2020年9月10日木曜日

雨の後…

今朝、戸を開けると涼しかったです。

夜明け前に大雨の予報メールが届いていました。
その雨のおかげか、気温が熱帯夜の25度よりも下がっていました。

アメリカでは涼しくなるというより
24時間で約40度の気温変化に見舞われた米コロラド州」(ニューズウィーク日本版 9月9日)

悲しい事故が起きましたね…
小さな子どもや高齢者の誤嚥による窒息事故は、防ぐことができるものです。

窒息事故はこうして起きる ~子どもを救う方法とは~」(NHK)
ヘクソカズラの実
「屁糞」と名づけられていますが、漢方薬として、しもやけ、ひび、あかぎれ等に薬効があるそうです。
ちなみにこの実もつぶすと臭いそうです(^_-)
9月10日
 川中島で上杉謙信と武田信玄が戦った。 1561(永禄4)年

 6月末関東から帰陣した上杉謙信は、8月14日大軍を率いて信濃(しなの)に出陣した。
武田信玄も18日甲府(こうふ)を発した。
めざすは川中島(かわなかじま)
千曲(ちくま)川と犀(さい)川が合流する善光寺平(ぜんこうじだいら)の地であり、両勢力の接点であった。
謙信は妻女山(さいじょさん)に陣をおいた。
信玄は前年築いた海津(かいづ)城に入って決戦の時を待ちかまえた。
9月9日夜、城を出て移動を開始した両軍は、10日早朝八幡原で激突した。
信玄の弟信繁(のぶしげ)が討死、嫡子(ちゃくし)義信(よしのぶ)も負傷して越後(えちご)勢が優勢であったが、結局、勝敗決しないまま両軍は引上げた。
この戦いの最中、謙信がいっきょに敵の本営をついて信玄に斬りつけ、信玄はその太刀(たち)を軍配団扇(ぐんばいうちわ)でうけとめたという一騎打ちの話が伝えられている。
 川中島の合戦は第1回の1553年から64年まで5回あったといわれているが、4回目にあたるこの戦いがもっとも有名である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
戦国時代』より「川中島合戦」を転記しますφ(..)
関東・東北の争覇戦
 川中島合戦


 謙信は、越後に帰ると、ほとんど兵馬を休めることなく、その年(永禄4年)8月末、信濃に向けてまた出陣した。
かれが小田原側の反撃をうけないうちに、鎌倉をひきはらい厩橋(まやばし<前橋市>)から急遽帰国したのは、おそらく信玄の動きによって、またもや北信の不安が高まっていたからであろう。
永禄4年(1561)は謙信の生涯のうちでも、もっとも緊迫した年であったが、32歳という壮年にふさわしく精力的な活動をつづけた。
信濃進発にさいしては、会津の芦名(あしな)、羽前(うぜん)の大宝寺(だいほうじ)氏など北方の国衆の来援をもとめ、これらを越中一向一揆にそなえて西方に配し、長尾政景を府内の留守役とし、みずからは攻撃軍の指揮をとった。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 一方信玄は、謙信の関東進入中に、北信のそなえを固め、善光寺平を制圧する拠点として、海津城(長野市)を千曲川にのぞむ地に築き、高坂弾正昌信をその守将とした。
しかも、かれにとって有利だったのは、これにさきだつ永禄元年、将軍義輝から信濃守護職を認められていたことである。
義輝は、同年、謙信の入京をうながすため、信玄にも甲越和平を求めたが、機敏な信玄はその好機をとらえて、小笠原長時の没落以来空位となっていたこの職を獲得したのである。
 8月なかば、謙信が動きだすのとほとんど同時に、信玄も甲府を発した。
謙信が国境をこえて信濃に入ると、武田の防衛拠点旭山(あさひやま)城(長野市西方)の城将も、これに寝返った。
越軍は進んで妻女山をおさえ、武田方の本拠地海津城に迫った。
 両軍の決戦は、9月10日、川中島で行われた。
善光寺・旭山から犀川をわたってせまる越軍、海津城から千曲川をわたって迎え討つ甲軍。
その決戦場が川中島となることは、地形からして必至であった。
頼山陽(らいさんよう)の著名な詩「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜過(レ)(かわをわたる)」は、このときの合戦(第4次)をさすといわれる。
 合戦のもようをたしかな史料で具体的に知ることはむつかしいが、戦いの直後、謙信が武将たちにあたえた軍功感状のたぐいは少なからず残っている。
それらによれば「凶徒数千騎討捕(うちとら)へ、大利を得(う)」とか「今度(このたび)信州表に於て、晴信の対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕へられ候事、珍重大慶に候」などという文言(もんごん)がみられる。
また武田側の史料『妙法寺記』も「甲州ハ晴信御舎弟典厩(てんきゅう<信繁>)ノ打死(うちじに)ニテ御座候」といっているし、嫡子義信も負傷したほどだから、すくなくとも最初の局面における上杉方の優勢はまちがいない。
古来喧伝(けんでん)された謙信の信玄本陣への斬りこみはこのときのことである。
 合戦は越軍の優勢ではじまったが、やがて甲軍では小山田(おやまだ)弥三郎の軍勢が越軍の側面に攻撃をかけたため、越軍も手痛い打撃をうけ、結局勝敗決しないままに戦いは終わった。
しかも謙信にとって決定的に不利な状況は、この隙(すき)をついて、北条氏康(うじやす)が北武蔵から上州にむけて行動を開始したことである。
謙信は、またもや北信濃に戦の成果を定着させることなしに本国に引きあげ、11月には関東にとってかえし、ここで越年することを強いられた。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
稲穂が黄色くなってきました。
収穫まで台風が来襲しなければいいのですが…

秋の稲の収穫」(動画 2分7秒)