2020年10月19日月曜日

雨が降りそうだったので…

今朝は、90㎜レンズでなく、雨が降ってもカバンにすぐにしまえるように50㎜レンズで出かけました。
このレンズ、フォーカスリングを回すとカクカクとなる…
40年以上前に購入したレンズなのでいつまで使えるかな?
まったくメンテナンスをしないので(^^ゞ
カメラ本体も何度か落しているので液晶に筋が入っている。
動かなくなったら買い替える必要があるのだけど…
安全なコロナワクチンができるまで我慢かな?
Takayuki Miyazawa(宮沢 孝幸)さんのTwitterに

私の阪大時代の上司(松浦善治教授)も勇気を出して発言してくれたようです。
一人じゃなかった。
研究者ももっと勇気を出して、声を上げれば真実が伝わるはず。
今は有事。
黙っていてはいけないと思います。


「自分だったら怖くて打ちたくない」国産ワクチン開発に挑む研究者の“意外な本音”〟(河合香織 文藝春秋2020年10月号)

中国とロシアはワクチン接種を始めたとのニュースをみたことがあるけど
どうなっているのかな?
高須力弥さんのTwitter

人命の方が大切です。

力弥さんのTwitterを見ていると、

親は親、子は子
親と子が似ているとは限らない。たとえ親子でも才能や性質は別であるということ。
【反対句】親が親なら子も子
(『用例でわかる故事ことわざ辞典』学研辞典編集部 2005年)

力弥さんのご尊父が呟いておられた愛知の震度は3位だと思いますが…
10月19日
 日ソ国交回復が実現した。 1956(昭和31)年

 この日、日ソ共同宣言がクレムリン宮殿において鳩山(はとやま)・ブルガーニン両国首相の間で調印され、11年にわたった両国の戦争状態が終った。
ソ連と国交回復して、日本が名実ともに国際社会の一員となるという国民の願いはようやく実現された。
だが、ソ連と「冷たい戦争」をしていたアメリカはこれに好意的ではなかった。
「領土問題でソ連に譲歩したら、アメリカは沖縄を永久に占領するぞ」とおどかしたりした。
アメリカとソ連に気がねして、結局千島(ちしま)と歯舞(はぼまい)・色丹島(しこたんとう)問題は継続交渉とされ、難問の解決は後まわしにされてしまった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日ソ国交回復 共同宣言調印」(NHKアーカイブス 1956年)

日本の歴史26 よみがえる日本』より日ソ国交回復について転記しますφ(..)
自主外交への歩み
 鳩山内閣の日ソ交渉


 サンフランシスコ条約を拒否したソ連との国交回復をいかになしとげるか。
これもサンフランシスコ体制下におかれた日本にとって、きわめて困難な問題であるが、また同時に北方領土問題や漁業安全操業など、国民的利益にかかわる緊急な問題でもある。
すなわち日ソ交渉は、二つの世界の谷間にあって、そこから自主外交の路線をきりひらいてゆく日本外交にとって一大試煉である。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
 この問題がはじめて取り上げられたのは、終戦後10年たった30年12月の総選挙にのぞむ鳩山内閣であった。
鳩山首相はその選挙公約として日ソ交渉を大きく取り上げ、政権確保に役立てようとした。

 独立後、政界に復帰した鳩山一郎を首班とする鳩山内閣が、この日ソ関係の正常化を取り上げた動機は、単に北方領土や漁業紛争のごとき、直接政府間の交渉を必要とする問題の解決のためばかりではなかった。
吉田内閣の外交政策にたいして、国内の左翼勢力の言い立てる「向米一辺倒」の主張をおさえるとともに、過去10年間ひたすらに日米友好関係の基礎固めに努力してきて、そのためには反共的態度をとるもやむなしとする姿勢を示してきた吉田内閣にとって代わるための、政治的方略でもあった。
さらに客観的立場からみれば、長く閉ざされていた日本の国際路線をひらき、その国際外交の空白を解消する重要な政策転機でもあったといえよう。
 またソ連側においても、スターリンからフルシチョフへの政権移動があって、平和共存路線の布かれ始めたときでもあり、アジア、アフリカにはバンドン会議の平和十原則に現われたような平和ムードがたかまっていた。
日ソ平和交渉の機熟したといえる。
 しかし日ソ交渉には、意外に大きな暗礁があって難航を余儀なくさせられた。
それはいうまでもなく南千島の領土問題であった。
一見してそれほど重大とは思えない問題が、何故にソ連の強硬な主張となっているかについては、当時の日本国民にはじゅうぶん理解できなかった。
それは敗戦日本の処理方式を協定したヤルタ、ポツダム協定に一貫していたソ連の対日戦参加の条件につながっており、スターリン外交の周到に考えられた対資本主義体制、すなわち自由主義国家体制による包囲または封込め政策に対抗する、戦略体制の一環でもあったのである。
 これに反して、日本国民は戦後長いあいだ敗戦の虚脱状態にあり、占領下において経済生活の再建復興に専念して、領土問題などについてはほとんど諦めに近い状態にあった。
したがってサンフランシスコ会議のさいにも、領土条項についてはソ連の反対を考慮しつつも、平和条約の成立のために原案のまま承認したのである。
また批准のさいにも、南千島の国後・択捉両島が千島列島に包含されていないことを、公式に留保したわけでもない。
それゆえ国際的には、日本は千島列島を完全に放棄したものと解せられたのである。
 ただ、すでにサンフランシスコ会議の章節において述べたごとく、吉田全権がその受諾演説においてソ連の主張に反駁し、南千島は日本固有の領土である旨に言及している。
しかしこれは要するに、他日機会あらば、国際交渉によって決せられるべきだということを意味したにすぎない。
いまその機会が到来したのである。
 日ソ共同宣言

 ところで日ソ交渉の発端は昭和30年6月、ロンドンにおいて、当時、民主党の代議士松本俊一(まつもとしゅんいち)とソ連のマリク駐英大使とのあいだの会談で始まった。
しかし領土問題で対立したまま30年3月、無期休会となった。
ついで7月、重光外相が訪ソしてシュピーロフ外相とモスコウ会談におよんだが、うまくいかなかった。
席上、重光外相は領土問題について、その歴史的根拠と法律論をもって堂々と日本の立場を主張した。
だが、これは日本国民の支持をかちえる国内向けの主張にすぎないかのごとく、実際の交渉においては「忍び難きを忍んで」歯舞・色丹だけを返還するというソ連案をのまねばならなかった。
 これは鳩山内閣としては、一方において日本における国論の一致を求めつつも、他方さし迫っている漁業問題の解決のため、領土問題を棚上げして交渉をまとめねばならぬという苦しい立場にあったためである。
 事実、会談は一時中絶したが、その年の10月7日、鳩山首相みずから病を冒してモスコウにおもむき、19日、戦争状態終結および国交回復の日ソ共同宣言と通商航海議定書に調印した。
それにおいても領土問題はソ連の主張どおりになっている。
日本としては日ソ国交回復を先決として、漁業・通商問題の解決を急ぐとともに、日本の国連加盟にかんするソ連の反対をとりのぞくため、領土問題を棚上げしたのである。
 ここで、これにたいする国内世論の反応をみてみると、当時日本財界の一部では、これによって共産主義勢力の強化・浸透することを恐れているというような消極的態度もみられたが、それはまったく杞憂にすぎなかった。
もちろん日ソ平和条約の締結に進むためには、領土問題の解決に新しい方針を樹立するとともに、内外の共産主義勢力に自信をもちうるまでに、国内政治の安定を改善を必要とするであろう。
 しかし歴史の進行は、ソ連側においてもフルシチョフ政権への移動があり、中ソ論争という新しい事態の発展を示した。
その間、日ソ関係もしだいに好転し、漁業問題や通商貿易問題もおもむろに進展つつある。
またシベリア開発という日本の協力を必要とする問題もある。
とくに1962年(昭和37)のキューバ事件以来、米ソ関係の好転や部分的核停協定の成立によって、冷戦的緊張の緩和が見られ、日本人のソ連への恐怖や不信はいちじるしく減退した。
1964年の年頭に、フルシチョフ首相が日本国民へあてたメッセージの中に、つぎのごとき表現がある。
 「1963年には日ソ両国間に貿易・漁業・文化・学術の交換領域で相互に有益な関係が拡大された。このような協力は双方に利益をもたらし、極東の平和と安全を強化するものである」
 こうしたソ連側の態度は、日本人のおおむね同感するところである。
これがサンフランシスコ体制に強く反対し、日本を侵略国としてのみ見ていた十数年前のソ連指導者の言辞とは、簡単に受け取れないくらいの変化である。
このような変化の背後になにが存在しているのか。
おそらく二つの世界の谷間にあって、そこから少しでもはいでて、東西への窓を開こうとする日本の自主外交への努力が、少しずつ認められた証左でもあろう。
また同時に、中ソ論争に見られるような共産圏自体に発展しつつある体制的変動の影響も、見逃しえないであろう。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
問題はあるにせよ吉田茂氏は対米関係について
鳩山一郎氏は対ソ関係について足跡を残しておられます。
一方、外交を売りにしていた安倍晋三氏はアメリカやロシアとの関係について
何か、進展をもたらしたのかなと考えると
支持者の方々には申し訳ありませんが、アメリカやロシアにとっては
「鴨が葱を背負って…」という美味しい相手だったのではと思います。
また、菅首相は、就任後初めての外遊に出られましたが
国会での所信表明をせずに出かけておられる。
国会軽視もいいところだなと思います。
学術会議任命拒否についても説明もせずに国民が忘れるのを待っているくらいですから。
中国共産党化する日本政治」(小幡績 Newsweek日本版 10月3日)
中島岳志さんのTwitter

中曽根元首相は知的で隙のない方だった。
四元義隆についてインタビューしたが、途中で「中島さんとは河合栄治郎について話をしたい」とおっしゃり、しばし戦前の自由主義や教養主義についてお話しした。
中曽根さんは、葬儀をめぐる権威主義を、彼方から冷ややかに見ていらっしゃるのではないか。


美輪明宏vs中曽根康弘
《中曽根に会って、いきなり、「キミらみたいなのは海軍魂を知らんだろうな」…と言われた美輪は、「ええ、年齢が年齢ですから、海軍魂は知りませんけど、原爆にやられました。竹槍の練習もさせられたし、銃後の守りでいろいろやらされました」と返し、さらにこう反論した。》↓
(美輪明宏さんの反論が素晴らしいです。スレッドをお読みください)
今朝の父の一枚です(^^)v
初めはスズメかなと思ったけど、スズメより大きいなと写したそうです。
今年は、モズに出会うのが少ないです…
リハビリ散歩は1時間半くらいなのですが、去年はそんな短い時間でも会えたけど…