2020年10月27日火曜日

日向ぼっこが気持ちいいだろうなぁ…

今朝も秋晴れ。
久しぶりに出会ったカナヘビが日向ぼっこをしていました。
日向は暖かいですが、木陰はヒンヤリしていました。

27日 一日の気温差大きい」(えりの気象日記 10月26日)
鳥飼玖美子さんのTwitterに

日本学術会議は、総理大臣所管ですが「政府から独立」している特別な機関。
会員(council member)と連携会員(member)は、公務員とはいえ非常勤なので月給など出ない。
会議出席の手当だけ。
提言の作成、修正、査読は無給。
それでも、専門家の責任として必要な提言は行っています。

専門的な知見を外部と共有するためシンポジウムを開催したり海外の学術団体と交流したりするが活動予算は限定的。
学術会議の認知度は低いが広報予算がない。
欧米の学術団体は政府から独立しながら年間予算の半額以上の政府補助金を得ている。

学術会議が「政府から独立した特別な機関」と位置づけられているのは重要。
独立性が失われると、国民の利益が損なわれるので、欧米の学術団体も政府からの独立が前提です。

鳥飼玖美子さん

菅首相 日本学術会議「会員一部大学に偏り 多様性の確保必要」〟(NHK)について

NHKに出演した菅総理は日本学術会議会員任命拒否について「説明できない」。
なぜ?「政府の組織で私が任命すれば公務員になる」は不正確。
非常勤で会議出席手当しか支給されないことを知らない?
会員が推薦しても研究業績の審査があるのを知らない?
思い込みでなく調べて下さい。


菅総理はNHKで、学術会議は特定の大学に偏っている、地方の大学や民間を入れるべきと主張。
でも任命拒否された6人には、地方の大学教員、私立大学教員、女性教員がいます。
この方たちは、どういう理由で会員として認められなかったのですか?


首相は、口を開けば墓穴を掘る人だな…
国会等公の場ではしっかりと読んでほしいな…
前首相に負けず劣らず日本語が読めない…
首相、所信で言い間違い 「重点」を「ゲンテン」〟(東京新聞 10月26日)

転記間違いをよくする私がいう資格はないのだけど…
10月27日
 浅草に当時としては超高層12階の凌雲閣(りょううんかく)ができた。 1890(明治23)年

  雷は凌雲閣に腰をかけ  勝男

 こんな川柳がつくられたように、東京浅草に出現した凌雲閣は、当時として超高層の建造物で、明治の東京名物であった。
 下町の人々に「十二階」と愛称された凌雲閣は、この日完成。
イギリス人バルトンの設計、高さ約65メートル、総レンガ造り、工事費5万5千円であった。
明治17―18年ころまで不景気になやんだ日本経済は19年から立ちなおり、「企業勃興(ぼっこう)」といわれる好況(こうきょう)期を迎え、さまざまの工場がつくられた。
凌雲閣も、そうした発展の中でつくられ、人々に愛されたが、惜しくも関東大震災で倒壊した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
浅草凌雲閣」(国立国会図書館)

新聞集成明治編年史.第七卷」(283/302 国立国会図書館)

凌雲閣について『図説 東京 都市と建築の一三〇年』と
絵で見る 明治の東京』より転記しますφ(..)
気になることは別の本を参照すると新たな発見があります。
なお凌雲閣の設計をしたバルトンは「台湾・日本の上下水道の父」と呼ばれているそうです。
第1章 近代への助走
 富士山と凌雲閣・十二階


 1887年(明治20)、浅草に「富士山遊覧場」が開場した。
当時の新聞はその繁盛ぶりを、「浅草に木造にて仮説の富士山は(中略)昨日一昨日の両日にて一万二千七百人余一人五銭づつ(登山料四銭下足一銭)なれば山が当たつたと元方は大喜びなるべし」(朝日新聞社編『東京百歳』)と伝えている。
富士山の大きさは高さが18間(約33メートル)で、頂上には平らな場所をもち、望遠鏡が数台並べられていた。
(『図説 東京 都市と建築の一三〇年』初田亨 河出書房新社 2007年)
 富士山遊覧場を企画したのは浅草に住む寺田為吉である。
木や竹の骨組みに石灰を塗り込んでつくったもので、2年後の大暴風で壊れてしまったが、人々の人気を集め、事業として大成功したのである(東京都『東京市史稿 遊園編』)。
 富士山を物見として建設することを思いついた背景に、江戸時代後期に広く行われていた富士講の存在を無視することはできない。
富士講は、富士山信仰の登拝・寄進の組織で、幕末には江戸の各地に模造富士をつくることが流行していった。
 また、1885年に浅草の五重塔を修復した際には、その足場を利用して登閣縦覧させ、多くの人を集め好評を博していた。
高い場所を多くもたない明治の東京の人々にとって、物見の塔はとても魅力的な存在であったのだろう。
1885―6年頃には、上野の佐竹ッ原に高さ四丈八尺(14.5メートル)くらいの大仏の物見があった。
ここでは頭の部分に小さな部屋を設け、外が眺められるようにしていた。
さらに1872年の増上寺黒本尊開帳の祭礼を描いた錦絵には、山門で人々が眺望を楽しんでいる姿が描かれている。
 そして、浅草に富士山遊覧場が開場した1年後には、芝の愛宕山(あたごやま)に愛宕館が建設され、5階建ての愛宕塔がつくられた。
愛宕塔は煉瓦造で八角形の平面をもち、外部は白い仕上げ(漆喰と思われる)が施され、最上階には椅子と望遠鏡が備えられていたという(東京都『東京市史稿 遊園編』)。
 浅草に十二階と呼ばれた「凌雲閣(りょううんかく)」が建設されたのは、1890年10月のことである。
この塔は、日本で最初のエレベーターをもち、1番上の12階には倍率30倍の望遠鏡が備え付けられていた。
塔の設計者はお雇い外国人のW.K.バルトンとされるが、どこまで設計に関わっていたか詳細は明らかでない。
凌雲閣は当初10階建ての煉瓦造として建設が進められたが、のちに木造の11階、12階を増築している。
 エレベーターは、開館後間もなく危険との理由で使用を警察に止められたが、エレベーターの使用停止後も凌雲閣を訪れる人の数が減ることはなかったという。
人々は、12階まで歩いて登ったのである。
建物内では蓄音機が音楽を鳴らし、それぞれの階には小さな店があって、写真や印刷物を売っていたという(岡田章雄『明治の東京――外国人の見聞記』)。
また、お茶を提供する施設もあり、凌雲閣は、関東大震災まで東京の名所として人気を博した。
 東京には、新しがり屋で物見高い人間が多くいたのであろう。
物見は、その形態を変えながらも、明治時代の人々のなかに長く生き続けていったのである。
(『図説 東京 都市と建築の一三〇年』初田亨 河出書房新社 2007年)
第6章 市民の生活
 浅草のスカイタワー


 明治23年(1890)11月、浅草奥山に12階建ての高塔が出現して市民のど肝を抜いた。
これが凌雲閣、俗に十二階と呼ばれた建物である。
この前年にはパリのエッフェル塔が完成している。
 江戸時代には高い建造物は禁止されており、高層といえば城の天守ぐらいで、江戸城の大天守も明暦大火後は再建されていないから、一般の高層建造物といえば火の見櫓ぐらいしかなかった。
明治になるとその反動が、塔をそなえた建物があちこちに出現するが、たいていは時計塔のように下から見上げるためのものばかりだった。
(『絵で見る 明治の東京』穂積和夫(絵と文) 草思社文庫 2017年)
 明治4年に九段坂上に建った灯明台は、船の目印が目的だった。
そのころは高輪沖からこの灯りが見えたものだそうだ。
凌雲閣完成の前年には愛宕山の頂上に5階建ての展望塔が建てられたが、これが上に登って見下ろす塔としては天守以来初めてのものだろう。
浅草寺の五重塔を修理したときにも1銭をはらえば足場を登ることができたらしい。
江戸以来の富士山信仰にあやかって、明治20年には浅草に高さ30メートルほどお富士山縦覧所と称する人工富士も作られたが、木や竹の骨組みに石灰を塗ったハリボテだったので、2年後の台風で損傷してしまったらしい。
 しかし凌雲閣のほうは、なんといっても浅草公園のすぐ隣に高さ220尺、67メートルといわれる塔が建ち上がったのだから、これは前代未聞だった。
ただし後の実測によれば、避雷針をいれて173尺、52メートル余しかなかったらしい。
 凌雲閣は地上10階までがレンガ造、その上2層が木造の八角平面の展望台になっていた。
設計はイギリス人土木水道技師のバルトン、工事監督は滝大吉といわれている。
ウイリアム・バルトンは明治20年に東京帝国大学工科大学の衛生工学の教師として来日し、東京の水道建設計画にも参加している。
凌雲閣の設計はいわばアルバイトだったわけだ。
そういえば見るからに水道塔のような形をしている。
また滝大吉は「荒城の月」の作曲者滝廉太郎の従兄に当たるといわれてる。
 凌雲閣は見上げるだけでなく、最上階からあたりを展望できることが特徴だった。
バルトンはイギリス王立アマチュア写真家協会の会員で、すぐれた写真家でもあった。
日本の風物も数多く撮影している。
きっと浅草の風景を高所から見下ろして写真に撮りたいと思っていたにちがいない。
バルトンはのちに後藤新平の要望で台北の水道計画に参加したが、マラリアにかかって東大病院で亡くなっている。
 内部は8階まで螺旋階段にそって売店が立ち並び、9階が休憩室、11、12階は展望台で望遠鏡をそなえ、塔内には日本最初のエレベーター2基が設けられたが、危険のためのちに使用禁止となったそうだ。
その後エレベーター技術の発達により大正3年に復活しているが、このことはあまり知られていない。
 足もとには東京の街が一面に広がり、遠く品川沖から房総の山々、富士、筑波まで一望することができるのだから、明治の人にとってはまさに現代の東京タワーやスカイツリーに匹敵する感じだったにちがいない。
開館の呼びものは写真による美人芸者の人気投票だったそうだ。
 東京名物として人気のあったこの十二階も次第に人びとの興味を失い、明治24年の濃尾地震で亀裂がはいって鉄帯で補修したりしたが、後の関東大震災で8階からポッキリ折れ、工兵隊の手で爆破処理されて33年の生涯を閉じた。
当時、塔下の地域一帯で営業していたいわゆる「銘酒屋」と称する特飲街も、関東大震災後、向島玉の井(現在の東向島)に移転させられた。
(後略)
(『絵で見る 明治の東京』穂積和夫(絵と文) 草思社文庫 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)v
シジュウカラを写していました。
私の場合は、出会ったら写そうという調子ですが
父は、野鳥を写したいという意欲があります!