2020年10月10日土曜日

台風の影響が続き…

今朝も雨風が冷たいです。
なんか台風14号は高気圧に行く手を遮られてノロノロ動いているし(大雨の被害が心配です)
ユーターンするような動き(上陸していないので高い海水温でエネルギーを補給しそう)

台風14号 近畿・東日本に接近 伊豆諸島・太平洋側大雨警戒を」(NHK)

1964(昭和39)年10月10日に「第18回オリンピック東京大会」の開会式が行われました。
来年、開催されるようですが、東京オリンピックを開催しての総括が活かされていないように思います。
昭和の歴史第10巻 経済大国』より「祭りのあとの空しさ
そして大阪万博を2025年に開催予定ですが、
1970年3月14日に開幕した日本万国博覧会(~9月13日)について「お祭り型地域開発の限界」を転記しますφ(..)
大きなイベントを開催すると地域経済が潤うと勘違いする政治家が多すぎると思います。


祭りのあとの空しさ

 東京オリンピックは、1964年10月10日から24日までの15日間、初参加の17か国(おもに新興独立国)をふくむ94か国という史上最大の参加国から、選手5558名をあつめ、20種目(陸上競技を1種目に総合)がおこなわれた。
東京オリンピックはスポーツの祭典として成功をおさめ、男子陸上100メートル準決勝でアメリカのヘイズが10秒の壁をやぶって9秒9を出すなど、世界新記録が陸上で14、水上で12、オリンピック新記録にいたっては77も出た。
戦後の米ソ二大陣営の覇権(はけん)争いをあらわすかのように、金メダルではアメリカが36、ソビエトは30、日本は第3位で16であった。
 日本人を興奮させたのは、東洋の魔女といわれた大松博文(だいまつひろぶみ)監督にひきられた女子バレーボールチームの優勝である。
このチームは、いかにも日本の高度成長の性格をあらわすようなしごきにたえたモーレツ「社員」であったと同時に、戦後の女性の各界への進出を象徴する出来事であった。
これにたいして、日本のお家芸と思われた柔道無差別級では、オランダのヘーシンクに優勝をさらわれてしまった。
また、 この大会の華は、チェコの女子体操の代表チャフラフスカの個人総合優勝と、アベベのマラソン二連勝であろう。
 米ソ対抗をはじめ、ナショナリズムのぶつかりあうようなとげとげしさが感じられたなかで、このオリンピックの閉会式は感動的であった。
国別の行進はなく、各国の選手がいりまじって、三三五五、肩をくみあるいは肩車の上に日本選手をのせるなどして入場し、有終の美をかざった。
それは、文字どおり平和の祭典に再生すべきオリンピックの未来をしめすような幕切れであった。
 オリンピックは東京都政をかけた起死回生策(きしかいせいさく)であったがはずだが、祭りのあとの反動は深刻であった。
集中的な建設投資の反動もあって、オリンピック不況といわれるような景気後退がはじまった。
1964、65年と、山陽特殊鋼など倒産が続出し、山一証券が日銀の救済融資ををうけねばならなかった。
オリンピックでテレビ業界は活況を呈するかにみえたが、消費財一巡説が出るほど家庭電器の需要が落ち、オリンピック後の電機業界は不況においちった。
社会心理学者の石川弘義は、経営学ブーム時代には考えられなかった悲劇の経営者の続出などを総称して、この時期を「落ちた偶像の時代」と名づけている。
 とりわけ、「世紀の祭典」のつけが都民生活にあらわれた。
オリンピック関連事業は交通体系の建設が中心であったために、住宅・上下水道など生活環境施設の建設、公害対策や流通対策などの都市問題の解決はあとまわしになった。
オリンピックの年にあらわれた水不足による給水制限は、建設省の直接介入で緊急事態をまぬかれたが、破局の前触れのようなものであった。
  一カ月足らずの期間の〝巨大運動会〟は都民生活を豊かにする要素にはなり得なかった。
運動会用の化粧は東京の体質改善による結果としての美ではなく、あくまで化粧にすぎなかった。(『東京百年史』第6巻)
 交通網の整備によって、都心の事務所機能は改善され、オリンピック後、都心への中枢管理機能の集中、それと裏腹の都民の都心からの脱出が促進された。
 都市問題はオリンピックで臨界点にたっし、この祭典の終焉(しゅうえん)をきっかけに噴出した。
まことに皮肉なことであるが、国家的行事としての東京オリンピックに成功した都政は、都民から自治体としての能力を疑われ、都政刷新問題を契機にして、革新美濃部(みのべ)都政誕生へとうごいていくのである。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)

『公害』の始まりから半世紀 宮本憲一」(NHKアーカイブス) 

(「大阪万博 華やかに開幕」NHKアーカイブス)

お祭り型地域開発の限界
 1970年(昭和45)3月14日、万博は開幕した。
まるで潮のように全国からつめかける群集が半年にわたり会場をうずめ、入場者は6422万人というおどろくべき数にのぼった。
万博は、各国の展示館と国内の企業や政府・自治体館にわかれた。
参加国は77か国で、外国では米ソ超大国の展示館が人気の的であったが、環境保全をうたったスウェーデン館が好評であったのは、当時の世論をしめすものである。
 万国博では、一般の市民が外人と交際できたということでは、大きなプラスであった。
しかし、観客にとっては、見る時間よりもならぶ時間が長く、ようやくはいってみると、けばけばしい音と光に圧倒され、疲労と空腹の万博であった。
石川弘義は「万博は、いわゆる未来『学』なるものの破産のデモンストレーションでもあった」と批評している。
政府と主催者にとっては、これだけの人口を大阪に引きつけだけでも大成功であった。
 だが、大阪の起死回生策をねらった地元としても成功だったのであろうか。
大阪府総合計画審議会検討小委員会『大阪府総合計画(素案)』(1982年)では「『人類の進歩と調和』をうたった万国博の開催にもかかわらず、大阪は国際的な諸活動の舞台としては十分な発展をとげることはできなかった」と自らマイナスの評価をしている。
大阪の「地盤沈下」は、万博後も引きつづきひどくなった。
 万博は、東京オリンピックとほぼ同額の約1兆円の直接間接の投資がなされた。
その90パーセントまでが、道路・国鉄・地下鉄・空港などの交通体系の整備であった。
大阪一点集中型の交通体系の整備がすすんだ。
6年前の東京とまったく同じことがくりかえされたのである。
住宅その他の生活関連施設の整備はおくれ、高速道路などの道路建設にともなう自動車交通量の増大によって、公害問題はふえたが、その対策はあとまわしとなった。
 「東京に追いつけ追いこせ」という戦後の大阪人の後進性からくるあせりは、都市問題の面でも東京に追いつくことになってしまった。
高速道路が江戸以来の東京下町の原風景(げんふうけい)をぶちこわしたように、淀川(よどがわ)に橋脚(きょうきゃく)をくんだ高速道路は、「水都大阪」の象徴であった中之島(なかのしま)の風景をはじめ、大阪の原風景を破壊してしまった。
 あまりにも短期間に建設工事が集中した結果、多くの事業は突貫工事につぐ突貫工事をおこなわなければならなかった。
当時の地下鉄は総延長約32キロであったが、万博のための緊急5か年計画で、いっきょに2倍の64.2キロに延伸(えんしん)することになった。
 この無理な突貫工事が1970年4月8日、大阪市天六(てんろく)のガス爆発事件をおこすこととなった。
原因は地下鉄二号線(谷町<たにまち>線)第四区建設工事現場で、掘削(くっさく)坑内に吊(つ)り下げられていた直径300ミリの中圧ガス管から漏(も)れ出した都市ガスが爆発したもので、被害は死者79名、負傷420名、26棟(むね)48世帯が焼け出され、44世帯が爆風により大破した。
 万博後の都市問題、とくに公害の増大は、大阪府下全域に公害反対の世論と住民運動を広げた。
1971年の府知事選挙では、万博の「成功」を看板とする現職の佐藤知事にたいし、公害反対を旗印とする憲法学者の黒田了一(りょういち)が争い、現職知事が敗北した。
 日本の公共投資は、画一的総花的に全国にばらまかれている。
そこで、地域開発のために集中的にある地域にあつめようとすれば、オリンピックや博覧会に便乗するのが、一つの方法である。
しかし、この集中豪雨のように短期間に、しかもお祭りという対外的イベントを目的としてなされる公共投資は、災害の原因となったりして、結局は住民生活の改善にはつながらない。
このことを、東京オリンピックと大阪の万博はくりかえし証明した。
にもかかわらず、後に沖縄では復帰記念事業として海洋博が計画され、さらに失敗したものの、名古屋がオリンピックを誘致して、東京や大阪に「追いつき追いこせ」をはかるのである。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』 宮本憲一 小学館 1983年)

「平和な町、焦熱地獄化」 天六ガス爆発、50年の誓い〟(朝日新聞 2020.4.3)