2020年10月12日月曜日

この天気が…

カラッと晴れた朝、顔見知りの方と「こんな天気が続くといいですね」と挨拶していました。
日本は自然災害が常に襲ってきます。
1年前の台風19号で行方不明になっている方がいまもおられる。

台風19号1年 行方不明者を捜索 宮城・丸森町」(毎日新聞 10月11日)
なかのとおるさんがTwitter

証明できなかったわけですな

とボソッと呟いておられますが…
10月12日
 日本社会党委員長浅沼稲次郎が刺殺された。 1960(昭和35)年

 東京日比谷公会堂でこの日総選挙を前に三党首立会演説会が開かれた。
日本社会党委員長浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)が2番目に演壇に立つと、はげしいヤジでその特徴あるガラガラ声もかき消され、演説は一時中断してしまった。
演説が再開された直後、学生服の少年が演壇にかけのぼり、浅沼の胸めがけて短刀をつき刺した。
浅沼の巨体はくずれるようにして倒れた。
犯人は17歳の元日本愛国党員山口二矢(おとや)であった。
 「ヌマさん」「人間機関車」のニックネームで親しまれた庶民政治家の死は、テロにたいする国民の憤りをよびおこした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
社会党浅沼委員長刺殺事件」(NHKアーカイブス)

この時代の背景などについて『日本の歴史26 よみがえる日本』より転記しますφ(..)
所得倍増計画のゆくえ
 池田内閣の登場


 新安保条約の批准書交換をおえた昭和35年(1960)6月23日、岸首相は辞意を表明しました。
「日米新時代」をきずくために議会制民主主義のルールを破ってまで、その成立に努力してきた安保条約の批准で、もはや岸内閣の政治生命は終わったのである。
岸首相が辞意を表明してから、自民党内では後継総裁選びに官僚派と党人派を基軸とするみにくい派閥争いが続いたが、7月14日の総裁公選手続きによって、池田勇人(いけだはやと)が石井光次郎(いしいみつじろう)・藤山愛一郎(ふじやまあいいちろう)を破って総裁にえらばれた。
つづいて7月18日、池田自民党総裁が国会の指名をうけて、19日に第一次池田内閣が成立した。
なお厚生大臣に中山マサが就任し、わが国最初の女性閣僚が生まれたのもこのときであった。
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
 ところで社会党をはじめ革新勢力では、「岸亜流政権反対」をとなえ、日比谷公園に集まったデモ隊は「池田政権反対」を叫んだが、まったく空しい声であり「あとの祭」にすぎなかった。
一般の日本国民は、こうした政変劇には関心はなく、見物人か傍観者にすぎない。
あの激しい安保騒動の結末が岸首相独りの退陣でおさまり、保守党内閣そのものには微動だに打撃を与えなかった。
このことは日本の議会政治の在り方について、なにか深く考えさせられるものがある。
 安保闘争のもたらしたものが保守党政権の再生であったとすれば、それに費やされた国民のエネルギーはまったく無意味なものだろうか。
いったい政権の移動は保守党の政策と無関係に行なわれたのか。
歴史的事実として、岸内閣の有力な閣僚だった池田が、連帯責任を負うこともなく後継内閣の首班として登場する。
この事実は安保条約の根底にある日本の防衛問題の重要性と、これに対処すべき日本の議会政治の後進性を示すものとして、大きな教訓をふくんでいよう。
 しかしさすがに池田首相は、19日、国民にたいして、「私はまず内外にわたり政治の信用を回復するために、与党並びに在野の友党と協力し、議会政治の確立に努力を傾ける」という謙虚な談話を発表し、また「私はつとめて政治の姿勢を正し、政策の着実なる具現を図り、もって国民の優れた資質の正しい展開に資したいと存じます」と、いわゆる低姿勢の方針を示した。
 その後、最初の記者会見で内閣の政治方針を説明したとき、「忍耐と寛容」の精神をもって話合いで議会主義を確立したいとも述べた。
これが後日まで池田首相の低姿勢についての国民の語り草となった。
 池田内閣の運命を決するものは、革新政党やデモ隊の反対ではない。
それは安保騒動に不安を感じながらも、日常の生活に忙しく、その経済活動にいそしみながら政権の移動を見守ってきた日本国民による評価である。
その評価は、早晩行なわれる総選挙においてくだされる国民の裁断である。
 安保騒動後の総選挙

 各党とも、その秋に予想される総選挙に備えて国会解散の日取りを考えていた。
このとき、自党に有利な国内状況を見とどけたうえで総選挙に臨もうと、着々その準備をすすめていたのは与党たる自民党で、9月に入ると選挙対策と見られる新政策を発表した。
これに反し、革新政党は安保闘争の挫折感からの立直りがおそく、積極的な姿勢が見られなかった。
 とくに社会党にとって思いがけない大きな衝撃であったのは、総選挙を前にした10月12日、NHK主催の日比谷公会堂で行なわれた自・社・民社の三党首演説会で、社会党委員長浅沼稲次郎が、元大日本愛国党員の山口二矢(おとや)という17歳の少年に壇上で刺殺されるという惨事が起こったことである。
この日、右翼の一団が講演会場の空気を乱し、異様の雰囲気をつくっていた。
 こうした安保闘争の余波とも見られる不祥事が起こり、人心またもや騒然たる中に10月24日、衆議院は解散され、総選挙は11月20日に行なわれることになった。
 総選挙の結果は、左に掲げる表(省略)のごとく、自民党は解散時の283名を13名上廻って296名、無所属から4名入党したので300名に達した。
得票率では前回57.8%、今回57.5%でほぼ現状を維持した。
社会党は解散時122名を上廻る145名という躍進を示した。
得票率では27.5%で、民社と合わせると前回の32.9%から36.2%とやや増大している。
 このように、選挙の結果は圧倒的な池田内閣支持となったが、それは世論調査の示すところなどによって、あらかじめ予想されていたところであった。
すでに8月8日に行なわれた朝日新聞社の世論調査において、43%がとにかく「池田内閣ができてよかった」と答えていた。
すなわち国民は政権移動の憲法的意義などよりも「明るい納得できる政治」や「生活や経済の安定」をねがっていたのであって、およそ革新派の革命的ムードとは正反対であった。
このことは岸内閣より池田内閣へと政権交替がスムーズに行われた注目すべき政治状況である。
と同時にこの総選挙は、国民の政治的判断が白か黒かに分極化する保守・革新の対立時代の極点であり、その総決算でもあったのである。
所得倍増計画

 池田内閣といえば、だれしも「所得倍増計画」を連想するくらいだ。
これは池田内閣の中心的な政策的表現であり、また特徴的な政治的宣伝でもあった。
 これよりさき、首相の諮問機関である経済審議会が、1年前から審議していた「所得倍増計画」を最終的に答申したのは11月1日であった。
したがってこの計画は、保守党政権下で行なわれていた経済成長、とくに岩戸景気といわれた34年のごとき高度成長を維持しゆくための経済計画、または政策にすぎないのである。
 池田内閣は、総選挙後12月にこれを閣議決定として採択した。
そのうえ池田首相が、日本経済はひじょうな成長力をもっているといわゆる9%成長論などを発表してから、所得倍増計画は池田内閣の中心的政策とみなされ、「月給二倍論」といったようなものにまで通俗化した。
池田首相が外遊したとき、各国でミスター・ナインパーセントと呼ばれたという。
 その所得倍増計画は、当時の経済企画庁総合計画局長大来佐武郎(おおきたさぶろう)によれば、つぎの3つの要点をもった「経済計画」であった。
 「その一つは、計画が長期的・構造的観点を強めていることで、これにはこの春の日本経済の長期的展望作業(経済長期的展望部会)が役立ちました。
第二は、自由経済体制下における経済計画の役割についての基本的な考え方の検討が行なわれたことです。
第三は、従来のトータルないしアベレージ中心の計画から、できるだけ格差など中身の問題をとりあげたことです。
このほか経済成長における人間の要素をとりあげていることなども、従来より一歩前進したものであります。
  しかし、この計画のこれまでの計画と異なる一つの大きな性格は、こんどの計画が政策面にとくに重点をおいたことでしょう。
従来は数字と政策の結びつきがはっきりしていませんでしたが、こんどはその点にとくに注意が払われました。
この意味で、これは『倍増計画』であると同時に『倍増計画』でもあります」(大来佐武郎『図説所得倍増計画』)
(『日本の歴史26 よみがえる日本』蝋山政道 中公文庫 2006年)
この後、「計画の課題」、「高度成長をめぐって」、「所得倍増計画にたいする批判」、「エコノミストの批判」、「倍増計画の中間検討」、「過剰な設備投資」、「消費者物価の騰貴」、「政策転換を迫られた佐藤内閣」、「社会開発の推進」、「政府の物価対策」、「物価諸問題をめぐる国会論議」、「安定成長への道」と述べられています。
安倍前首相の経済政策について当時のキャッチフレーズ?を思い出そうとしましたが、物忘れが激しく思い出せなかった(^^ゞ
でも「モリカケ」などについては忘れません。
コロナ対策・モリカケ・桜…疑惑や難題積み残し 安倍首相辞任表明に関係者ら困惑」(東京新聞 8月29日)
また池田首相の「低姿勢」に比べようもありませんが、
現首相のやり方は、前から思っているのが「中国共産党化する日本政治」(ニューズウィーク 10月3日)。

池田さんの経済政策について以下の動画が参考になると思います。
所得倍増計画で高度成長」(NHKアーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/
ホテイアオイを写していました。
草むらに入ったためか、待ち受けていたのがアレチヌスビトハギ
ズボンにいっぱい「ひっつきむし」がついていました。
侵入年代は「1965年に大阪で確認」だそうです。

追記)
みなさんの返信に素敵なアイデァが(^^)v

今日マスクを買いに来たお客様に
「耳にかけないタイプのマスクってないの?」
って尋ねられた。
やんわりと取扱が無いことを伝えると
「実は片耳がない女の子がいてさ…」
という事情を知った。
僕は「オーダーメイドでつくります!」と即答した。
女の子の笑顔を想像すると、楽しみでしかたがない。