昨日と違って雲が浮かんでいると変化があって楽しいです♪
広く写している時はガラホで写しています(^_-)-☆サイエンスZERO「“羽毛のある類人猿” カラス 驚異の知力に迫る」
これまでに、ブログでもカラスの賢さを紹介していますが
その賢さの秘密を解き明かしてくれていました(^^)v
なお上のカラスは、地上を上手に歩いているので…
岩波書店のTwitterに
今日は、私の好きなお二人の誕生日だそうです。
今日は小児科医・評論家、松田道雄の誕生日(1908年)。
代表作『定本 育児の百科(全3冊)』は、
子育てに悩む現代の親のためにと、
小児科医としてのゆたかな経験と医学の最新知識をあつめてつくられた育児書の名著です。
今日は織田作之助の誕生日(1913年)。
出世作「夫婦善哉」をはじめ、愛する大阪の庶民の風俗を描き、オダサクの愛称で親しまれました。
岩波文庫『夫婦善哉 正続 他十二篇』には、2007年に発見された「続 夫婦善哉」のほか、おもに戦前・戦中期の代表的短篇を収録。
AFPBB NEWSのTwitterに
メキシコの首都メキシコ市にある飲食店では、伝統行事「死者の日(Day of the Dead)」の飾りつけによく使われる骸骨が、新型コロナウイルス対策のソーシャル・ディスタンシング(対人距離の確保)の一助となっている。
〝「死者の日」の骸骨と相席、コロナ対策の一助に メキシコ〟(10月25日)
怖いというよりも相席したいなぁ(*´▽`*)
11月1日は大阪市の住民投票で、他市の者は関係ないようですが、
もし、可決すれば他市は、住民投票がなくても市議会の承認をえるだけで区になるとか…
そして大阪が「都」になるかでなく「大阪市」を廃止するかどうかの住民投票なんですよね。
「11月1日(日曜日)は、大阪市廃止・特別区設置住民投票の投票日です」(天王寺区)
大阪維新が目指しているのは、地方分権化を逆行させて中央集権化を目指しているのでしょうね。
以下の記事が参考になるかな?
「京大教授藤井聡氏 大阪都構想は維新への信任投票ではない」(日刊ゲンダイ 10月26日)
10月26日
伊藤博文がハルピンで朝鮮人青年に暗殺された。 1909(明治42)年
伊藤博文はロシアの蔵相ココフツェフと会談するために、この日の朝、夜行列車でハルピンに到着した。
ハルピンは雪がちらつき、もう冬だった。
伊藤はココフツェフとともに駅頭でロシアの軍隊を閲兵し、それから日本人の歓迎団の方へ歩みよった。
その時、ロシア兵の後ろから一人の男がおどり出て、伊藤めがけてピストルを発射し、「朝鮮万歳」と叫んだ。
犯人は安重根(あんじゅうこん)という朝鮮人の青年であった。
取調官にたいして安は、「私は祖国独立のために伊藤を殺したのだから、人道に反したことをやったわけではない。朝鮮を保護国とした前韓国統監(かんこくとうかん)伊藤の方こそ大悪人だ」と主張した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)「自由民権運動の弾圧」(小学6年 1分6秒)
「伊藤博文」(小学6年 2分30秒)
千円札に伊藤博文の肖像が使われた時に韓国で反発がありました。
日本の朝鮮併合の歴史を知っているとさもありなんと思います。
『日本の歴史22 大日本帝国の試練』より「ハルビン駅頭の暗殺」を転記しますφ(..)
日韓併合
ハルビン駅頭の暗殺
明治42年(1909)10月26日、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。
ついで露国守備隊を閲兵し、各国領事と握手をかわして、さらに日本人歓迎者のほうに向かおうとして数歩、歩を進めたとき、参列者の後方から躍り出たものがあり、短銃を伊藤に擬して数弾を連発した。
倒れようとする伊藤を周囲のものが支え、車内にいれて横臥させた。
意識ははっきりしていて、加害者が韓国人である旨を伝えると、ただ一言「馬鹿な奴じゃ」といった。
駆けつけた医師が応急手当をしたが、顔色はしだいに蒼白となり、30分ののち息をひきとった。
ときに69歳であった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
検べてみると、伊藤は3弾を身に受けていたが、いずれも致命傷である。
第1弾は右上膊(はく)を貫通して肺内にとどまり、第2弾は右肘関部を貫通し、胸腹を穿通(せんつう)して左季筋にとどまり、第3弾は上腹部を貫き、左直腹筋にとどまっていた。
犯人は安重根(あんじゅうこん)といい、前年3月、同志14名とともに左手の第4指を切断し、韓国統監(とうかん)をはじめ、韓国を日本に日韓条約に調印した韓国大臣などを、ことごとく暗殺することを誓い、とくに伊藤については、3年以内にかならず暗殺すると誓い合ったといわれる。
安はその場で露国官憲に捕えられ、日本側に引き渡されて、翌年3月、旅順で死刑に処せられた。
伊藤はその年6月まで3年半の間、韓国統監として事実上朝鮮の支配者であった。
かれは自分の対韓政策が、韓国人民の怨みを買っていること十二分に知っていたから、いつ爆弾を投げられるかしれないとはかねがね覚悟していた。
たとえば、対韓政策の一環として、40年秋に東宮(とうぐう<後の大正天皇>)の韓国行啓を計画し、有栖川宮(ありすがわのみや)がそれに同行することになったとき、伊藤は、
「韓国の現状にては、何時爆弾が飛び来るやも測り難い。その際は、博文先ず殿下に先だちて斃れるつもりであるが、殿下もこの御覚悟ありたし」(『伊藤博文伝』下)
と述べている。
だが、まさかハルビン駅頭で刺客の手にかかろうとうは予期していなかった。 伊藤の不慮の死は、日本の朝野に大きなショックを与えた。
少壮の時代から辛苦艱難をともにした井上馨のごときは、昔をかえりみ、その死をいたんで、あふれる涙をせきとめることもできず、だすべき言葉もなかった。 だが、伊藤の死をもっとも悲しんだのは明治天皇であるといってよいであろう。
山縣は人間として暗いところがあり、心を許せない何ものかがあったが、伊藤は快活で、しかも冷静であったから、天皇は伊藤をもっとも信頼し、何ごとにつけ相談相手としていたのである。
伊藤自身、絶対主義官僚らしく、自分が天皇の大臣として、また天皇の統監として働いているという意識を片時も失わなかった。
四度にわたる総理大臣としてのかれの機密費も、皇室費からでているのである。
その伊藤の死によって、天皇は片腕をもがれたわけである。 かれの政敵も含めて、その死を惜しまぬものはなかった。
大隈は伊藤の死を「国家の不幸」としながらも、「どうせ仆(たお)れるものなら、畳の上で死ぬよりも、満州の野で刺客の手にやられたのはかえって死栄(しにば)えがあった」といっている。
ともあれ、政界の体制はこれをきっかけに大きく転換した。
桂は西園寺にこう語っている。
「伊藤は既に死し、山縣は何と言っても責任をさけて頼りにならず、松方は老耄(ろうもう)せり。井上は病後老衰してまた長き事なし」(『原敬日記』)
ところで、この伊藤刺客の手に斃るという報道を、歓呼の声をもって迎えた人々がいた。
それは大多数の韓国人であった。
朝鮮の各地ではひそかに祝賀の集まりさえ開かれた。
伊藤は4年前、統監となった前後から、韓国の愛国者たちにとって憎悪の的だったのである。
伊藤の国葬の日、韓国統監府は日韓両国旗をかかげて哀悼の意を表わすようにと告示したが、国旗を掲げるものは非愛国者として非難されるありさまであった。
ここに日韓の悲劇が象徴されている。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
新しいコンデジになってから今まで以上に野鳥を探していますp(^^)q
そのかいもあって私より野鳥に出会うチャンスが多いです!
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今日は、私の好きなお二人の誕生日だそうです。
今日は小児科医・評論家、松田道雄の誕生日(1908年)。
代表作『定本 育児の百科(全3冊)』は、
子育てに悩む現代の親のためにと、
小児科医としてのゆたかな経験と医学の最新知識をあつめてつくられた育児書の名著です。
今日は織田作之助の誕生日(1913年)。
出世作「夫婦善哉」をはじめ、愛する大阪の庶民の風俗を描き、オダサクの愛称で親しまれました。
岩波文庫『夫婦善哉 正続 他十二篇』には、2007年に発見された「続 夫婦善哉」のほか、おもに戦前・戦中期の代表的短篇を収録。
AFPBB NEWSのTwitterに
メキシコの首都メキシコ市にある飲食店では、伝統行事「死者の日(Day of the Dead)」の飾りつけによく使われる骸骨が、新型コロナウイルス対策のソーシャル・ディスタンシング(対人距離の確保)の一助となっている。
〝「死者の日」の骸骨と相席、コロナ対策の一助に メキシコ〟(10月25日)
怖いというよりも相席したいなぁ(*´▽`*)
11月1日は大阪市の住民投票で、他市の者は関係ないようですが、
もし、可決すれば他市は、住民投票がなくても市議会の承認をえるだけで区になるとか…
そして大阪が「都」になるかでなく「大阪市」を廃止するかどうかの住民投票なんですよね。
「11月1日(日曜日)は、大阪市廃止・特別区設置住民投票の投票日です」(天王寺区)
大阪維新が目指しているのは、地方分権化を逆行させて中央集権化を目指しているのでしょうね。
以下の記事が参考になるかな?
「京大教授藤井聡氏 大阪都構想は維新への信任投票ではない」(日刊ゲンダイ 10月26日)
10月26日
伊藤博文がハルピンで朝鮮人青年に暗殺された。 1909(明治42)年
伊藤博文はロシアの蔵相ココフツェフと会談するために、この日の朝、夜行列車でハルピンに到着した。
ハルピンは雪がちらつき、もう冬だった。
伊藤はココフツェフとともに駅頭でロシアの軍隊を閲兵し、それから日本人の歓迎団の方へ歩みよった。
その時、ロシア兵の後ろから一人の男がおどり出て、伊藤めがけてピストルを発射し、「朝鮮万歳」と叫んだ。
犯人は安重根(あんじゅうこん)という朝鮮人の青年であった。
取調官にたいして安は、「私は祖国独立のために伊藤を殺したのだから、人道に反したことをやったわけではない。朝鮮を保護国とした前韓国統監(かんこくとうかん)伊藤の方こそ大悪人だ」と主張した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)「自由民権運動の弾圧」(小学6年 1分6秒)
「伊藤博文」(小学6年 2分30秒)
千円札に伊藤博文の肖像が使われた時に韓国で反発がありました。
日本の朝鮮併合の歴史を知っているとさもありなんと思います。
『日本の歴史22 大日本帝国の試練』より「ハルビン駅頭の暗殺」を転記しますφ(..)
日韓併合
ハルビン駅頭の暗殺
明治42年(1909)10月26日、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。
ついで露国守備隊を閲兵し、各国領事と握手をかわして、さらに日本人歓迎者のほうに向かおうとして数歩、歩を進めたとき、参列者の後方から躍り出たものがあり、短銃を伊藤に擬して数弾を連発した。
倒れようとする伊藤を周囲のものが支え、車内にいれて横臥させた。
意識ははっきりしていて、加害者が韓国人である旨を伝えると、ただ一言「馬鹿な奴じゃ」といった。
駆けつけた医師が応急手当をしたが、顔色はしだいに蒼白となり、30分ののち息をひきとった。
ときに69歳であった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
検べてみると、伊藤は3弾を身に受けていたが、いずれも致命傷である。
第1弾は右上膊(はく)を貫通して肺内にとどまり、第2弾は右肘関部を貫通し、胸腹を穿通(せんつう)して左季筋にとどまり、第3弾は上腹部を貫き、左直腹筋にとどまっていた。
犯人は安重根(あんじゅうこん)といい、前年3月、同志14名とともに左手の第4指を切断し、韓国統監(とうかん)をはじめ、韓国を日本に日韓条約に調印した韓国大臣などを、ことごとく暗殺することを誓い、とくに伊藤については、3年以内にかならず暗殺すると誓い合ったといわれる。
安はその場で露国官憲に捕えられ、日本側に引き渡されて、翌年3月、旅順で死刑に処せられた。
伊藤はその年6月まで3年半の間、韓国統監として事実上朝鮮の支配者であった。
かれは自分の対韓政策が、韓国人民の怨みを買っていること十二分に知っていたから、いつ爆弾を投げられるかしれないとはかねがね覚悟していた。
たとえば、対韓政策の一環として、40年秋に東宮(とうぐう<後の大正天皇>)の韓国行啓を計画し、有栖川宮(ありすがわのみや)がそれに同行することになったとき、伊藤は、
と述べている。
だが、まさかハルビン駅頭で刺客の手にかかろうとうは予期していなかった。
少壮の時代から辛苦艱難をともにした井上馨のごときは、昔をかえりみ、その死をいたんで、あふれる涙をせきとめることもできず、だすべき言葉もなかった。 だが、伊藤の死をもっとも悲しんだのは明治天皇であるといってよいであろう。
山縣は人間として暗いところがあり、心を許せない何ものかがあったが、伊藤は快活で、しかも冷静であったから、天皇は伊藤をもっとも信頼し、何ごとにつけ相談相手としていたのである。
伊藤自身、絶対主義官僚らしく、自分が天皇の大臣として、また天皇の統監として働いているという意識を片時も失わなかった。
四度にわたる総理大臣としてのかれの機密費も、皇室費からでているのである。
その伊藤の死によって、天皇は片腕をもがれたわけである。 かれの政敵も含めて、その死を惜しまぬものはなかった。
大隈は伊藤の死を「国家の不幸」としながらも、「どうせ仆(たお)れるものなら、畳の上で死ぬよりも、満州の野で刺客の手にやられたのはかえって死栄(しにば)えがあった」といっている。
ともあれ、政界の体制はこれをきっかけに大きく転換した。
桂は西園寺にこう語っている。
「伊藤は既に死し、山縣は何と言っても責任をさけて頼りにならず、松方は老耄(ろうもう)せり。井上は病後老衰してまた長き事なし」(『原敬日記』)
ところで、この伊藤刺客の手に斃るという報道を、歓呼の声をもって迎えた人々がいた。
それは大多数の韓国人であった。
朝鮮の各地ではひそかに祝賀の集まりさえ開かれた。
伊藤は4年前、統監となった前後から、韓国の愛国者たちにとって憎悪の的だったのである。
伊藤の国葬の日、韓国統監府は日韓両国旗をかかげて哀悼の意を表わすようにと告示したが、国旗を掲げるものは非愛国者として非難されるありさまであった。
ここに日韓の悲劇が象徴されている。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
新しいコンデジになってから今まで以上に野鳥を探していますp(^^)q
そのかいもあって私より野鳥に出会うチャンスが多いです!
というのも野鳥を撮影したいという意欲が乏しい(^^ゞ