2020年10月15日木曜日

寒いのか?暑いのか?

ヒンヤリした風が吹いていたのでウィンドブレーカーを着て歩きだすと日向は暑い…

15日木曜日は 長袖でおでかけを」(えりの気象日記 10月14日)
冬支度を始めているかな?

(前略)
 トチノキの冬芽は上から見たら四角形で、粘液に覆われ、いろいろなごみをくってけています。
この粘液は寒さや乾燥、虫から守るとされていますが、外国のトチノキはねばつかないので、虫が一番の理由だと思います。
日本は虫が豊かです。
(後略)
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
一昨日歩いた時は、まだ花が開いていなかったけど
今朝は、一斉に花開き小さな花でも群れて咲いているので
香りと色でアピールしていました(*´▽`*)

木犀に人を思ひて徘徊す
(『尾崎放哉全句集』村上護編 ちくま文庫 2008年)
プロフェッショナル仕事の流儀「当たり前が、当たり前であるために ~路線バス運転手・大森透~
大森さんが、この番組にでてもいいのかと謙遜されていましたが
多くのエッセンシャルワーカー(Essential worker)の人に支えられて生活できています。
昨日紹介した『武漢封城日記』の中でも郭晶さんが、清掃作業員にインタビューされていました。
10月15日
 官吏の給与1割減俸が発表された。 1929(昭和4)年

 この日、官吏の給与を1割減らすことを政府が突然発表した。
蔵相井上準之助(じゅんのすけ)は、長びく不況を切りぬけるためには、国民全体が節約することによって物価を下げ、金解禁にふみ切ることが必要だと考えた。
それには政府が先にたって模範を示さなければならない。
翌日の新聞には減俸にたいする官吏の声が、「15年もかかってやっと130円の給与をもらえるようになった苦労を大臣たちはご存じだろうか」(一警察官)、「いっぱいいっぱいの生活をしているのに、ここで減給されたら私の一家はどうなるのだろう」(一陸軍大尉)とのっている。
東京裁判所の判事、検事までが反対運動に立ちあがった結果、政府は1週間後にこの案を撤回した。
しかし、昭和恐慌(きょうこう)が深刻になるなかで、2年後の6月には反対をおしきっても政府は官吏の1割減俸を実施したのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
このあと、同年10月24日ニューヨーク株式市場大暴落が起きて、大恐慌が始まります。
日本では昭和恐慌と言われています

日本の歴史22 政党政治と天皇』より「都市の失業」を転記しますφ(..)
第8章 世界恐慌と立憲君主制の危機
 2 昭和恐慌と帝国の諸相
 都市の失業

 1929年(昭和4)秋、1920年代の「永遠の繁栄」に酔いしれ、株式投資熱に浮かれていたアメリカ合衆国は、突然恐慌に見舞われた。
恐慌は急速に全世界に拡大し、世界恐慌となっていった。
日本において恐慌は、金解禁の影響も複合して、1930年代から本格化し、昭和恐慌となった。
従来の恐慌は、1~2年で底を打つのが通例であったのに対し、今回は数年にわたって景気が下落していった。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)
 アメリカ合衆国では、1933年にフランクリン=ローズヴェルト大統領が就任し、恐慌対策として、ニューディール政策を打ち出し、ダム・道路などへの公共投資を拡大し、1933年から34年にかけてようやく不況が底を打った。
しかし、経済的実力で他国を圧倒するアメリカ合衆国ですら、不況から本当に脱出できたのは、第2次世界大戦が始まり、ヨーロッパへの軍需で生産設備が完全稼働しはじめてからであった。
恐慌の初めに、このよう深刻な事態を予測し得た者は、だれもいなかった。
 中村隆英氏によると、日本における、1929年から32年までの失業者総数は29万4千人(失業率4.3パーセント)から48万9千人(同6.9パーセント)と、約20万人増加した。
失業の状況は、この数字では三分の一くらしかカバーされておらず、実際はもっと深刻であった。
たとえば、大阪府の場合、府庁の調査では失業者数は8千人余りであったが、大阪市社会部によると2万6690人と、3倍以上の失業者が計上されていた。
 失業者の中で、最底辺であったのが日傭(ひやとい)労働者であった。
たとえば大阪市の場合、三ヵ所の職業紹介所に、毎朝5時半には1千2百~1千3百人の日傭労働者が集まっていた。
そのうち職を得るものはわずか百人前後で、9割以上があぶれた。
これで、あぶれた日も含めた数日を暮らすものであるから、木賃宿(きちんやど)にも泊まれず、野宿する者も続出した。
また家族のある場合は、状況がもっと深刻であった。
 一般労働者に関しても、工場の閉鎖や縮小に伴い、解雇の件数が増加し、解雇されないまでも、労働条件が改悪され、労働者の受け取る賃金が引き下げられた。
賃金の下げ幅が最も大きかったのは、労働者の移動が激しく、熟練をあまり必要としない紡績や石炭工業で、熟練を必要とする重工業関係は、下げ幅が比較的小さかった。
いずれにしても、一般労働者は、解雇されれば、失業保険のない当時おいては、新たな職が見つからないと、日雇労働者の群れに身を投じるか、故郷の農村がある場合にはそこにもどり、肩身の狭い思いで農業を手伝って居候(いそうろう)をするしかなかった。
 そのため、労働争議の件数は、1928年の約4百件から、1930年の約1千件へと急増した。
争議自体も、恐慌の中で経営者側も労働者側も必死であるため、経営者側による首謀者の解雇や切り崩し、労働者(争議団)側の工場の食堂などへの立てこもり、社長や重役などの自宅の襲撃など、きわめて激しいものになった。
多くの争議は、経営者側の攻勢の下で労働者側は苦戦を強(し)いられたが、1930年5月の大阪市の湯浅伸銅(ゆあさしんどう)株式会社の工場での争議のように、大阪府警察部が出て、1926年制定の労働争議調停法によって調停し、妥協・解決するものもあった。
 また、同年10月~11月の富士紡績川崎工場の争議のように、昭和天皇の存在が間接的に争議の調停を果たす場合もあった。
この争議では、争議団の分(ぶ)が悪くなっていた折、11月16日夜明け前に、高さ40メートルの煙突の頂上に一人の男が登り、赤旗を握り、「死を覚悟して戦わなければならぬ」などと、演説をしはじめた。
17日の朝には、男は煙で真っ黒になったが、示威(じい)を続け、人を寄せ付けず、自らも降りようとしなかった。
この男は、横浜合同労働組合員の田辺潔(たなべきよし)で、争議を支援するため、煙突に登ったのであった。
男は、するめ2枚、バット(安いタバコ)20個、ウィスキー1本とマッチを持って、天空(てんくう)生活に入った。
この「煙突男」は『東京日日新聞』や『東京朝日新聞』(現在の『毎日新聞』や『朝日新聞』)など、新聞で大きく報道され、国民の関心を集めた。
 工場側は、男が疲れて降りてくるまで、無視し続ける方針をとった。
しかし、宮城(きゅうじょう<皇居>)に戻る昭和天皇が、21日午後3時24分に近くを通過することになっており、川崎警察署長は、それまでに男を降ろそうと、争議の解決を斡旋(あっせん)した。
天皇のプレッシャーには、工場側も抗することができず、妥協が成立、21日午後1時半に争議は正式に解決した。
こうして、衰弱した男は、5日半の煙突の上での生活の後、数万の市民が歓声をあげるなか、たすきがけのロープにくくられて、午後3時20分に無事に地上に降ろされた。
新聞好きの昭和天皇も、「煙突男」のことを読んでいたにちがいない。
 大学や専門学校などで高等教育を受けた、中産階級以上の子弟の就職難も深刻であった。
1930年5月の調査によると、官庁の志願者は2千271名で、採用者は234名(合格率約10パーセント)、資本金1千万円(現在の約4百億円)以上の大企業325社中、全く新卒を採用しないものが、52.8パーセントと、半数以上を占めていた。
 なかでも、従来、文学部や理学部に比べ、就職の面で有利であった法学部や経済学部の出身者の方が、状況が厳しかった。
これは、比較的不況の影響を受けにくい中学校・高等女学校・師範学校などの中等学校教員の口が、法・経出身者にはほとんどなかったからである。
そのため、中産階級といっても生活に余裕のない家庭の子弟の中には、経済的に無理を重ねて東京帝大や京都帝大などの法学部を出ながら、小学校卒の資格で十分な巡査になったり、日給で市電の運転手として働いたりする者もあった。
まさに、「大学は出たけれど」という映画が話題になる時代であった。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)
 今朝の父の一枚です(^^)v
スズメたちが行儀よく並んでいます。
栄養をつけて厳しい冬を乗り越えてほしいですね!

(前略)
 スズメがどれくらい生きるのかは、はっきりわかっていません。
しかし、巣立った子スズメのうち、半数以上は、その年の冬を越えられないのではないかと考えられています。
猛禽類に襲われて、それらの生き物の糧になったり、冬に餌が十分採れずに餓死したりするのです。
最初の冬を超えられたものは、体力的にも優れた個体ですし、経験を積んで賢くなります。
長いものでは、6年以上生きたことが知られています。
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)