2020年11月1日日曜日

11月がスタート

もう11月なんですね…
年々というようりも、日ごとに時の過ぎるのが早く感じる(^-^;
今朝は、風が冷たく感じるほどでした。
災いを祓う扇のお話」(西村花店)

前から見たいと思っていましたが、蒴果がはじける前にとられてしまって見ることができませんでした。
湯原王(ゆはらのおほきみ)の歌に娘子(をとめ)がこたえた歌。

巻第四 639
  娘子、また報へ贈る歌一首
我が背子が かく恋ふれこそ ぬばたまの 夢(いめ)に見えつつ 寐(い)ねらえずけれ

あなたがこんなにも私を恋しく思って下さるからこそ、夢にお姿が現れて、私を寝つかせてくれなかったのですね。

633の夢は疑いを残す形で相手を揶揄(やゆ)していたが、ここでは眠りを妨げられて迷惑だ、となじる形で親しさが表わされている。
かく 前歌の内容を指示している。
ぬばたまの 「夢」の枕詞。
寐ねらえずけれ ここは眠りたいのに気がかりなことがあって眠れない意を示す。
(『萬葉集(一)旧版』青木生子 他 校注 新潮社 昭和51年)
湯川れい子さんのTwitterに

私は、こんな、優しそうで、品の良い冗談も、時にはエッチなことを言ったりして、にこっとウインクしてくれそうな、お爺ちゃんになってからのショーン・コネリーさんが大好きでした。
お疲れさまでした。ご冥福を祈ります。


平川克美さんのTwitterには

ショーン・コネリー亡くなったのか。
長生きで辛いのは、自分が影響を受けた人々が徐々に退場してゆくのを見なければならないということだね。
父親が、「知ってる奴が皆いなくなってしまった」と嘆いていたのを思い出す。

11月1日
 三池(みいけ)炭鉱の争議が終った。 1960(昭和35)年

 報道陣のフラッシュの光るなかで、この日、三池炭鉱の労働組合委員長と三池鉱業所の所長とが握手し、282日におよぶ争議が終った。
この争議は不況を理由に、会社が1200名の名指(なざ)しの首切りを発表したのがきっかけだった。
石炭業界の不況は、石炭を石油に代える政策の強行で石炭が売れなくなったためだった。
 炭鉱(やま)を守ろう!
 生活を守ろう!
と全国の労働者が支援し、労働者1万8千人が警察官1万2千人と衝突する大争議となった。
しかし、解雇を取り消させることは、この争議の敗北を最後に日本のエネルギーのもとは石炭から石油に転換された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
筑豊 炭坑節 福岡の民謡」(みちしる NHK)

日本のエネルギーと鉱産資源」(中学・高校)

昭和の歴史 第9巻 講和から高度成長へ』より三池炭鉱の争議について転記しますφ(..)
「経済大国」への道
 三池争議
  その背景

 
 前にのべたように、1955年(昭和30)ごろからはじまった経済の高度成長は、鉄鋼・造船・自動車・電機・石油化学など、重化学工業を舞台に多くの成長産業を簇生(そうせい)させたが、その裏側に繊維や石炭などの斜陽産業生みだしていた。
繊維産業の場合は、天然繊維から化繊・合繊への転換がある程度可能であり、労働力も女子が中心であったから、対応が比較的容易であったが、石油によるエネルギー革命にみまわれた石炭産業の困難は深刻であった。
(『昭和の歴史 第9巻 講和から高度成長へ』柴垣和夫 小学館 1983年)
 政府は、この点も前にふれたように、50年代中は、石炭産業の合理化による炭価の石油価格へのさや寄せによって、ともかくも石炭産業を維持する方針をとっていた。
しかし、それを実現するためには、大幅な人員整理、非能率炭鉱の閉山と高能率炭鉱への生産集中など、きびし企業整備の実行が不可避であった。
 53年中に中小炭鉱約100山が休・廃山し、約1万5000人の失業者をだしていたが、54年にはいると石炭大手14社がいっせいに整備・合理化にとりかかった。
ところが、そこに立ちはだかったのが、戦後の労働運動のなかで最強の組合のひとつといわれた炭労(日本炭鉱労働組合)であった。
炭労は同年6月の第22回定期大会で、「企業整備の白紙撤回まで長期にねばり強く闘う」方針を決定した。
 このような背景のもとで、業界最大手のひとつである三井鉱山は、58年9月期決算で1億7000万円の欠損をだし、その後も累積(るいせき)する赤字を打開するため、59年1月19日、業界の先頭をきって三鉱連(全国三井炭鉱労組連合会)にたいし、①職場規律の確立、②残業時間短縮、③新規採用中止、④福利施設圧縮からなる第一次再建案を提示し、さらにその後の交渉で6000人の勇退募集を提案した。
三鉱連はこれにたいしてストの反復で対抗したが、事態を重視した中山伊知郎(なかやまいちろう)中央労働委員会会長の勧告で交渉を行い、会社側は6000人の数字をひっこめ、組合側は希望退職の募集を妨害しないということで、一応妥結した(4月6日)。
 しかし、期限の6月末までの希望退職者は1582人にとどまり、その結果同社の経理はさらに悪化し、7月には賃金の分割払い、9月には遅配がはじまった。
8月28日、会社側は三井六山と港務所で総計4580人の希望退職募集を内容とする第二次再建案を提示し、とくに職場活動家を退職該当者とする意向を示した。
 団体交渉は10月7日に決裂し、ふたたび希望退職者募集の強行とストの反復が繰り返された。
11月13日には中労委中山会長が職権あっせんにのりだしたが、25日には労使双方がそれを拒否するに至った。
12月10日、会社側はとくに三池鉱業所(炭鉱)の職場活動家約300人を「生産阻害者」と指定し、これをふくむ1214人にたいして指名解雇を断行、これにたいして三池労組は、翌60年1月5日解雇通告を一括返上した。
こうして三池争議の幕が切って落とされたのである。
(後略)
ホッパーをめぐる攻防と池田内閣の介入

 第一組合は、総評の動員部隊とともに、出炭の要所である三川鉱のホッパー(採掘した石炭を一時貯留<ちょりゅう>し、必要に応じて下の口をひらいてとりだす装置)に家族ぐるみのピケをはり、長期戦の構えを固めた。
膠着(こうちゃく)状態がつづくなかで、入坑を強行する第二組合員を阻止しようとして、ピケ隊と警官隊の衝突が何度も繰り返され、負傷者が続出した。
7月5日には、会社側が、大牟田(おおむた)市南新開岸壁に機帆船(きはんせん)4隻で〝敵前上陸〟を試みて第二組合員340人の交代入坑員を送りこみ、第一組合は19隻の〝三池艦隊〟で応戦、警官隊をふくめた乱闘で、300人の負傷者をだす事件がおこった。
 7月7日、福岡地方裁判所は、会社側の申請により、7月21日を期限としてホッパー周辺からのピケ排除の仮処分を決定した。
総評・炭労は、その実力阻止をめざしてホッパーに約2万人のピケ隊を動員した。
警官隊も1万人にふくれあがり、流血の衝突は不可避にみえた。
 折から政界は、岸首相の退陣による自民党の後継総裁争いの最中だったが、財界は三池の事態を深刻に憂慮した。
三池で惨事がおこれば、新安保条約の発効で山場をこした大衆運動がふたたび盛り返し、自民党ひいては資本主義体制の存立に危機をもたらしかねないと判断したのである。
7月初めから、桜田武(さくらだたけし)日経連代表理事ら財界代表は自民党に三池対策の急務を説き、池田内閣の成立を急いだ。
若手の石田博英(ひろひで)を労相に推薦したのも桜田であった。
 仮処分期限直前の7月19日、池田内閣の石田博英労相は、就任するとただちに労使に「流血回避のため、三池労組はピケを撤去(てっきょ)し、中労委のあっせんに応じて事態解決に努力する」よう勧告、同時に中労委の職権あっせんを要請した。
中労委は即日、労使双方に異例の同委への白紙一任と休戦を提案した。
すでに力の限界にたっしていた組合側は、政府・財界ののりだしを評価する形で受諾するほかなかった。
しかし、大勢は有利と判断し、この機会に組合を徹底的にたたいて労務管理の確立をめざしていた会社側は、栗木幹(くりきかん)三井鉱山社長以下つよく難色を示した。
 しかし、翌20日、石田労相は栗木社長と面会して直々(じきじき)に中労委一任を説得、桜田日経連代表理事・植村甲午郎(うえむらこうごろう)経団連副会長・永野重雄(ながのしげお)日商副会頭らもその席に立ち合って説得した。
政府・財界をあげて一企業の争議に介入するのは異例のことであったが、これによって栗木社長も休戦に傾き、7月26日中労委の申し入れを受諾した。
決戦は避けられたが、現地では7月22日、警官隊と全学連の応援部隊との衝突がおこり、学生・労組員213人、警官61人が負傷、ニュースカメラマンなど報道人4人もけがをする事件がおこった。
(「あっせん案と収拾」省略)
(『昭和の歴史 第9巻 講和から高度成長へ』柴垣和夫 小学館 1983年)
今朝の父の一枚です(^^)v
モズ♀が声高らかに縄張り宣言♪

秋から冬は自分の食料を確保するために1羽1羽がなわばりをもち、異性を受け入れない。
(『鳥のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)