2020年10月30日金曜日

晴れたり曇ったり…

青空の時はポカポカ暖かかったのですが
時々、冬空のように雲が覆うとヒンヤリしました。

30日は日中もヒンヤリ」(えりの気象日記 10月29日)
父と今年は雀がやって来ないのが不思議だなと話していました。
例年ならネットを被せないと雀がやってきてなくなるのではないかと思うほどだけど…
スズメがいないのなら分かるけど…
もっと美味しくなるのを待っているのかな?

スズメが人間を警戒するわけ」(中学 動画53秒)
昨夜の
ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!【全国珍名祭り 謎解きSP】
面白かったです(*´▽`*)
そのなかでも「大したもん蛇(じゃ)まつり」(新潟県関川村)の大蛇にはビックリしました。
歴史的には浅いけれど
昭和42年8月28日の羽越大水害は多くの犠牲者を出しており、惨事を忘れることなく次代へ引き継ぐため、82.8mとなりました。

地域の人びとのつながりがあるからできた祭なんだと思いました。
世界にいいね!つぶやき英語 ▽今注目!最高裁判事の女たち

鳥飼玖美子さんが太田さんにプレゼントされた「 I DISSENT 」のロゴが入ったパーカー
ルース・ベイダー・ギンズバーグさんのことは、亡くなってから知ったというレベルです。
でも、番組を見ながら多くの人びとに愛されていたことを改めて知りました。
ブライアント・ジョンソンさんの姿に目が霞みました。
ドキュメント映画がDVDになっているみたいなので…(^_-)
RGB 最強の85才
今日は「教育勅語が出された。 1890(明治23)年」
学制頒布七十周年式典」(1942年 NHKアーカイブス)

Story日本の歴史 近・現代史編』より「学校教育の普及~戦後まで」を転記しますφ(..)
10 学校教育の普及~戦後まで
学制頒布
(はんぷ)

 近代の学校教育制度は1872(明治5)年の学制頒布に始まる。
これは「必ず邑(むら)に不学(ふがく)の戸(こ)なく、家に不学の人なからしめん事を期す」とうたっているように国民皆(かい)教育をめざし、学問の目的を国家のためでなく、個人の立身(りっしん)・治産(ちさん)におき、実学主義を取り入れた。
フランスの制度にならい、全国を大学区・中学区・小学区に分け、各学区ごとに大学8・中学256、小学5万3760校を設置しようとする壮大な計画であった。
しかしいわゆる受益者(じゅえきしゃ)負担の考えで、学校建設・運営費は地元負担であり、授業料を徴収した。
そのためこの制度は、高邁(こうまい)な理念とは裏腹に現実性に乏しい制度であったことは明らかである。
しかし、江戸時代の藩校(はんこう)・私塾(しじゅく)・寺子屋(てらこや)などの伝統もあり、地方の教育熱は盛んで、寺院などを間借(まが)りして各地で小学校が設置されていった。
地方によっては資産家が私財を投じ洋風建築の校舎を建て設立したところも多い(長野県松本の開智<かいち>学校はその代表)。
授業料は兵庫県伊丹(いたみ)小学校の例では文部省基準の半分の年間25銭であったが、子供はむしろ労働力とみるこの時代の家計にはきつかった。
小学校は上等(じょうとう)小学・下等(かとう)小学各4年で、8級を半年ごとに1級ずつ進級できる仕組みになっていたが、進級できない場合はそこで退学していくのが普通であった。
また実際は短期間で進級したり、飛び級があったり、制度通りには実施されていなかった。
伊丹小学校ではこの頃、下等小学入学291名中、卒業はわずか9名であり、これは学齢児(がくれいじ)に対し1.1%である(全国の就学率は73年で30%弱)。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)
 このような制度では内容的にも経済的にも無理があるので、政府は1879(明治12)年、学制を改正し教育令を公布した。
民権運動の高揚(こうよう)期でもあり、アメリカの学校制度を参考に、地方の実情にあわせて弾力的に運営できるようにし、小学校の就学年限を最低16カ月とした。
しかし政府は翌年には就学率の低下を理由に教育令の改正を行った。
この改正は今までの自由主義教育から国家主義教育への転換の第一歩となった点で重要である。
教科に「修身(しゅうしん)」を第一に掲げるとともに、府知事・県令の教育行政への権限を強め、最低就学年限を3カ年とした。
これは自由民権運動に危機感を抱(いだ)いた政府が、学校教育においてその根を絶(た)とうとした表れでもあった。
学校制度の確立と教育勅語

 改正教育令が出され、自由民権運動が衰退し、時代が国家主義の方向に着実に進みつつあった1885(明治18)年に初代文部大臣になったのが森有礼(もりありのり)である。
彼は幕末英米に留学し、明六(めいろく)社を結成するなど開明的官僚であったが、この頃国家主義に傾き、教育の目標は個人のためより国家のために、すなわち「富国強兵(ふこくきょうへい)」のためになされるものという考えに変わっていた。
森は翌年小学校令を公布し、今までの停滞した学校教育を一新(いっしん)し、「義務制」を明確に打ち出した。
小学校を尋常(じんじょう)と高等(こうとう)とに分け、4年間の尋常小学校を義務制とし、その上に4年間の高等小学校を置いた(4年後には3年制の尋常小学校を認め、高等小学校は2~4年の範囲でよいとした)。
教科書はこの時検定制となり、この点も国家主義の反映がみられる。
しかし義務制といっても相変わらず授業料は徴収していた(ちなみに無償<むしょう>となるのは1900年である)。
また中学校令で尋常中学校5年、高等中学校2年を置いた。
師範(しはん)学校令では、教員養成の機関として東京に高等師範学校、各府県に尋常師範学校を置き、軍隊式の教練(きょうれん)や学費免除(めんじょ)・衣料日常品や手当の支給を行い、教員養成に特別な手だてを施(ほどこ)している。
さらに帝国大学令によって1877年にできた東京大学を帝国大学と改称し、官吏(かんり)養成機関の位置づけを明確にした。
これら一連の法令を学校令と総称している。
この時、森は「富国強兵」を掲げても「忠君愛国(ちゅうくんあいこく)」を押しつけたわけではなかった(彼は不満をもつ国粋<こくすい>主義者に暗殺される)。
その後1894年には高等中学校を高等学校(4年制)として中学校(5年制)の上に置いた。
さらに5年後には実業学校令で義務教育を終えた者に5年間実技の専門的教育の機会を設(もう)けた。
また女子教育の必要性から男子の中学校に相当する4~5年の高等女学校を設置し、ここに戦前における官公立の教育制度がほぼ整った。
 1890(明治23)年は政治においても、教育においても重要な節目となる年である。
前年発布された大日本帝国憲法の下、初めて帝国議会が開催され、国家体制が整うなかで、児童生徒に忠君愛国思想を強制することになる挙育勅語(「教育に関する勅語」)が下付(かふ)された。
これは軍人勅諭(ちょくゆ)にならって出されたもので幼い時より国家・天皇に対する忠誠心を育(はぐく)み、いざという時に天皇のために命を捧(ささ)げる臣民(しんみん)をつくり出すために井上毅(いのうえこわし)と元田永孚(もとだながざね)により起草(きそう)されたものである。
子供には難解な漢語(かんご)が並ぶ文章もこれを日常的に暗唱させ、祝祭日の儀式で校長などが奉読(ほうどく)することで、「君が代」とともに時間をかけ子供の心に忠君愛国を浸透(しんとう)させる効果があった。
 日清・日露戦争の勝利によってさらに教育の重要性を感じ取った政府は、小学校の教科書の国定化(1903年)や1907年に義務教育年限の延長を行い、尋常小学校4年を6年とした(それにともない高等小学校は2~3年になった)。
しかし日露戦争後の厭戦(えんせん)・退廃(たいはい)的気分が広がると、政府はその払拭(ふっしょく)のため「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」を出し、民心の引き締めに力を注(そそ)いだ。
 官公立学校の国家主義・忠君愛国思想の傾向が強まるなかで、自由主義的校風を保(たも)ったのは私立学校である。
早くは慶応4(1868)年創設にその名の由来がある慶応義塾や、1882(明治15)年創設の東京専門学校(早稲田大学の前身)はそれぞれ福沢諭吉・大隈重信の創設であり、実業界に多くの人材を送り出した。
新島襄(にいじまじょう)の同志社英学校はキリスト教精神で人材を育成した。
これらを含め明治時代には多くの私立学校が設立され、個性的な教育方針で伝統を築き上げていった。
1918(大正7)年、大正デモクラシーの風潮の影響もあり原敬(はらたかし)内閣の時、大学令が公布され、それにより多くの公私立学校が大学に認可され、官立大学とともに最高学府として自治的な学風を持つようになり発展した。
尋常小学校の就学率も明治末より100%近くになり義務教育制度も名実ともに整えられたが、尋常・高等小学校以外の上級学校に進む者はまだ少数(約15~20%)であった。
 昭和に入ると軍部の台頭(たいとう)により教育への軍事教練(きょうれん)の導入など軍国主義が浸透し、長期的な総力戦体制を睨(にら)んで児童に「少国民(しょうこくみん)」としての自覚を持たせるため、1941(昭和16)年小学校が改組(かいそ)され国民学校となった。
初等科6年とさらに2年の高等科を義務教育としたが、1947年に廃止され、この全課程を経験した者はいない。
戦後の教育改革

 敗戦により日本を統治することになったGHQは日本の軍国主義の温床の一つを教育制度に求めその民主化を要求した。
しかし学校が再開されても、壊れた国民学校の校舎で「墨塗(すみぬ)り教科書」を使っての授業であった。
ようやく1947年3月に教育基本法が制定され、真理と平和の追求を目標とし、教育の機会均等、男女共学が明確にされ、それに基づき学校教育法により、その年4月私立も含め新制小学校・中学校が、翌年4月に新制高等学校が発足し、また新制大学が旧制大学・高校などを母体に設置され、ここにアメリカ式の6・3・3・4制の戦後教育体制が確立した。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリを写していました。
父のカメラはコンデジですが、望遠側が600㎜相当なので私の300㎜よりも大きく写せます。
父の画像を見ながら体力がなくなってきているので、
重たいデジイチよりも、こちらのほうがいいなと思います。