2020年9月15日火曜日

汗の出方が違う

汗っかきの私は、今まで歩きながら汗をぬぐっていたけど、
今朝は、しなかったなぁ…
気温を見ると9時ごろは、24度になっていない…

キツネノマゴの花はとても小さいけど、ダルマさんがにらんでいるように見える(^_-)
高崎のだるま 赤く、まあるく、縁起良く」(みちしる NHK)
今朝のニュースで気になったのがヤングケアラーの問題。
老々介護の事は、今までにニュースになっているけど、
18歳未満の若者が介護を担う状況は、彼らの将来の道を狭めることにもなる。
ニュースの中で解説されていた澁谷さんの記事がアップされていました。

「ヤングケアラー」18歳未満で家族の介護を担う若者が、直面するものは〟(澁谷智子 婦人公論.jp)
9月15日
 関ヶ原で徳川家康の東軍が石田三成らの西軍を破った。 1600(慶長5)年

 美濃(みの)の関ヶ原で、この日の朝8時ごろからはじまった東西両軍の合戦(かっせん)は、正午ごろ小早川秀秋(こばやかわひであき)が西軍を裏切ったために、午後2時すぎには東軍の勝利でけりがついた。
家康が会津(あいづ)の上杉景勝(かげかつ)を討とうと遠征したすきに、石田三成は各地の大名によびかけ、9万の軍勢をあつめたが、よせあつめでしかなかった。
合戦にかりだされた百姓や町人は「妻子や親類・友だちもたくさん殺され家もこわされては、たとえ生きてもどれても、これからなにを楽しみに生きていけばよいのか」と悲しんだと『雨窓閑話(うそうかんわ)』は伝えている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
永井路子さんの著書より
関が原合戦・もう一つの謎――北政所はなぜ大坂方に味方しなかったか?」を転記しました(2019年6月10日6月11日6月12日)。

日本の歴史12 天下一統』より関ヶ原の役に至るまでのことを転記したあと、
続いて『光る砂漠』より「解説 周郷博」の続きを転記しますφ(..)
豊国のまつり
 北政所と淀君


 慶長4年(1599)正月の騒擾(そうじょう)のあと、2月29日、利家は細川忠興(ただおき)の周旋によって、大坂より伏見にいたって家康と会見した。
利家も前年の暮より病をえていたので、あらためて家康に秀頼の将来を託すためであった。
その後、利家の病気はしだいに重くなったので、3月11日、家康は淀川をくだって大坂に利家をたずねて病気を見舞い、藤堂高虎の邸に宿ったが、このときも三成らは家康を襲撃しようとして果たさなかった。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
 ここで太閤死後の政治情勢をさらに一変させたのは、閏(うるう)3月3日、前権大納言(さきのだいなごん)従三位前田利家の死であった。
家康と利家とによって均衡を保っていた武将たちの動向は、たちまち大きく家康の側に向って傾斜した。
翌4日には三成を除かんとする加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治(わきざかやすはる)・加藤嘉明(よしあき)・福島正則(まさのり)・浅野幸長(よしなが)の七将が三成を襲おうとした。
三成は佐竹義宣(よしのぶ)の急報によって宇喜多秀家(うきたひでいえ)の邸に難をさけ、ついで伏見にのがれて家康にたよった。
このように有力な七将が一致して利家死去の夜に三成を除こうとしたのは、三成が小西行長(ゆきなが)とむすび、また諸将の戦功の報告を怠ったというので、朝鮮の役中よりこれらの諸将に怨恨を買っていたからであるが、その救いを家康に求めたのは、よほどさしせまった情勢にたちいったからであろう。
 家康は七将にたいしてその調停にあたり、三成をして騒動の責めを負わせて領地佐和山(さわやま)に引退せしめ、子息重家(しげいえ)を保育して奉行たらしめんことを説いた。
三成もついに佐和山に蟄居(ちっきょ)したのである。
石田三成が武将たちから憎まれたという事実は、家康にとってきわめて幸福なことであった。
ここで家康は三成にも大いに恩義を売り、かつ三成の蟄居のあいだに、さかんに勢力を伸ばすこととなったのである。
 この家康と三成との対抗関係は、さらにいえば北政所(きたのまんどころ)と淀殿(よどどの)との関係にも対比できるのであった。
もっとも秀吉在世中は、北政所と淀殿との関係はきわめて明白で、秀吉が天正18年(1590)、小田原の役にあたって淀殿を招いたばあいにも、北政所を通じてその旨を達し、あらかじめ用意させたくらいで、北政所の正妻としての対面と立場は確立していた。
しかし淀殿に鶴松(つるまつ)が生まれ、ついで秀頼(ひでより)が生まれ、ついに秀頼が後継者と定まり、さらに秀吉が死ぬと、淀殿の地位は急速に高まってきたのである。
そして恩顧の諸将のなかにも、「七本槍(しちほんやり)」時代の人々はいずれも北政所に親近感をもつが、「五奉行」時代の人々は淀殿のほうに追従的となってくるのである。
それはしばしば武断派と文治派という形で表明されるものであるが、そのように簡単には言いきれぬさまざまな要素が混融してできあがっている。
 天下一統の過程に「七本槍」は欠くことのできない存在で、清正・正則のような子飼いの部将が力いっぱいの活動をしたが、一統した天下の支配には三成・行長のような「五奉行」的な人々があって、吏務に通じ、ときには大いに商才を発揮し、商品流通のうごきにも注意をはらうぐらいの心構えが必要であった。
そして「七本槍」時代においては、統一の協力者として徳川家康という存在がきわめて重要であったけれども、「五奉行」時代になれば、その存在はまったく統制の外にある厄介なものにちがいなかった。
北政所と淀殿とが家康にたいして懐(いだ)いた感情も、そのようにそれぞれ異なるものとならざるをえなかった。
秀吉恩顧の諸将たちも、北政所のこうしたうごきをみれば、家康側にたつことも、それほど良心の呵責にはならなかったのである。
天下の分け目

 慶長4年(1599)9月、家康は重陽(ちょうよう)の節(せつ)(9月9日)を賀すと称して、7日、大坂にくだって石田三成の亭に宿り、9日には予定のごとく秀頼と会したが、居を城内の三成の兄正澄(まさずみ)の亭に移して、大坂において執政することを定めた。
大坂城内では淀殿の素行についてとかくの噂が流れ、淀殿側近の老女大蔵卿局(おおくらきょうつぼね)の子、大野治長(おおのはるなが)との密通の風聞が高かったので、増田長盛(ますだながもり)らの言を容れたものであった。
ここにおいて北政所はみずから西ノ丸を去って京都に移り、家康を西ノ丸に入れた。
家康は子秀康(ひでやす)をもって伏見城を守備させるとともに、西ノ丸にも天守をきずいて勢威を示した。
 家康は執政のはじめに治長を流罪とし、入城にあたって家康暗殺の陰謀を伝えられていた浅野長政・土方雄久(ひじかたかつひさ)らを処分した。
そしてその陰謀の主と見なされた前田利長(としなが)にたいしては、同年の冬北伐の意志を示したのである。
利長および老臣横山長知(よこやまながとも)は他意なきを陳じ、その生母(利家夫人芳春院<ほうしゅんいん>)を質として江戸にいたし、徳川秀忠(ひでただ)の第二女を弟利常(としつね)に嫁せしめることを約した。
こうして慶長5年(1600)正月には、諸侯が家康にたいして臣礼をとるまでになってしまった。
 関ヶ原の役は江戸幕府の創始と直接に関係があり、第13巻に詳述されるが、その動機はこのような天下の形勢のもとに行なわれた家康の会津征伐にかかっている。
会津の上杉景勝(かげかつ)は、若松城を根拠に仙道奥羽(せんどうおうう)に120万石を領したが、太閤の訃報によってただちに西上し、10月26日、伏見において秀頼に謁してのち、翌年8月まで滞在した。
しかし領内政務の必要から秀頼・家康に辞して会津に帰った。
しかるに景勝の新しい領土経営や城砦の修理について逆心の風説を生じ、4月1日、家康はこれを信じて相国寺承兌(しょうこくじしょうだい)をして景勝の非違(ひい)を条記し、その上洛をうながした。
しかもついに日限を定めて、上洛せざれば討伐することを告げた。
景勝としてしばしば誓書をさしだしたが認められず、いま理由なき討伐に屈することをいさぎよしとせず、家康を満足せしめる答書はあたえなかった。
 ここにおいて家康は5月3日、諸大名に出征の令をくだした。
三中老や五奉行の前田玄以(げんい)・増田長盛・長束正家(なつかまさいえ)らは出征の中止を請うたが、効なく、6月6日、大坂城西ノ丸に諸将を会して会津への進路を議し、15日、秀頼も西ノ丸にいたって家康に黄金2万両・米2万石をはなむけとしたのである。
16日、家康は大坂を発して伏見城に入り、鳥居元忠(とりいもとただ)らを留守にとどめて、18日、一路東下した。
 この上杉景勝の行動が、最初から佐和山の石田三成と連絡があってのことか否か、大いに議論の余地のあるところで、3月のころにすでに三成と通謀していたとするのが通説であるが、景勝自身としては、売られた喧嘩を買って起(た)ったにすぎず、初めからの計画により、深甚なる作戦があって三成と連合せるものにあらずという渡辺世祐(わたなべよすけ)氏の説が至当であろう。
 しかし三成が家康東下の間に挙兵することは、ほぼ明白であった。
その意味でこの東下は、三成にたいして与えられた誘いのすきのようなものであった。
三成が挙兵の意志を景勝に明らかにしたのは、6月20日、景勝の家老直江兼続(なおえかねつぐ)にたいし、家康の伏見出陣をつげ、かつ上杉の軍略を問うたときのことである。
 直江山城守(やましろのかみ)兼続は、すでに景勝の行動にはつねに形影あいそうように近侍した重臣であり、景勝の処世の過誤をなからしめた元勲でもある。
越後与板(えちごよいた)城主樋口与惣右衛門(ひぐちよそうえもん)の子で、幼時は上杉輝虎(てるとら)の寵童として仕えたが、天正10年(1582)、直江実綱(さねつな<景綱(かげつな)>)の家をついだ。
文武・経世(けいせい)の才にまぐまれてその名声は天下に喧伝されていた。
景勝の家康に対抗する意志は、兼続によって決せられたといってもよい。
それだけによほどの決意があってのことである。
家康の征討軍をむかえて、先鋒を那須湯山(なすゆやま)でやぶり、背後からの最上義光の軍を山形にうち、東面よりの伊達政宗の兵と戦って奮闘した。
 三成の関ヶ原の役への対処は、まず越前敦賀(えちぜんつるが)の大谷吉継に密謀をつたえ、ついで安国寺恵瓊(あんこくじえけい)をくわえて、三成・吉継が長束正家・増田正盛(まさもり)らを、恵瓊は毛利輝元・宇喜多秀家らを説得した。
そのうえで「内府(ないふ)ちかひの条々」と題する罪状十三ヵ条をつらね、豊臣氏の奉行たる正家・長盛・玄以の連署(れんしょ)で諸将によびかけ、また輝元・秀家の連署で諸大名に書状を送り、組織をかためた。
 あくまでも三成は蔭の人であった。
しかもすでにみたように、三成がその中心であることがだれの眼にも明らかであってみれば「七本槍」派の参加は期待できない。
しかしともかく西軍9万3千余を組織した秘鍵(ひけん)は、実に恵瓊が毛利輝元をひきだし、宇喜多秀家とともに軍兵の召集をさせたことにかかっていたと考えられる。
そこで召集の責任もあって、輝元自身、7月15日には大坂に着し、家康の留守居をおって西ノ丸に入り、子秀就(ひでなり)を本城において秀頼に侍せしめた。
 したがってこれから展開する関ヶ原の役は、軍の動員からみても徳川と毛利との対決であったとみるほうがはるかに合理的である。
ただ毛利氏自身、もともと天下への積極的な意志が少ないのと、西軍の実際の組織者であった三成、さらに安国寺恵瓊にたいする反感がきわめて大きく、輝元を中心とした団結力をじゅうぶんに発揮できなかった。
ことに吉川元春(きっかわもとはる)の子広家(ひろいえ)は、朝鮮の役中に釜山城の包囲をやぶるために抜け駆けの渡河をこころみて成功したのを、かえって軍法にそむいたことを強調して讒言したというので、三成・恵瓊にふかくふくむところがあった。
そこで輝元の参戦をできるかぎりおさえ、大坂城に釘づけにしようとしたのである。
したがって関ヶ原の役の内応は、まったく予定の行動であったともいえるのである。
その内応を未然に防ぐには、輝元自身の出馬しか方法がなかったであろう。
 そうしてみると、関ヶ原の役は東の徳川と西の毛利との天下分け目であるべきはずであったのに、三成は西軍を組織しながら、みずからその敗北の原因ともなっていたといわねばならない。
このばあいの内応軍がすべて毛利一族からでたということも、まったく予想された現象である。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)

(内応<ないおう>:ひそかに敵に通ずること。うらぎり。内通。)
解説 周郷博 (続き 2)
 矢沢君の短い一生と死は、彼の詩によって、その死後に、時間と距離を越えて、タンポポのワタ毛が風に吹かれて飛んでゆくよりももっと広い土壌に、信頼と愛の種子を播いた。
そして、なんの縁もなかったように生きてきた人々と至純な愛と信頼でむすびつけた。
当時、毎日新聞の「母と子のうた」欄を毎週受けもって書かされていた私は、矢沢の詩を9篇もそこへ載せることになった。
はじめに載せた「幸」と「武器」を読んだだけで、「矢沢さんの詩をもっと読みたい」という切迫した気持ちをのべた投書がたくさん寄せられてきたからである。
2年まえまでは一面識もなかった矢沢宰君を、その詩によって、タンポポのワタ毛を風に乗せて飛ばすようなお手伝いを、幸運にも私は、矢沢君のおかあさんを通じて托されたように思えてくる。
 矢沢宰君が14歳の10月から詩を書きはじめて、21歳の3月10日の未明に、たとえようもなく清らかに強烈に燃えたその生命が最後の生を引きとるまでの7年間に書いた詩は、ゆうに5百篇をこえている。
この若さで、これだけの質の高まりをみせた詩を5百篇も書き残して死んでいった例は、おそらくこれまでになかった。
その5百篇の中から、けっきょく私は54篇を私の一存でえらんで、この詩集に収めてみた。
この選択が適当だったかどうか。
適当に、何か「大切なもの」に触っている興奮をおぼえながら、ひとつひとつ拾いだして、制作順にならべてみたのだが、詩作の年代を年齢を区切って考えてみると、最初の「ききょう」「一本のすじ雲」「鮒」それに「こぶしの花」の4篇が、14歳の11月から翌年3月までの作で、つづく「雨におもう」「五月最後の日」から「春の夜の窓は開けて」までの15歳の8篇がそれにつづいている。
そうして16歳は、16歳になった年の5月に書いた「本当に」「僕から」「おれの中に」「五月の詩」「それでも」「自分だけに」「夜の」「五月が去るとて」「俺の中の貴方に」(この9篇の詩は、すべてその5月の作品)にはじまって、「幸」や「武器」「決心」「詩よお前は」などの30篇。
ここに収めた54篇の詩の半数以上が、矢沢宰16歳の詩である。
17歳、矢沢は、ふつうより3年おくれて、病院附設の養護中学校へ通うところまで奇跡的に健康をもち直す。
作品は「空への告白」と「入道雲」の2篇だけがここに収められているが、矢沢宰独自の詩風が、このあたりで、いちだんと堂々とした、大きなパースペクティヴ(眺望)をもったものに成熟してきているのを感じさせる。
はるばるとした大空いっぱいにひろがるものへの悲しみにみちた生命の憧れのような対話。
18歳で、3年間のところを特別進級で2年間で養護中学校を卒えて、県立栃尾高校を受験、合格、5年間の病床生活に別れをつげて、自宅から通学するようになる。
その18歳の詩では、「汽車」「再会」「さびしい道」の3篇がここにはいっている。
「風が」と、妖しいまでに美しい、何かの物語散文詩風の「美しいもの」「足跡に滲む悲しい記憶」の3篇が19歳の作。
そうして、いくらか少年時代を脱けだしたかと思わせる風格をみせる「第一に死が」と「少年」の2篇が二十歳の作品である。
21歳の3月1日、心配された腎結核の再発で、少年時代を送った、もとの三条結核病院に再入院という最悪の結末を迎える。
この時期のものは、「そして終わりに」と、翌年3月10日、最後の息を引きとった痛ましい病床で発見された、あの絶筆「小道がみえる」の2篇だけにとどめる。

(…続く…)

(『光る砂漠』詩・矢沢宰、編・周郷博 童心社 1969年)
今朝の父の一枚です(^^)v
今朝は、秋になったなと感じさせてくれました。

15日朝 秋の涼しさ」(えりの気象日記 9月14日)