2019年6月10日月曜日

小雨になったので…

外を見ると小雨になったので出かけました。
もう親離れしていると思ったら…
親と見分けがつかないのだけどなぁ…(*´▽`*)
ねねのことを調べていたらある疑問がわきました。
その疑問に答えてくれたのが永井路子さんの
『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』(絶版?)です。
関が原合戦・もう一つの謎
  ――北政所はなぜ大坂方に味方しなかったか?


 なぜ大坂方につかなかったか

 1615(慶長20=元和元)年、
大坂夏の陣で豊臣は徳川に敗れて滅亡する。
が、その15年前の関ケ原の合戦で、
すでに敗北は決定的だったことは周知のことで、
徳川方としては、大坂の陣までじっくり待って決算書を書きあげたようなものだった。
ポイントはやはり関ケ原、と見るとき、徳川対豊臣と重なって、
もう一つの、興味ある構図が浮かびあがってくる。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
  永井路子 PHP研究所 1992年)
 それは秀吉の正妻おねねと、
愛妾(あいしょう)であり秀頼の実母淀どのとの
すさまじい怨念(おんねん)の対決だ。
見かたを変えれば、この合戦は、
史上指折りの女の合戦ということもでいる。
従来はこの視点がとかく見逃されがちだったし、
少し関心のある人でも、
せいぜい豊臣、徳川対決の付属物くらいにしか考えなかった。
しかし、女性史の研究が進んで、
戦国期の女性のパワーが見直されてきてみると、
おねねと淀どのの存在の重要性も再認識されはじめているようだ。
 なかでも注目すべきはおねねである。
従来は、秀吉在世中こそ、「北政所」だったが、
それ以後は影の薄い未亡人くらいにしか考えられていなかった。
しかし、どうしてどうして、時代のポイントを握るのは彼女である。
もしも彼女が秀吉の死後、別の動きをしていたら、
歴史はまったく違う展開を見せていたかもしれない。
 おねね、淀どのの生いたちや経歴は周知のことなので省略し、
二人が際立った対比を見せる部分にだけ、まず注目しよう。
 秀吉在世時代、大坂城の本丸にいたのはもちろんおねねだった。
彼女は本丸で黄金のベッドに寝(やす)んでいたという。
庶民的な彼女にはふさわしくない構図だが、
ヨーロッパから来た宣教師が書いているのだからまちがいない。
 淀どのは、その名のとおり、
秀吉の側室となってからは淀に城を与えられて住んでいたが、
規模からすれば、大坂城の足許にも及ばない。
浅井長政の娘である淀どのとしては、
 ――ふん、おねねが大坂城に住むなんて! 軽輩の家の娘のくせに。
 心中おだやかではなかったろう。
ここで彼女は秀吉の第一子鶴松をみごもるのだが、
不幸にもまもなく夭折してしまう。
そこで、二度めにみごもったとき、彼女は強引に秀吉に要求する。
「こんな縁起の悪いところで産むのはいや。
 今度は絶対に大坂城で産みます」
 かくて大坂城二の丸に乗りこんで出産したのが、
幼名拾(ひろい)、後の秀頼である。
もちろん縁起をかついだだけではない。
淀どのにはしたたかな計算があった。
淀で生まれた子は、やはり側室の子だが、
秀吉の本拠で生れれば、そこで臣下の慶賀の挨拶をうける。
秀吉の嫡子という格付けが、しぜんとできる、という戦略である。
 とはいうものの、淀どのも、
そのまま大坂城に居座るわけにもゆかず、
そこで秀吉にねだって作ってもらったのが伏見城である。
こうして嫡子の生母という格付けを得たが、
さらに、淀どのがどうしてもおねねに追いつけないものがあった。
 それは、おねねが手にしている従一位の位である。
一方の淀どのは無位。
天と地ほどの開きがある。
位は朝廷から与えられるもので、側室にはその資格がない。
この隔たりに、淀どのがいかに嫉妬したか、
このことについて、後世は案外見落としている。
 が、一方のおねねも、心おだやかではなかった。
それまではどの側室にも子供がなかったが、
秀頼を産んだ淀どのは大敵である。
子供のないおねねに最大の危機が訪れたのだ。
 考えてみれば女の戦いは残酷だ。
男は自分の才覚でのしあがることができるが、
女には自分の力ではどうにもならない宿命的なものを背負わされている。
 たとえば美貌。
さらに妊娠能力。
それも男の子を生むか、女の子を産むか……。
どれも自分の才覚で左右できない難問ばかりだ。
黄金のベッドで寝(やす)みながらも、
一歩一歩追いこまれつつあることを、
おねねは感じずにはいられなかったろう。
 秀吉もこのあたりに気を使って、秀頼には、おねねを、
「まんかかさま(政所である母君)」
 と呼ばせ、敬意を払わせてはいるが、
それが、どれだけ自分の位置を安定させるものか、
おねねの不安は消えなかったにちがいない。
そして秀吉の死によって、その予感は的中した。
秀頼が淀どのとともに大坂城本丸に乗りこみ、
おねねは西の丸に移らされてしまう。
あきらかな格下げである。
今でいえば妾腹の子が生母とともに本邸に乗りこんできて、
かつ父の遺(のこ)していた会社を切り廻しはじめ、
本妻はその片隅で小さくなっているようなものだ。
 淀どのとしては、
長年の鬱屈をやっと晴らしたというところだろうが、
周囲には少しやりすぎ、と見る人々もあった。
たとえば少年時代からおねねに目をかけられてきた
加藤清正、福島正則などがその代表である。
これには淀どのの側近である石田三成、小西行長たちとの
微妙な対立も含んでのことで、
しぜん大坂城には不穏な空気が漂いはじめた。
 もっとも、人の心の動きは今も昔も同じようなものだ。
死んだ前社長の未亡人につくより、
息子の新社長側につくほうが将来有利にきまっている。
石田三成たちはわがもの顔に大阪城内をとりしきり、
おねねの影は日ましに薄くなって、
だんだん西の丸にさえいづらくなってきた。
淀どのにしては、
 ――今こそ思いしったか。
 と、言いたいところだったろう。
城内での微妙な対立の原因はおねねがそこにいるためだ、
というような雰囲気が作りあげられ、
ついにおねねは大坂城から出なければならなくなる。

 旗を巻いての退却である。
 落ちつき先は京都三本木。
大坂城から京の町中(まちなか)へ。
まさに一挙の転落だ。
いってみれば、一万坪の庭つき豪邸から、
二間のアパートに追いだされたようなものだ。
おねねの屈辱感はどんなだったか。
これではとうてい淀どのに味方などできるわけがないではないか。
この確執が、関ケ原へと続くことが、
案外、これまで見落とされてはいなかったか。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
  永井路子 PHP研究所 1992年)
後日、続きを転記しますφ(..)
今朝の父の一枚です(^^)v
今日は、母の月命日。
母の好きなネジバナが咲いていたので喜んでいました!(^^)!

田辺聖子さんが亡くなっておられたのですね…
聖子さんの作品が好きでした。
「ジョゼと虎と魚たち」は映画化されて好きだったな…