2020年10月29日木曜日

暖かいというよりも…

今朝は、歩いていると汗をかきました(^^;
顔見知りの方は「上着を1枚脱いだ」と話していました。

夜明け前になんか体が熱いので体温を測ると37.0度…
ビックリしたせいで血圧も143と94で脈拍が104。
しばらくして体温を測ると36.9と下がってきました(誤差の範囲内?)。
出かける前には112と77で、脈拍が89。
体温は、36.6度なので、リハビリ散歩に出かけました。
帰ってきてから測ると114と70で、脈拍が93。
気が弱いのでドキッとすると血圧や脈拍上がる。
体温は、低いときで35度をきるときさえあって、
変温動物かと思うほど上がったり下がったりします。
内田樹さんのTwitterに

答弁がどんどん雑になってきて整合性がとれなくなってきていても気にしないのは「権力は論理より上位にある」と信じているからでしょう。
ですから、この答弁をそのまま垂れ流し的に報道しているメディアは「権力は論理より上位にある」という命題の宣布に加担していることをお忘れなく。
鳥飼玖美子さんのTwitterには、

菅首相の国会答弁「学術会議の多様性を念頭に任命除外した」結果的に地方の大学、私立大学、女性の研究者が外された。
国民に説明できないような理由があったのでしょうが、「多様性」という言葉は、少数の意見や権利を尊重することを意味します。

多様性diversityは最近inclusion(包含)とセットで使われます。
多様な人間がいるだけでは不十分で、人種・性差・年齢・障害の有無に関わらず、個々の人間が尊重され社会や組織で能力を発揮できるようinclude含めることが真の多様性を実現するという考えです。

多様性を真剣に考えての任命拒否なら、女性研究者を排除した理由を知りたい。
若手を増やすことに異論ありませんが、英語圏では年齢だけを理由に高齢者を排除するのは年齢差別ageismになりかねません。

10月29日
 自由党が結成された。 1881(明治14)年

 この日、浅草井生村楼(いぶむらろう)で自由党の結成が決議された。
総理には板垣退助(いたがきたいすけ)、副総理には中島信行(のぶゆき)が選ばれた。
 自由党をつくろという話は、前年の末ごろから出されていた。
その母体となったのが国会開設を要求するために結成された国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)だった。
全国各地の代表78名が参加しての期成同盟第3回大会が、この月のはじめから開かれた。
その開催中、12日に国会開設の詔(みことのり)が発表されたので、この会を自由党結成大会に変更し、連日の会議を経て自由党の結成となった。
結成当初の自由党員は101名だった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
日本の歴史21 近代国家の出発』より自由党について転記しますφ(..)
なお、「明治14年の政変」という言葉がでてきますが、
明治14年の政変」(国立国会図書館)を参照してください。
今の政治状況を見ていると、明治時代の民権運動について知るのは、意味あることだと思います。
自由党は抵抗する
 二つの評価


 明治14年の政変については、民権家の側でもさまざまに評価がわかれている。
郵便報知新聞をはじめ善戦した民権派ジャーナリズムは、これを「世論の勝利」として前むきに評価した。

 「不正ナル開拓使処分ヲ止メタルハ輿論(よろん)ノ効ナリ。至急ナル立憲政体ノ予約モマタ輿論ノ効ナリ。而シテ此(この)強大ナル輿論ハ本年ヲ以テ始メテ社会ニ出現セリ。本年ハ則チ輿論ヲ以テ社会ヲ改良セシ新紀元ト云フベシ」(『朝野新聞』14年12月24日)
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
 このように、日本の民衆が、近代政治における「輿論」の力という重大な要素を発見し、これによって頑冥(がんめい)な政権にたいしても根本的な改革を迫ることができるという自信と、勝利の実感を味わったことはまことに貴重であった。
 しかし、その反面、「地方ノ団結」によって早期に国会開設をかちとろうとしていた期成同盟系の人びとには、これを「大日本帝国滅亡ノ日」というふうに挫折感をもって受けとめる人も少なくなかった。
国会開設が10年も先にひきのばされた。
しかも藩閥政府の約束では信頼をおけない。
   二十三年、そりゃ大馬鹿よ、善は急げと書いてある……

 どこからともなく、こうしたはやり唄が流行した。
 植木枝盛(うえきえもり)は、このとき、「陛下ノ詔ハ解スベカラズ。詔ハ逆道ナリ。……二十三年迄ハ如何(いか)ナル事情アルモ開カザルカ。豈(あに)頑固ナラズヤ。今日迄ノトコハ全ク測ルベカラズ。国ヲ失フヤモ、天子ノ首ノ飛ブニ至ランモハカルベカラズ」とはばからず書いた。
枝盛は、10月12日の前夜に入京したばかりであった。
 世間には、この詔勅にあわてて自由党が結成されたと書いている本が多いが、それは正しくない。
山際七司(やまぎわしちし)文書によれば、第3回国会期成同盟大会は10月2日には早くも自由党結成準備会に変更されている。
そして山際や竹内綱(たけうちつな<吉田茂の実父>)らが組織安の起草委員にえらばれ、6日から原案作成にしたがっている。
それがすんで正式の党大会がひらかれたのは18日であり、それは政変によるものではない。
 ただ、その後、審議がいそがれ、懸案の憲法草案の討議もじゅうぶんにおこなわれず、政党についての統一した意見もきまらないうちに、急遽、10月29日に自由党大会が終結された事情がある。
 この大会には、少なくとも40から50余の参加団体があったとみられている。
その地域代表の用意してきた(持参する約束であった)憲法草案が、どのように審議され、自由党の要求する立憲政体の内容がどのように具体的に規定されたかが、もっとも重要な問題であったはずなのに、それがあきらかでない。
おそらく討議されなかったのであろう。
 それから、これからつくる政党が、政府のあたえる枠内での議会に準備政党のつもりか、それとも民権陣営の要求する真の立憲制をたたかいとる政党の意味なのか、政党そのもの基本性格にかかわることがあいまいであった。
 そうした重要点をあいまいにしたまま、板垣ら土佐派にひきずられて、わが国最初の全国的な政党がいそぎ結成された。
 自由党の性格

 この自由党は、14年の政変で政府を追いつめた都市反対派の主力を包含していない。
たとえば一部の都市ブルジョワジーや民権派ジャーナリズムは、大隈のもとに走って、自由党に加わろうとしなかった。
政策の面ではあきらかに自由党に近い沼間守一(ぬまもりかず)らの嚶鳴社(おうめいしゃ)の勢力も、九州地方の民権政社とともに、土佐派との対立があって包括されなかった。
そして、なによりも重大なマイナスは、自由党結成の原動力であったはずの国会期成同盟系の各地政社代表が、山際七司や内藤魯一(ないとうろいち)をのぞいては、ほとんど新党の指導部に入っていないし、同盟傘下の政社そのものも新党に吸収されていないということだ。
 こうした点にわたくしたちは14年の政変の不意打ちの影響をみる。
自由党がその結成以前に、じゅうぶん論議をつくし、とうぜん調整し、解決しておくべき重要矛盾をかかえながら、それをほとんど克服しないうちに、敵前展開を急いだという感じである。
そのため、自由党がやがて内部の弱点からどんなによりめきつづけることか。
 しかし、そうはいえ、歴史の流れを巨視の眼をひらいてみれば、幕府が倒れてわずか14年にして、全国的政治運動を指導しうる一大国民政党を樹立しえたということは、わが国の民衆運動史にとって、まことにおどろくべき進歩、画期的なできごとだというべきであろう。
 かつて、わたくしたちの先祖は、いかに正義の抵抗であろうと、よく組織された支配者にたいし、個々に立ち上がってはつぶされ、統一指導をもたない悲哀をなめつくしてきた。
 慶応2年(1866)の最大の規模と頻度とをほこる一揆、打ちこわしの民衆蜂起でさえ、その分散性のために各個撃破の運命をまぬがれることはできなかった。
 しかし、いまではちがう。
まがりなりにも、ほぼ一致した意志と規約と単一指導部と、地方組織と機関紙とを首都にもつ党が、国民のうえにそびえ立った。
 この政党が結成されるころ、全国の地方政社の実勢はどうであったろうか。
後藤靖(ごとうやすし)氏の最近の研究によると、41府県で148社という政社名があげられている。
その大部分が民権派の政社であるのだが、これはおそらく実際の総数の何分の一かにすぎないであろう。
 なぜなら、41府県といっても、現在までややくわしく研究されている地方といったら、福島・群馬・茨城・埼玉・神奈川・静岡・愛知・長野・福井・新潟・島根・鳥取・岡山・高知・熊本の15県くらいのもので、あとは、いくらか研究されているか、あるいは、まったく調査の手もつけられていない所だからだ(巻末の図「自由民権と地方巡幸」を参照されたい<省略>)。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
今朝の父の一枚です(^^)v
コンデジで600㎜相当にすると目標物に焦点を合わすのには苦労しているようです。
いくら手振れ補正があっても被写体をとらえるのは難しい。
でも、これまでの120㎜相当のレンズに比べて大きく写るので喜んでいます。