2020年10月28日水曜日

次第に曇り空に…

来たときは青空でしたが、しだいに曇り空になりました。

28日 すっきりしない天気」(えりの気象日記 10月27日)

内田樹さんのTwitterに

実に学会らしい深い学殖と見識に裏づけられた抗議声明です。
これはぜひ読んでください。 


日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明

最後にだマルティン・ニーメラーの言葉が引用されています。

ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられた時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員を攻撃した時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は労働組合員ではなかったから。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
鳥飼玖美子さんのTwitterに

#日本学術会議 の会員・連携会員は、通常は大学や研究所などに所属しているので会議手当だけで構わないと思いますが、1年以上かけて作成する各分野の提言は、政策への参考として生かして頂きたい。

私が所属する分科会では英語教育に関する提言も出していますが、文科省の担当者や現場の教員を招いて話を聞き、公開シンポジウムで一般の方々の意見も得た上で其々の専門から議論を積み重ね、審査を受けて何度も書き直し承認されてから学術会議の提言として公表しています。

学術会議は何もしていないと批判する政治家の皆さん、公表された提言は関係省庁に送られているはずです。
教育に関する提言は中教審で配布されます。
ぜひ関心のある分野の提言を読んで参考になさって下さい。

日本学術会議は答申を出していないとの批判がありますが、政府から諮問されないと答申は出せません。
ぜひ諮問して下さい。学際的な課題でも、複数の分科会が協力することは可能です。
学術会議を骨抜きにするのではなく、日本の学術を大切に未来志向で議論して頂きたい。

なかのとおるさんのTwitterに

既得権益の「既得」のタイムスパンをどうとらえるか。
大阪維新はすでに10年。
過ぎ去った仮想敵をいつまでも既得権益と言い続けるのはフェイクでしょう。
「大阪都」をでっちあげて市民の予算を使うのはすでに維新の既得権益と考えられるのではないでしょうか。

10月28日
 紀伊国阿氐河荘(あてがわのしょう)の百姓が地頭の乱暴を訴えた。 1275(健治<けんじ>元)年

 この日、有田(ありた)郡の山の中にある阿氐河荘上村の百姓たちは、13カ条にわたって地頭湯浅宗親(むねちか)の非法行為を領主に訴えた。
 それによると、地頭は一部の田から年貢を二重にとる、麻・綿を責めとる、過重な人夫役(にんぷやく)をかける、百姓の栗・柿・鎌・鍋をとりあげるなど、なにかにつけてきびし取りたてをした。
百姓がそれに従わないと地頭の家来が武装して百姓の家に押し入ったり、「メコドモ(女子供)ヲオイコメ、ミミヲキリ、ハナヲソギ、カミヲキリテ」とか、「百姓ノクビヲキラントシ候(そうろう)」といった残虐な行為で百姓を責めたてた。
 このため百姓は集団で逃亡して地頭に抵抗してきたし、この訴状でも再び逃亡の決意をにおわせている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
この阿氐河荘の百姓たちの訴えを読んでどう思われましたか?
百姓たちがひどい仕打ちを受けていると思いませんでしたか?
蒙古襲来』を読むと、百姓たちのしたたかさを知って、やられっぱなしじゃないんだと感心しました。
健治元年―日本
 外寇をよそに
 ミゝヲキリハナヲソキ


「ヲレラカコノムキマカヌモノナラハ、メコトモヲヲイコメ、ミゝヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ……」。
 この年、10月28日、紀伊国阿氐河荘(あてがわのしょう)上村の百姓たちは、このように書いて、地頭湯浅宗親(むねちか)の残酷な乱妨(らんぼう)を訴えた。
13か条におよぶ、この片仮名で書かれた言上状(ごんじょうじょ)は、百姓の生活そのものからにじみ出た地頭の横暴に対する憤懣(ふんまん)をなまなましく物語っている。
(『蒙古襲来』網野善彦 小学館文庫 2001年)
 隠田(おんでん)の年貢を二重にとられた。
二十余人の使いによって麻(あさ)・綿を責めとられた。
近夫(ちかふ)や京上夫(きょうじょうふ)などに召しつかわれる。
栗や柿をうばいとられる。
朝夕の馬飼(うまかい)に百姓をこき使う。
二、三十人もの人数をつれて百姓のところへとどまり、飲み食いほうだいし、なにかというと武具をつけて百姓たちを虐(しいた)げる。
「耳を切り、鼻をそぐ」残酷な刑罰をもっておびやかす、この地頭代の荒々しさは、在地の支配者に通有のものであったといってよい。
それはわれわれには身の毛もよだつ鬼のようにすら感じられる。
 しかし百姓たちはこうした地頭の乱妨に押しひしがれ、追いつめられて愁訴(しゅうそ)しているのだろうか。
否、けっしてそうではなかった。
この荒々しい時代を生きぬいてきた百姓たちは、この残酷に耐えうるだけのずぶといたくましさを十分に身につけていたのである。
この言上状の全体をよく注意してみる必要がある。
百姓が口をきわめて地頭の乱妨を非難したこの有名な条で、かれらはだれに、なにを訴えているのであろうか。
百姓たちは、材木の貢進(こうしん)がおそくなる、と領家寂楽寺(じゃくらくじ)にいっているのである。
その遅延の理由の一つとして、百姓があげたのが、あの地頭の残酷な仕打ちであった。
「ミゝヲキリ、ハナヲソキ」というのは、いわば材木を責めたてる領家に対する弁明のことばだったのである。
 ここで前述した(80ページ)この荘の地頭自身の訴えを思いおこしてみる必要がある。
地頭にいわせれば、領家の任命した預所(あずかりどころ)こそ、妊婦をむりやりつれ去り、材木をおし取るなど、残忍な乱妨をはたらく加害者であった。
ここでも符節を合わせたように材木が問題になっており、この地頭の発言が百姓の訴えに応じて行なわれたことはまちがいなかろう。
そのときも地頭と預所は荘務をめぐって争っていた。
そしてこの年も、地頭宗親(むねちか)と、領家寂楽寺の意をうけた預所従蓮(じゅうれん)とははげしく訴訟中だったのである。
 これだけの事実をみただけでも、この言上状を単純に搾取のきびしさを訴えた百姓の嘆きなどといってすましているわけにはいかない。
地頭にせよ、預所にせよ、残酷さにはかわりないのだ。
どちらに訴えようと狼は狼である。
そのことはだれよりも百姓たちがいちばんよく知っていたはずである。
それを知りながら、百姓たちは乱妨をかぞえあげる。
そして、ときには預所が残酷だから地頭の課役(かやく)を勤められないといい、ときには地頭が乱妨だから預所の材木催促には応じられないと訴える。
 百姓たちは十分計算していた。
かれらの訴えた地頭・預所の残酷な仕打ちは、少しの誇張がはいっているとみなくてはならぬとしても、けっして嘘ではなかろう。
その現実に行なわれる残忍な乱妨をも、みずからの負担を軽くする手段に転化しようとする、百姓たちの光った目が、このたどたどしい言上状の背後にあることを見落としてしまうと、とんでもないまちがいをおかすことになる。
中世前期の百姓は、その程度のことで悲鳴をあげはしないのだ。
それどころではない。
地頭と預所との対立にしても、もともと、百姓たちが年貢や課役を両者の思いどおりにださなくなったことからおこっているのである。
いわばみずからがおこさせた両者の対立のなかにあって、百姓たちはみずからの目で有利・不利を見きわめてから、有利な側にむすびつこうとする。
そしてこの年、かれらは預所のほうに賭(か)けたのである。
 この計算もじつに狂いなく的(まと)をついていた。
仲村研氏の明らかにしたところによると、さきの言上状のだされるすこしまえ、寂楽寺が登用した新預所従蓮は、得宗御内人南条頼員(よりかず)の舅(しゅうと)であり、二月騒動で誅殺された前六波羅南方探題北条時輔(ときすけ)の後見でもあったという、たいへんな人物だった。
しかもそれを寂楽寺に推挙したのは「貞永式目(じょうえいしきもく)」のもっとも早い注釈書の一つといわれる『唯浄裏書(ゆいじょううらがき)』の著者、六波羅の引付奉行人斉藤唯浄(ゆいじょう)であった。
この訴訟は六波羅の法廷で行なわれる。
幕府はきびしくいましめていたが、酒肴料(しゅこうりょう)をすすめ、饗応(きょうおう)して「奉行人をすかさず候へば」、六波羅の訴訟はうまくいかないのがこの時代の現実だった。
とすれば、この人脈が領家寂楽寺側に決定的に有利であることは疑いない。
 百姓たちはそのことを十分見とおしていたのである。
預所従蓮もまたそうした百姓たちのことをよく知っており、訴訟を有利に進めるための条件をつくりだすべく百姓たちに示唆(しさ)をあたえ、取引きをしたのであろう。
仮名書きの「たどたどしい」言上状はこうして書かれた。
とすると、残酷な抑圧者のごとくみえた地頭――たしかにそれもまちがいない――は、じつは、ときの権力者得宗(とくそう)の権威を背景にもち、百姓たちを味方にひきいれた預所によって、窮地に追いつめられ、既得権をうばわれようとしている被害者であり、むしろほんとうの抑圧者は得宗とその御内人ということになる。
そしてそれに加担しているとすれば、百姓もまたけっして単純な被抑圧者とはいえない。
 実際、百姓のなかには、このころ市庭(いちば)で年貢や材木を売買し、そのときどきの市での値(和市<わし>)の変動を利用して利益を得ている人々もあった。
このような活動を通じて、有田川の谷々の百姓たちのあいだに連帯意識が生まれていた。
いざとなれば「一味(いちみ)をなし、神水(しんすい)をのんで」、支配者の課役を拒否、集団で逃亡する決意もかれらのなかに育っていた。
一、二代まえの先祖が、自然の圧力と支配者の圧迫によって、やむなくとった逃亡の道を、かれらは支配者に対する抵抗の武器に転化しつつある。
百姓たちの生活の発展と転換は明らかに進行していた。
みずからの利となるなるならば、預所でも地頭でも、臆面(おくめん)もなく利用しようとするかれらの打算は、そのなかで鍛えられた力に裏づけられたものだったのである。
 寛喜(かんぎ)のころ、親鸞の時代とのちがいはそこにはっきりあらわれている。
多くの人々が現実の世界で救いを断念せざるをえなかったそのころと異なり、ここには、残酷な抑圧をすら手段にかえて、生きぬき、利をもとめようとするたくましさがある。
それは裏を返せば、さきの非人の長吏(ちょうり)の動きにも共通したものであった。
たしかにこれこそが生活そのものの発展、時代の前進のあらわれであった。
しかし人の魂をゆり動かす、被抑圧者の真実の声は、むしろしだいに聞きとりにくくなってきた。
それゆえに思想家はその視座をきめがたく、あるものは戒律を強制し、あるものは孤高の道を歩み、あるものは遍歴に身を投ぜざるをえなかったのである。
思想界の混迷はこうしてすでにはじまりつつあった。
(『蒙古襲来』網野善彦 小学館文庫 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)v
顔見知りの方にオシドリが池に来ていると教えてもらいました。
私のレンズでは届きません…
教えてあげると意欲満々で撮りに行きました。
午後から心臓リハビリです。
時間までの間、読んでいたのは『新版 ウイルスと人間』。
帯に本文より「ウイルスにとってみれば、人間はとるにたらない存在にすぎない。」と紹介されています。
読んでみるとウイルスに打ち勝つことは無駄な抵抗だなと実感します。
ウイルス以上に人間の愚かさを知ることがいくつもありました。
例えば『世界 2020年8月号』より井田徹治さんの「環境と生態系の回復へ パンデミックが示した課題」を一部転記しました(7月19日の記事)。
山内一也さんの本にも

日本は野生動物の輸入大国である。
財務省の調査では2003年に哺乳類が85万頭、鳥類が約40ヵ国から約17万羽、爬虫類が約50ヵ国から約88万匹、両生類が約10ヵ国から約1万匹が輸入されていた。


ペットの野生動物の餌にするために
ネズミの死体が年間約160万匹も輸入されていたのである。

野生動物に由来する新たな感染症が広まっても不思議でない状況が起こっているようです。

今日の心臓リハビリではトレッドミルで30分間に歩いた距離は1.7㎞、消費カロリーは107kcalでした。