2020年10月11日日曜日

四日間も歩いていないと…

しばらくリハビリ散歩ができなかった…
歩くといえば買い物くらい。
久しぶりに歩くと息切れしそうになります。
柚子の実が黄色くなってきました。
禁止されているのに黄色くなる前に取っていく人がいる。
一つくらい味見に取っていくのは分かるのだけど、
父がカリンを写していた時、横からもぎ取った夫婦がいたと怒っていました。
イチジクやビワなどを枝を折ってまで、ゴソッととるマナーの悪い人もいます。
鳥や虫たちのためにそのままにしてあげたらいいのに…
もりまゆみさんのTwitter

うちの母91歳、コロナの元で孫や娘の顔が見えないと、iPad買って顔の見える会話に挑戦中。
昨日は「これから昭和4年生まれでなく1929年生まれと考えることにした」
「大恐慌の年、バチカンができた年、キング牧師と同い年」だって。


スゴイナァ!(*_*)!

ラテラノ条約の条文をみたい」(レファレンス共同データベース)
 岩波書店のTwitter

【今日の名言】
自分の記憶力に十分自信がない者は嘘つきになろうとしてはならぬ。


――モンテーニュ『エセー』(一)☞
鳥飼玖美子さんのTwitter

政治家やマスコミが学術会議について調べもせず、会員は非常勤なのに、公務員として多額の給料や退職金を得ているなどの誤報を流しているのは遺憾です。
会議に出席すれば出る手当は微々たる額なのを、学術会議は公表して誤解をとくべき。→


スレッドも読んでください。
誤解を与えるような発言が政治家や民放のコメンテーターによって垂れ流しのように広がっている。
まるでアメリカ大統領の真似をしているのかと思う。
中国のように学問の自由を制限し、管理下におこうとするのは止めていただきたい。

10月11日
 マッカーサーが五大改革を指令した。 1945(昭和20)年

 連合国最高司令官マッカーサーは、この日政府に五大改革を指令した。
五大改革とは、婦人の解放・労働組合の育成・教育の民主化・圧制的諸制度の廃止・経済制度の民主化である。
この指令を受けて、婦人参政権が実現し、男女平等をうたった新憲法の下に男女同一賃金の原則を定めた労働基準法が公布された。
また、団結権・団体交渉権・争議権を認めた労働組合法が制定され、労働組合の育成がはかられた。
教育の面では軍国主義教育の中心であった修身・国史・地理の三教科の停止が命ぜられ、2年後には男女共学の六・三制義務教育が発足した。
また国民の自由を弾圧してきた治安維持法・治安警察法が廃止された。
経済面では不在地主を禁じ小作地は一町に制限する農地改革、三井・三菱・住友・安田などの経済支配力を分散する財閥解体が進められた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史26 よみがえる日本』より関連する項目を転記します。
解説」を書かれた猪木武徳氏によると

(前略)
 蝋山政道『よみがえる日本』は、著者自身が戦前と戦後の学問・教育・政治の世界に身を置き、さまざまな歴史的局面で「その時、その場にいた」ことを記録したという点で史料価値をも有する作品といえよう。
(後略)
占領軍きたる

 8月15日、日本のポツダム宣言受諾が表明されると、時を移さず米国政府から日本政府にあてて、停戦実施のため日本側のとるべき措置を、スイス政府を通じて指示してきた。
同時に、マッカーサー元帥が連合国最高司令官( SCAP = The Supreme Commander of the Allied Powers )に任命された。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
 ダグラス・マッカーサー元帥は、いうまでもなく極東アメリカ陸軍司令官としてフィリピン駐在中、太平洋戦争をむかえ、日本軍のバターン半島攻撃が始まると、オーストラリアに退却した。
そこから反攻作戦にでて、ニューギニアからレイテ、沖縄とつぎからつぎへと日本軍を破る偉功をたてた。
したがってかれが最高司令官に任命されたのは当然のことであるが、日本にとって偶然ながら幸いであったことは、かれが父アーサー大将の子として、父子二代にわたって極東通であり、とくに日本研究者であったということである。
 わたくしは、戦時中、かれの住まっていたマニラホテルの一室にそのまま保存されていた所蔵図書をみて、かれの日本の歴史と文化についての関心と教養の深さを知って驚いたことがある。
 マ元帥から、日本政府と大本営にあて、代表者をただちにマニラに派遣せよ、という指示がとどいた。
日本は、参謀次長河辺虎四郎(かわべとらしろう)を団長とする使節団を任命した。
使節団は19日に木更津(きさらづ)海軍航空基地を出発し、マニラにて19日と20日の二日間にわたり会談を行った。
この会談の主たる目的は、使節団が占領軍の日本進駐についての要求書を受理し、また天皇のだす勅語案と降伏文書案を連合国側に受理せしめるものであった。
このとき、占領軍の日本進駐は、日本側の準備の都合で8月23日から同月26日に延期された。
 占領軍が厚木航空基地に到着したのは、8月28日であった。
台風のために2日ほど延期されたのであった。
つづいて30日より、マ元帥を先頭とする連合国軍隊の日本進駐が開始せられた。
日本についたマ元帥は、ただちに横浜税関を総司令部(GHQ : General Headquarters )にあてた。
この日から日本占領は始まった。
ついで9月2日、東京湾に入港していたミズーリ号艦上で、マッカーサー最高司令官ならびに連合国各国代表者と、日本側重光(しげみつ)・梅津(うめづ)両全権とのあいだいに降伏文書調印式が行われた。
これによって日本は正式に占領下におかれた。
 この調印式直後にマ元帥が米国民に送った挨拶には、特筆に値するつぎの文句があった。

  「われわれは今日、わが米国人ペルリ提督ゆかりの地、東京湾に立っている。
ペルリ提督の目的は、当時の日本から鎖国のヴェールを取り払って世界各国との友好、平和的通商ヘの門戸を開き、この国に光と進歩をもたらすことだった。
しかし残念なことにかくて得られた得られた西洋の科学的知識はその後の日本により歪めれ贋造されて、人間的抑圧と奴隷化の道具と化した。
そして言論の自由、行為の自由のみならず、思想の自由までが自由教育の圧迫と迷信と更に権力の濫用とによって封ぜられた。
われわれはポツダム宣言によって日本国民をかかる奴隷状態から解放すべく委任された。
従って余の任務は出来るだけ急速に日本軍の武装を解除すると共に戦争再開の可能性を除いてこの委任に応えることだ。
日本民族の精力は、もしこれが正当な方向に導かれるならば、平面的よりも寧ろ立体的な発展を遂げ得ることだろう。
またもしこの民族の能力を建設的な軌道に振り替えれば、この国は現在の憐れむべき状態からやがては立派な地位に自らを高めることができるであろう」
初期占領政策

 かような機構による占領政策は、前記9月22日発表の「日本管理政策」にもとづいて着々と実施された。
その管理政策の内容は、政治・経済の2部に分かたれている。
政治においては、武装解除ならびに軍国主義の抹殺、戦争犯罪人の指名と処刑、個人の自由および民主主義の助長に3部からなっている。
経済においては経済上の非軍事化、労働・産業および農業における民主主義的勢力の助長、平和的経済活動の再開、侵略財産の賠償、在外資産の処分および返還などの数節にわたっている。
 こうした非軍事化と民主化とを目的とする基本方針にもとづいて、具体的な指令が発せられた。
それは、たとえば東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣倒壊の直接原因となった10月4日の「政治、信教並に民権の自由に対する制限の撤廃」のごときものである。
それによって占領軍は戦前の思想警察を撤廃し、首脳関係の罷免を要求した。
たまた、つづいて10月11日、幣原(しではら)内閣成立後、幣原首相がマ元帥を訪問したさいに、同元帥から社会改革の即行を要求された。
その内容は、

 (1)婦人参政権による日本女性の解放

 (2)労働組合の結成奨励

 (3)学校教育の自由化

 (4)秘密訊問ならびに民権を制限する制度の撤廃

 (5)経済諸機関の民主化

 以上5項目にわたる、いわゆる民主化五大政策と称せられるものである。
 こうした初期占領基本方針による指令に従って、幣原内閣はこれらの指令をいかに具現するかについて対策の樹立を急がねばならなかった。
たとえば婦人の参政権を認めるために、選挙法改正の具体案をねった結果、選挙年齢を男女とも満20歳にさげ、被選挙年齢を同じく満25歳とし、さらに大選挙区制限連記制などの方針を定め、これを11月下旬より12月中旬にかけての臨時議会(第89帝国議会)に提出することにした。
この一例の示すように、政治・経済および社会の各方面にわたる改革指令の具体化を急いだ。
 このように幣原内閣は占領政策の具体化と取り組んだが、これら初期占領政策の中で、非軍事化や戦犯者指定や戦争協力者の公職追放などの解決は比較的容易であった。
なぜなら戦犯については、ポツダム宣言第10項に「俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人」と規定されており、また9月22日の米国の占領政策指令にも、「最高司令官又ハ適当ナル連合国機関ニ依リ戦争犯罪人トシテ告発セラレタル者」とあるから、これらは総司令部およびやがて設置される極東裁判所の判定にまかせられるからである。
戦争協力者の追放にしても、GHQの定めた追放令骨子によって、具体的・技術的にリストを作成するだけである。
 また財閥その他の経済団体に解体にしても、11月4日のGHQの解体指令が三井・三菱など15財閥を具体的に指定しており、21年5月の極東委員会による中間賠償指令にも具体的な指定があったからである。
農地改革についても、きわめて重大な改革であったが、だいたいにおいて同様なことがいえよう。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
冬桜が咲いているので喜んでいました。
この公園にきてフユザクラを知りました。
母も珍しがって、毎年、咲くのを楽しみにしていました。