出かけた時は、ポツポツと降っていたのですが
公園に着くと傘をさすほどに降り出しました。
山に上がって携帯で撮影しているとメールが届いた
「大阪880万人訓練」の通知かなと思ったら、本当の地震速報でした。
「福井県坂井市で震度5弱 県内で震度5弱程度以上 昭和38年以来」(NHK)父親とは違った立場で発信している高須力弥さんが紹介しているLITER(9月3日)の記事を読むと、
東京都知事がなぜ追悼文を送らないか、また、追悼集会を妨害するのかがわかります。
関東大震災朝鮮人被害者の追悼式典にオリバー・ストーン監督が反ヘイトのメッセージ! 一方、小池百合子知事はヘイト団体を後押し
中国の脅迫で自由などを封じ込めようとするやり方に対して
ドイツのマース外相が王外相との共同会見の場で、
「われわれは国際的なパートナーに敬意をもって接する。
相手にも同じことを期待する。脅迫はふさわしくない」
と述べチェコへの連帯を示しました。
「チェコ上院議長の“台湾支持” 中国の対抗措置示唆に欧州反発」(NHK)
チェコの人々にとって中国は、プラハの春を戦車で押しつぶしたソ連を思い起こさせるし
ドイツは、東ドイツ時代の自由を奪われていた日々の記憶と重なるのではないかな?
9月4日
伊能忠敬(いのうただたか)の死が3年半ぶりに発表された。 1821(文政4)年
1816年、全国の測量をおえた伊能忠敬は、すぐに日本全図の作製を弟子たちとはじめたが、完成しないうちに、18年4月13日に74歳で死んだ。
弟子たちは、地図を完成させなければ、忠敬はほんとうは死にきれないのだとがんばり、21年7月に「大日本沿海輿地(よち)全図」をつくりあげ、この日ようやく忠敬の死を公表した。
19歳も年下の高橋至時(よしとき)の教えをうけ、1800年からはじめた忠敬の測量は、17年間かかって北海道から九州までおよんだ。
その地図は伊能図とよばれて、日本の近代地図のもとになった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
2008年の2月に目白坂にある永泉寺に山崎富栄さん(山崎家の墓)をお参りした後、
地図に「伊能忠敬測量遺功表」とあったので訪ねたことがあります。
最初の遺功表は
1889(明治22)年12月、東京市芝区芝公園の丸山古墳の上に「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」という青銅製の記念碑が東京地学協会によって建設された。
1944(昭和19)年に戦時中の金属回収政策のため、9月23日に東京都芝公園の伊能忠敬先生測地遺功表を撤去。
現在の遺功表は1965(昭和40)年に再建されたもの。
「伊能忠敬と伊能測量関連年譜(渡辺一郎編)」(伊能忠敬e史料館)より
「大日本沿海輿地全図」(動画 1分55秒)
『地図を楽しもう 岩波ジュニア新書593』より伊能忠敬について転記しますφ(..)
なお、本には理解を助ける図がたくさん載っています。
5 測量・地図遺跡をたどる
2 伊能図から近代地図づくりまで
佐原の伊能忠敬
(略)
忠敬は1745年に上総(かずさ)国小関(いまの千葉県九十九里町小関)に生まれ、18歳のときに伊能家にむこ養子に入りました。
当時の伊能家の経済は苦しかったのですが、商業に対する才覚と勤勉さで家勢をばんかいし、1766年と1783年におきた凶作・飢饉にさいしては、困窮した農民に備蓄米(びちくまい)を配布するなどして救援したのだといいます。
同時に、関西から買いもとめた米を江戸で売りさばいて大きな利益を得たようです。
(『地図を楽しもう 岩波ジュニア新書593』山岡光治 2008年)
50歳になると、家業を長男の景敬(かげたか)にゆずり、翌1795年には江戸深川黒江町(現・江東区門前仲町)に移り住みます。
その後は、みなさんもご存じのように、幕府天文方(てんもんがた)の高橋至時(よしとき<1764~1804>)の門に入って、天文学や測量・地図作成について学び、日本全国の測量に着手します(1800年)。
忠敬は、佐原の地でその後に勉学に必要な資金と、将来の測量に必要な経費を用意するだけの資産を獲得していたのでしょう。
残された旧宅は、いまの人には一見質素なつくりに思えますが、当時は江戸へ向かう荷を積んだ船がひんぱんに行き来したと思われる小野川の船着場に立つと、荷を運ぶ人々が行きかう、にぎやかな大店(おおだな)の風景がよみがえる気がします。
川の対岸に伊能忠敬記念館があって、収蔵する忠敬の著書・測量図・日記・書簡などから、その偉業をしのぶことができます。
江戸の伊能忠敬
江戸へ出た忠敬は、現在の東京メトロ東西線・門前仲町駅に近い深川黒江町に居住します。
住居跡には、それをしめす石碑が立っているほかは、いまは何も残っていません。
忠敬は、黒江町から浅草天文台(図5.7 省略)まで徒歩で通いました。
天文台で、親子ほど年の若い高橋至時に天文学などを学んでいたあるとき、地球の大きさが話題になり、以来黒江町の住居と天文台までの道のりを歩測で求め、両地点で天体観測をおこない、子午線1分の距離を求めました。
ところが、その結果を聞いた至時に「このような短い距離では、誤差も大きく不十分だ」と言われました。
これに奮起した忠敬は、正確な緯度1度の距離が知りたい、地球の大きさが知りたいという願いを胸に、全国測量をはじめたといわれています。 全国測量には、黒江町の住居と、のちに転居した八丁堀亀島町(現・中央区日本橋茅場町)から、蝦夷地(現・北海道)南岸・奥羽街道測量、伊豆沿岸・本州東岸測量、奥羽西半分測量などと、毎年のように日本各地へ測量に旅立ちました。
その測量は足かけ17年間、日数にして約3700日、距離にすると地球全周と同じ約4万キロにもなります。
天文測量する伊能忠敬5 測量・地図遺跡をたどる
2 伊能図から近代地図づくりまで
佐原の伊能忠敬
(略)
忠敬は1745年に上総(かずさ)国小関(いまの千葉県九十九里町小関)に生まれ、18歳のときに伊能家にむこ養子に入りました。
当時の伊能家の経済は苦しかったのですが、商業に対する才覚と勤勉さで家勢をばんかいし、1766年と1783年におきた凶作・飢饉にさいしては、困窮した農民に備蓄米(びちくまい)を配布するなどして救援したのだといいます。
同時に、関西から買いもとめた米を江戸で売りさばいて大きな利益を得たようです。
(『地図を楽しもう 岩波ジュニア新書593』山岡光治 2008年)
50歳になると、家業を長男の景敬(かげたか)にゆずり、翌1795年には江戸深川黒江町(現・江東区門前仲町)に移り住みます。
その後は、みなさんもご存じのように、幕府天文方(てんもんがた)の高橋至時(よしとき<1764~1804>)の門に入って、天文学や測量・地図作成について学び、日本全国の測量に着手します(1800年)。
忠敬は、佐原の地でその後に勉学に必要な資金と、将来の測量に必要な経費を用意するだけの資産を獲得していたのでしょう。
残された旧宅は、いまの人には一見質素なつくりに思えますが、当時は江戸へ向かう荷を積んだ船がひんぱんに行き来したと思われる小野川の船着場に立つと、荷を運ぶ人々が行きかう、にぎやかな大店(おおだな)の風景がよみがえる気がします。
川の対岸に伊能忠敬記念館があって、収蔵する忠敬の著書・測量図・日記・書簡などから、その偉業をしのぶことができます。
江戸の伊能忠敬
江戸へ出た忠敬は、現在の東京メトロ東西線・門前仲町駅に近い深川黒江町に居住します。
住居跡には、それをしめす石碑が立っているほかは、いまは何も残っていません。
忠敬は、黒江町から浅草天文台(図5.7 省略)まで徒歩で通いました。
天文台で、親子ほど年の若い高橋至時に天文学などを学んでいたあるとき、地球の大きさが話題になり、以来黒江町の住居と天文台までの道のりを歩測で求め、両地点で天体観測をおこない、子午線1分の距離を求めました。
ところが、その結果を聞いた至時に「このような短い距離では、誤差も大きく不十分だ」と言われました。
これに奮起した忠敬は、正確な緯度1度の距離が知りたい、地球の大きさが知りたいという願いを胸に、全国測量をはじめたといわれています。 全国測量には、黒江町の住居と、のちに転居した八丁堀亀島町(現・中央区日本橋茅場町)から、蝦夷地(現・北海道)南岸・奥羽街道測量、伊豆沿岸・本州東岸測量、奥羽西半分測量などと、毎年のように日本各地へ測量に旅立ちました。
その測量は足かけ17年間、日数にして約3700日、距離にすると地球全周と同じ約4万キロにもなります。
忠敬が地図をつくるためにおこなった測量方法は、導線法(図5.8 省略)とよばれ、距離と角度を測りながら延々と進みます。
しかし、そのままでは、誤差が多くなりますから、ときおり高い山を観測したり、各地で天文測量をして補正しました。
天文測量をした地点は1200カ所にもなり、伊能図の中に☆印がつけられています(図5.9 省略)が、現地で確認できるような詳細な情報は残っていません。 ただ一つ、岩手県釜石市唐丹(とうに)町には、天文測量の実施をしめす記念碑が残っています。
「測量の碑」は、1801年に忠敬が三陸沿岸測量のため唐丹村を訪れて測量したのを記念して、1814年五、同村の葛西昌丕(かさいまさひろ)という天文暦学に興味をもつ人が、忠敬の偉業を残そうとして建立しました。
碑には、忠敬の測量の方法と結果が記されています。
葛西は同時に、中央に当地の緯度、まわりに星座名などを記した長径70センチほどの星座石も残しています。
残念なことに、発見された石碑は、建立後の移動もあって正確な測定地点とは一致していないようですが、忠敬の天文測量を裏づける貴重な遺物となっています。
伊能忠敬の地図
ふつう「伊能図」とよばれる「大日本沿海輿地(よち)全図」が、すぐれた日本地図であったのはいうまでもありません。
幕府に引きわたされた当初こそ、書庫(紅葉山<もみじやま>文庫)の奥深くに保管されていましたが、明治政府は、伊能図をベースにして内陸部を埋めた20万分の1地図「帝国図」を作成するなど、積極的に活用しました。
1873(明治6)年当時、太政官地誌課が保管していた伊能図が火災で焼失したので、じっさいには伊能家にあった控え図を写して使いました。
地図作成は、1885(明治18)年に陸地測量部が本格的な地図作成を開始するまでつづき、その成果は地域によっては大正年代まで使われました。
全国測量という偉業を達成した忠敬は、1818年に74歳でこの世を去りますが、その死については、伊能図などが幕府に引きわたされる1821年まで伏せられていました。
遺体は遺言により、師であった高橋至時の墓のそばに葬られます。
東京都台東区東上野にある源空寺。
その墓地の中央すぐ左側に至時の子・高橋景保、右どなりには「日本名山図絵」などで有名な南画家(なんがか)・谷文晁(たにぶんちょう<1763~1836>)と墓がならびます。
そして、なぜか歌舞伎や芝居で有名な侠客(きょうかく)・幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)、そして至時、忠敬(図5.10 省略)の順にならんでいます。
至時と忠敬の墓が寄り添うようすからは、仕事を成しとげた老弟子が、そのようにしてまで師に近づきたいという、師への思いが感じられます。
それにしても、師の墓にくらべて忠敬の墓のほうが堂々としているのは、どうしたのでしょうか。
なお、佐原の伊能家の菩提寺である観福寺にも、忠敬の爪と髪が納められた伊能家の墓があります。
(『地図を楽しもう 岩波ジュニア新書593』山岡光治 2008年)今朝の父の一枚です(^^)v
スズメが傍に寄って来ていました。
公園のスズメを見ると用心深い子とこのスズメのように人なれした子がいます。
「4日は各地雨 局地的に激しい雨の降るおそれ」(えりの気象日記 9月3日)