2020年10月13日火曜日

秋の香り

公園に着くと甘い香りが漂っていました。
普段は目立たないし、小さな花なのに香りで自己主張している。
嗅覚に異常なし(^^)v
筒美京平さんが亡くなられましたね…
代表曲が紹介されていましたが、
この曲も、この曲も…京兵さんの作曲なんだと改めてすごいなと思いました。
その中でも一番の思い出は、南沙織さんの「17才」。
この曲を録音したくて、家族に私語禁止令を発して、
テレビの前でテープレコーダーをセットしていました(*´▽`*)
当時は、まだオープンリールのテープレコーダーでした(その時の年齢は…)

湯川れい子さんのTwitterに

筒美京平先生は洋楽を知り尽くし、日本人のセンチメントもテイストも全部知って、曲を作っておいででした。
編曲も考えながら曲を作りながらアレンジまで考えていた人、という意味でも、京平先生と井上忠夫(井上大輔)さんは別格だったと思います。
沢山の音楽財産とメモリーに感謝!!
残念です。合掌。
久しぶりに結婚式の前撮りをされている場面に出会いました。
以前は、よく見かけたのだけど、新型コロナの影響で、めったに見られなくなりました。
大変な時期だけど幸せな門出でありますように!
  祝婚歌

二人が睦(むつ)まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

(『吉野弘詩集』1999年 ハルキ文庫)
餃子専門店 四一餃子さんのTwitterに

沢山のコメントやメッセージありがとうございました。
ネットを開くと見たくない言葉が溢れていて、まだ直視できる状況ではないのでお礼や返信ができませんがお許しください。
妻は不安定な状態が続いており営餃再開は困難だと判断し、今後はネット通販及び販売所での販売に切り替えていきます。


これだけ読んでも背景が分からないと思いますが…
ホリエモンVS餃子店のマスク騒動、店主が憔悴しながら告白した「事の発端」〟(週刊女性 10月9日)
10月13日
 百済から送られた仏像を礼拝すべきか否かで論争が行なわれた。 552年

 この日、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から燦然(さんぜん)とかがやく金銅の釈迦仏像と経典とが大和の朝廷に送られてきた。
欽明(きんめい)天皇はこれを礼拝し、仏教を受容すべきか否か、廷臣たちに意見をのべさせた。
蘇我稲目(そがのいなめ)はこれを受け入れるべきだと述べた。
これに対して蘇我氏のライバルであった物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は反対した。
蘇我稲目はその反対を押し切って、仏像を自分の邸(やしき)に持ちかえってまつり、そこを向原寺(むくはらでら)と称した。
これが『日本書紀』の伝える仏教受容の歴史であるが、これを10月13日とするのは『一代要記(いちだいようき)』の記載である。
なお、552年という年代にも疑問があり、538年という説が有力である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
豪族たちの対立」(小学6年 動画1分11秒)

日本の歴史1 神話から歴史へ』より「蘇我氏と物部氏の対立」「豊浦寺の古縁起」を転記しますφ(..)
古代国家への歩み
 蘇我氏と物部氏の対立


 しかし、歴史にとって、より重要なことは「伝来」ではなく「興隆」である。
日本における仏教の興隆の糸口は、朝鮮諸国のばあいと同じに、やはり朝廷における仏教の摂取によってはじめて開かれた。
この朝廷と仏教の関係は、かならずしも信仰の問題ではなくて、むしろ政治の問題であったが、ここに、仏教伝来についての日本書紀の一連の記事の要点を紹介してみよう。
(『日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞 中公バックス 1970年)
 (a)欽明13年(552)、百済聖明王は使節を遣わして釈迦仏金銅像1軀(く)、幡蓋(はたきぬがさ)若干、経論(きょうろん)若干巻を献(たてまつ)り、別に表文(省略)を献(たてまつ)って仏像礼拝の功徳(くどく)をたたえた。
 (b)天皇は、「いまだかつてこれほど微妙な法は聞いたことはない」と歓喜し、礼拝の可否を群臣に求めた。
このとき、蘇我大臣稲目は、
「西蕃諸国(にしのとなりのくにぐに)はみな仏像を礼拝しております。『豊秋日本(とよあきつやまと)』だけがどうして独(ひと)り礼拝しないでいられましょう」と答えたが、物部大連尾輿(おこし)らは、
「わが国家の天下に王とまします人は、つねに天地の百八十神(ももあまりやそがみ)を四季ごとに祭ってまいりました。いま改めて蕃神(となりのくにのかみ)を礼拝するならば国神(くにつかみ)の怒りを招くでありましょう」と反対した。
 (c)そこで天皇は、蘇我稲目に私的に礼拝すること許した。
稲目は小墾田(おはりた)の家に仏像を安置し、ねんごろに出世業(よをいずるわざ)を修めた。
 (d)そのころ国内に疫気(えやみ)が流行し、民の死する者が多かった。
物部大連尾輿・中臣連鎌子(かまこ)らは、これを蕃神礼拝のためとして仏像の破棄を天皇に奏上した。
天皇はその言をきいて仏像を難波(なにわ)の堀江(ほりえ)に流し、伽藍(がらん)は火をつけて焼いてしまった。
 (e)敏達13年(584)、百済に使いした鹿深臣(かふかのおみ)らが弥勒(みろく)像などを持ち帰った。
蘇我馬子(稲目の子)は、これらの仏像を供養(くよう)しようとおもい、鞍部村主(くらつくりのすぐり)の司馬達等(しばだつと)らを遣わして修行者を求め、還俗(げんぞく)の尼、高句麗の慧便(えびん)を探しだした。
達等の女(むすめ)の嶋(しま)らはこれを師として得度(とくど)して尼となった。
馬子は宅の東方に仏殿を構え、仏像を安置し、達等は仏舎利(ぶっしゃり)を献じた。
 (f)敏達14年(585)、蘇我馬子は大野丘(おおののおか)の北に仏塔を建てて設斎(おがみ)の大会を催し、達等の献じた仏舎利をおさめた。
 (g)同じ年また疫病が流行した。
物部大連守屋(もりや<尾輿の子>)らは、これも仏法興隆のためだと言いだし、仏像を焼き、難波の堀江に投じたばかりでなく、佐伯連御室(さえきのむらじみむろ)を遣わして尼らを捕え、海石榴市(つばきのいち)に閉じこめた。
しかし、馬子はなおも礼拝をつづけようとしたので、天皇はその私的な礼拝は許し、尼を馬子に還した。
 (h)用明2年(587)、天皇は病の床につき、仏法の帰依(きえ)しよとした。
物部大連尾輿らはこれに反対したが、馬子は豊国法師(とよくにほうし)を内裏(だいり)に迎えいれた。
このことから蘇我馬子と物部守屋は、はげしく憎みあうこととなった。
豊浦寺の古縁起

 これらの話は、いったい事実なのだろうか。
欽明・敏達・用明朝といえば、歴史の記録もかなりすすんできた時代なのだが、これは仏教のことで、日本の仏教の歴史としてはいわばまったく神話時代の話である。
神話時代なら、その神話の文献的批判(テキスト・クリテイーク)が必要であろう。
 この一連の物語が、747年(天平19)にできたという「元興寺(がんこうじ)伽藍縁起流記(るき)資財帳」(元興寺縁起)とだいたい内容が同じで、おそらくこれをもとにして日本書紀の編者は書いたのであろう、ということはかなり以前から知られていた。
しかし、この縁起と日本書紀の関係を学問的に明らかにしたのは、建築史家の福山敏男(としお)氏が1934年に史学雑誌に投じた二つの論文であった。
その要点はつぎのようである。
 「元興寺縁起は天平19年にできているというが、じつはそうではない。
これは飛鳥寺(あすかでら<元興寺の前身>)と、そのすぐ近くの豊浦寺(とゆらでら)との寺領争いの争論が、平安時代のはじめに起こったとき、飛鳥寺が、豊浦寺も飛鳥寺ももとは一体のものであったことを主張しようとしてつくった偽(にせ)縁起である。
しかし飛鳥寺はこの縁起をつくるとき、当時飛鳥寺に伝わっていた塔露盤銘(とうのろばんのめい)や丈六(じょうろく)釈迦像の光背(こうはい)銘、また豊浦寺に伝わった古い縁起などを材料として用い、これを写しとってところどころに手を加えたものである。
そして、塔露盤銘は596年、光背銘は606年のものであるが、豊浦寺の古縁起もまた、日本書紀の成立よりは古いものであろう。
そしてこの古縁起こそが、日本書紀の上記の説話群の原史料だったのである」
 わたくしはこの福山説を全面的に支持したい。
じっさいに日本書紀と元興寺縁起とをくらべてみると、両者の関係はこのように考えてこそよく理解できるからだ。
 飛鳥寺は、奈良盆地の南方、飛鳥の中心にあり、いまはさびれているが、7世紀には大寺院だった。
またその飛鳥寺の裏手の西北、人家の間に昔の豊浦寺の跡という向原寺(むくはらでら)もある。
この豊浦寺は、『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』という本に「舒明第六年(634)、その塔の心礎(しんそ)をつくった」とあり、おそらく蘇我馬子の子の蝦夷(えみし)が建てた寺院だったとおもわれる。
日本書紀に628年(推古37)のこととして、「山背大兄王(やましろのおいねのきみ)が叔父の蝦夷の病を見舞うために豊浦寺に行った」とあるのは、造営中のことであろうか。
この寺も7世紀に栄え、686年には飛鳥寺ほか五寺の一つに数えられて、さかんに法要もおこなわれた。
 仏教伝来の事情は、縁起の好きな仏教の世界のことだから、いろいろな寺院にも伝わっていたのだろうが、蘇我氏の氏寺(うじでら)の一つだった豊浦寺の古縁起には、それがくわしく書いてあった。
日本書紀の編者は、それを権威あるものとして採用し、仏教伝来の事情を記したのだろう。
(『日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞 中公バックス 1970年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ポツポツ咲いているのはスモモの花
よく見るとスモモ以外にもベニバナトキワマンサク、クチナシ、アジサイなど季節外れの花に出会うことができまました。
こういう季節外れ(?)の寝坊助の花を見ると親近感がわきます(*´▽`*)