぞれに与えられた人生を受け入れて生き, やがて一人一人,私共全てのふるさとであるこの地球で,平和の道具となっていくために。

一方、大阪では、美智子さまの思いとはかけ離れた状況です。

 吹田市万博公園の大阪府立国際児童文学館が廃止されたために、それまで存在した児童文学館の財団への運営委託費はゼロになりました。
財団が移転・再スタートしたときから、組織の規模を大はばに縮小して、かつての寄付金を取り崩しながら現在にいたっています。

大阪国際児童文学振興財団 メールマガジン【特別号 NO.6】
番組の途中で臨時ニュースのテロップ
核兵器禁止条約、年明け発効へ」(TBS NEWS 10月25日)

日本は、被爆国なのにアメリカの顔色をうかがって
唯一の被爆国である日本は米国の「核の傘」に入る立場から条約に反対し、参加の意志はない〟(産経新聞 10月25日
Eテレのららら♪クラシック「ラモーとバロック・オペラの世界
ラモーについてまったく知らなかったのですが、宮川彬良さんの解説を聞いた後で
最後で流れたパリ・オペラ座の「みやびなインドの国々」。
たった4分間だったけどすごかった…
見逃し配信を10月30日まで見ることができます。
(ネットで検索すると否定的な方もおられますが(^_-)-☆)

宮川彬良さんもTwitterに

「ラモーとバロック・オペラの世界」 - NHK
。。。て書かれると興味出ないかもしれませんが、ホントめちゃカッコイイ曲を紹介します。
1683年生まれの作曲家です!
今週の金曜日です。
今度は忘れずに僕も見ます。

#らららクラシック
10月25日
 島原(しまばら)の乱がはじまった。 1637(寛永<かんえい>14)年

 10月はじめから、島原半島の有馬(ありま)地方ではじまったキリシタンの一揆は、この日の夕方、領主松倉勝家(まつくらかついえ)の代官所を襲った。
一揆はまたたくうちに天草(あまくさ)にもひろがり、翌年2月28日に全滅するまで4カ月間にもおよんだ。
島原の一揆軍2万4千人と天草の一揆軍1万3千人は、12月に春の城とよばれていた古城(原城)にたてこもり、天草四郎時貞(ときさだ)を大将として幕府や大名の大軍と戦った。
城壁から農民たちはこう叫んだという。
「年貢をおさめろと俺達をせめつけたときのように、城にせめこんでこれないのか、卑怯者(ひきょうもの)!」
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
島原・天草一揆」(中学・高校 動画1分25秒)

江戸開幕』より島原・天草の乱について転記しますφ(..)
第7章 鎖国の完成
 2 島原の乱
 一揆蜂起す


 島原での一揆の発端については、当時からいくつもの情報が飛び交い、かならずしも定かではない。
ここでは、おもに煎本増夫(いりもとますお)氏の仕事によりながらみていくことにしよう(『島原の乱』教育社 1980年)。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)
 1637年(寛永<かんえい>14)10月ごろ有馬(ありま)村では、肥後天草(ひごあまくさ)の天草四郎(しろう)のもとでキリシタンとなった三吉(さんきち)と角内(かくない)というものが、キリシタンの絵を持ち帰り、それを飾ってキリシタン宗門(しゅうもん)への立ち帰りを勧めたところ、毎夜おびただしい人が周辺の村々から訪れ、次々とキリシタンに立ち帰った。
 この注進を受けた島原藩では、10月24日3人の侍を遣わし三吉と角内を捕らえ、その家族ともども島原に引き立てた。
それに対して、百姓らは翌日有馬村で代官の林兵左衛門(はやしへいざえもん)を殺害し、鉄砲などの武器を集め、島原の城下へとおし寄せんとし、島原への道筋では味方しない村に火をかけ焼き払った。
そして翌26日は、一揆の討伐に出た島原藩の兵と戦いながら、島原の城下に入り火を放ち、城を攻め、島原半島の南部をほぼその勢力下に置いた。
しかし城は容易に落ちず、一揆勢と城に籠(こも)る藩兵とのあいだは膠着(こうちゃく)状態となった。
こうしたなか一揆勢は、松倉重政(まつくらしげまさ)が島原に城を移すまで使われていた島原半島南部の古城原城を修築し、一揆の本拠とした。
 城を攻めはじめたころの一揆勢は7、8か村であったが、その後島原半島の南部を中心に膨れ上がっていった。
布津(ふつ)・堂崎(どうざき)・有家(ありえ)・口之津(くちのつ)・加津佐(かづさ)・串山(くしやま)の各村は全村あげて、中木場(なかこば)・深江(ふかえ)・小浜(おばま)の各村は大半の百姓が、そのほか三会(みえ)・島原・安徳(あんとく)・千々石(ちぢわ)の各村からもかなりの百姓が参加し、その数は4011軒、2万3888人にのぼった。
 いっぽう、島原より少し遅れ肥後天草でも一揆が呼応した。
11月に入って膠着状態にあった島原の一揆の一部は、大将の天草四郎とともに、天草の一揆に加勢するため天草に渡った。
そして14日には唐津(からつ)藩寺沢(てらさわ)氏が天草支配のために富岡(とみおか)城に置いた三宅藤兵衛(みやけとうべえ)の勢と天草本渡(ほんど)で戦い、藤兵衛を戦死させ、ついで軍を引いた唐津勢の籠る富岡城を攻めた。
富岡城攻撃は19日から22日に及んだが、結局この城も落とすことができず、反対に城内からの鉄砲や火箭(ひや)で一揆側は大きな損害を受けた。
 富岡城攻めの失敗のあと天草の勢を含めた一揆勢は、11月の終わりから12月はじめに天草から島原に戻った。
そしてそこで態勢の立て直しをはかり、口之津の松倉氏の蔵を襲い、鉄砲・玉薬(たまぐすり)・兵粮米(ひょうろうまい)を奪い、原城に運び込み、籠城(ろうじょう)の態勢を固めていった。
おそらくこのころには幕府からの派遣された上使の到着がまもないことを一揆側も知っていたであろう。
(中略)
 一揆の性格

 島原・天草一揆の原因や性格については、当時から領主の圧政に対する百姓一揆だとするものと、キリシタンによる宗教一揆だとするものがあった。
確かに、島原藩では検地(けんち)を実施し、最初の検地で表高(おもてだか)4万石を10万石にし、二度目の検地で13万石近い高とし、年貢搾取の徹底化をはかり、未進(みしん)に対しては、体に巻き付けた蓑(みの)に火を付ける「蓑踊」や逆さ吊(づ)りなどで百姓を責めた。
このように百姓が松倉氏の圧政に対して立ち上がる条件は、存在した。
 いっぽう、島原藩領のキリシタンは、松倉氏の厳しい弾圧によってほとんどが棄教していたが、密(ひそ)かにロザリオの組などと呼ばれた講組(こうぐみ)を組織し信仰を保持していた。
また、弾圧の最中、いったん棄教したものが「立帰る」ものもあり、潜入してきた宣教師たちがそれを助けていた。
 一揆は、潜伏したキリシタンの多い島原半島の南部を中心に起こり、北部の村々からの参加はなかった。
そして領外である天草の一揆と合流し、死にいたるまで4か月ものあいだ領主軍と戦った。
そこにはなんらかの結集するための論理が必要であった。
 一揆側の論理は、キリスト教であった。
11月8日に一揆に加わった庄屋(しょうや)・乙名(おとな<有力百姓>)・百姓たちが天草四郎時貞(ときさだ)に差し出した誓紙には、キリシタン宗門に立ち帰ったことに偽りのないこと、宗旨のために一命を捨てて、四郎の下知(げち)に従うことが記されている。
また、天草の状況を探索に出た熊本藩の井口少左衛門(いぐちしょうざえもん)の報告によれば、一揆側は、「きりしたんに成り候はば、与に入れ申べく候、左なく候はば、討ち果たすべし」と村々の百姓に呼び掛けている。
このように一揆は当初からキリスト教への信仰を結集の核としていたのである。
 島原藩の家老は、一揆蜂起(ほうき)を伝えるとき「爰元(ここもと)百姓幾利支丹(キリシタン)立ち上がり、俄(にわか)に一揆の仕合」と報じ、一揆がキリシタンによるものだとした。
ここには、藩の側に苛政(かせい)を隠蔽(いんぺい)しようとする意図もみられなくはないが、ここでこの一揆をキリシタン一揆としたことは、このあとの展開に決定的な影響を及ぼした。
 それは、この報が江戸に届き、家光(いえみつ)の耳に入ったその日に上使(じょうし)の派遣が決定されたことに示される。
すなわち、大名領内で起こったごく一般的な一揆であれば、家光は大名に帰国を命じても、すぐさま上使派遣を決定することはなかったはずである。
家光の決断がすぐさまなされたのは、この一揆が公儀の禁止するキリシタンの一揆であったからであり、また、その禁圧に家光がことのほか執心していたからである。
その結果、領主側はこの一揆をキリシタン一揆ととらえ、以降それに対処していった。
(後略)
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)
なお、省略しましたが
「そして11日、信綱は、オランダ商館長クーケバッケルに命じ、平戸に来航していたオランダ船デ・ラウプ号を廻漕(かいそう)させ、海上から原城を攻撃させた」こと
「ただオランダ人が信綱の命に従い砲撃にあたったこと、島原の乱後の鎖国の展開に大きな影響を与えるとともに、その後長くオランダ人の『ご忠節』として記憶にとどまることになった」(「原城落ちる」)
恩賞のない戦い」であったことなどが書かれています。
今朝の父の一枚です(^^)v
新しいコンデジは600㎜位の望遠になるので野鳥を大きく写すことができて喜んでいます。
ただ、液晶画面を見ながら写すので苦労しています。