2020年9月2日水曜日

遠く離れているけど…

 

今朝も暑かったけど風が時々ふいていました。
大阪から遠く離れているけど台風の影響かな?
8、9、10号と連続して発生すると台風の通り道が出来てしまっている。
それも次第にこちらの方に近づいているような…
9号は、まだ危険な状態だけど
台風10号 “特別警報級” 6~7日に奄美や西日本に接近か」(NHK)

なんかユーミンの発言で騒がしいみたいだけど
芸能人が政治的な発言(?)をするのはいいと思うし、
友達だそうだから、かわいそうだと涙が出たといってもおかしくない。
ただ思うのは、首相は病気(?)で降板するみたいだけど
自殺に追い込まれた人がいることを知っているのかな?
そして世の中には真相究明をうやむやにしようとしている空気がある。

#赤木さんを忘れない

夫の最期の顔は絶望に満ちていた 赤木さん妻の陳述全文」(朝日新聞 7月15日)

妻の雅子さんは、かわいそうなんていう感傷的なレベルでなく
最愛の人を失い、絶望の淵でどんなに泣いたか、そして俊夫さんの無念をはらすために裁判を決意した。
9月2日
 ミズーリ号上で降伏文書の調印式が行われた。 1945(昭和20)年

 東京湾上の戦艦ミズーリ号で、この日、降伏文書の調印が行われた。
日本側全権の外務大臣重光葵(しげみつまもる)と参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)が到着するとまもなく、テントもない甲板で式が始まった。
 海上にはアメリカやイギリスの軍艦がこれをとり囲んでいた。
重光・梅津に続いて、連合国軍最高司令官マッカーサーと9カ国の代表が降伏文書に調印し、最後にマッカーサーが「これをもって平和は回復された」とのべ、20分で式は終了した。
政府は、占領軍が直接軍政を敷くことを恐れたが、沖縄等を除いては間接統治の方式がとられた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
法廷証第6号: 降伏文書; 詔書」(国立国会図書館)

B面昭和史 1926-1945』より「降伏調印のこと」を転記しますφ(..)
●降伏調印のこと

 9月2日、東京湾に錨をおろした米戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式での、連合軍最高司令官マッカーサーの演説は、わずか3分間であった。
しかし、その一語一語は、居並ぶかつての敵味方の将兵の心を打った。
その全文を載せることにする。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 「本日私たちは、この度の戦争の主要な参加国を代表し、平和を取り戻すための重要な最終合意を交わすためにここに集いました。
私たちがそれぞれにいだく理想やイデオロギーには大きな隔たりがありますが、その立場の違いにより引き起こされた様々な問題については、世界を舞台にしたこれまでの戦いで既に決着がついており、ここで議論するものではありません。
また私たちは、地球の大多数の人々の代表として、不信や悪意や憎悪をぶつけあつためにここに来たわけでもありません。
今ここで、私たち勝者と敗者が一堂に会して成すべきことは、私たちの目指す崇高な目的に唯一かなう尊厳ある髙い見地に立ち、この場で正式合意される取り決めを私たちの国々の国民全てに余すところなく忠実に履行させるべく行動することであります。
 私は、いや全人類は、心から祈念します。
今日この場で行われる荘重な儀式よりのち、過去の流血と虐殺の惨事から得た教訓をもとに、より良い世界が始まりますように。
すなわち、信仰と相互理解を基礎とし、人類の尊厳、そして人類が最も強く希求する自由と寛容と公正さへの願いがかなえられる世界となりますうに」(黒田敏彦氏の訳による)
 丸腰の開襟服で乗りこんできた征服者が、いま「自由と寛容と公正」とを説くのである。
日本全権たちは隠しきれない賛嘆の眼をもって、彼をまじまじと見つめるばかりであったという。
 太平洋戦争は大日本帝国の降伏をもってこの日に終ったのである。
 さて、日本の民草ははたしてどこまでこの日に戦争が降伏をもって終結したのかがわかっていたのであろうか。
近代日本になってからは日清・日露・第一次世界大戦と10年おきに三度の大戦争に勝者となった時代に育った日本人が、降伏することの意味を、そして国際法的な正式な手続きについてよく理解していたとは思えない。
 すでに一度、拙著『十二月八日と八月十五日』でかいたこであるが、あえてくり返す。
明らかに敗戦であるのに「終戦」と呼び替えたことが、「敗けた」という事実を認めようとしない、あるいはそれを誤魔化そうとする指導者たちの詐術のごとくに、いまきびしく批判する人がいる。
それはもうそのとおりである。
しかし、そこには一億総特攻、一億総玉砕という総動員体制がスウーと一日にして消え去ったという安堵感があり、とにかくこれ以上戦わなくていいのだ、死ななくてもいいのだ、戦争がともかくも終ったのだとう安心した気持ちに「終戦」という言葉がぴったりで、国民的な実感がそこにあったから、という気がしてならない。
と同時に、いまもう一点つけ加えると、降伏ということにたいする無知と錯覚が当時の日本人にはあったゆえ、とも考えられる。
それは多くの人の日記の9月2日の項をみることで、それとなく察せられるのではないかと思われる。
 たとえば、しばしば引用した高見順日記。
小説家にして詩人のこの人はこの日のことを微細に街での見物をかいている。
その一部。
 「牛肉が氾濫している。もちろん、闇だが。
 一斉に密殺したらしい。香風園でも牛肉の大盤振舞だった。
 牛肉を買わないかという話が、私たちのところへもいろいろな方からやってくる。
 横浜に米兵の強姦事件があったという噂。
 『敗けたんだ。殺されないだけましだ』
 『日本兵が支那でやったことを考えれば……』
 こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく『価値』がある」
 そして降伏調印に関しては、読売報知新聞の記事を切りぬいてペタンと貼りつけておくだけですましている。
 作家大佛次郎の日記には調印に関しては一行もなし。
これもその一部を。
 「午食の後横浜へ行き米軍上陸の日の街を見る。門田君と歩く。ニュウグランドはマッカーサーが入ったことで歩哨が立っている。上陸したばかりの兵隊どもが道路に休憩し珍らしそうにこちらを見ている。野暮ったい百姓臭い奴がいると思ったら蘇聯(それん)兵である」
 そして愛読する永井荷風の『断腸亭日乗』ときたら、
 「昨夜木戸氏東京より来りて一泊せり、午後その書斎に入りて余の災前に預け置きし書冊の恙(つつが)なきを見る、またその語る所によりて五叟(ごそう〔杵屋五叟〕)の熱海に移居せし事情、および木戸氏ここより東京中野に家を購い急ぎ移転せし訳を知り得たり」
 と、たったこれだけ。
相変わらず天下国家のことなどわれにかかわらずわれに関せずということなのである。
 いくら何でもこれだけでは残念なので、眼をいくらか皿にして探偵し、いくつかみつけた。
その一つは民俗学の泰斗(たいと)柳田國男の『炭焼日記』(修道社)。
ただし、ただの一行。
 「降伏条約調印の報をきき浩歎(こうたん)す。大きな歴史なり」
 作家海野十三は少しくわしくかいている。
 「かくて建国三千年、わが国最初の降伏事態発生す。
 この日雨雲低く、B29その他百数十機、頭上すれすれに、ぶんぶん飛びまわる。(中略)
 降伏文書調印に関する放送も、二度聞くともうたくさんで、三度目、四度目はスイッチを切って置いた。
 飯がまずくなる」
 もう一人は大物で、陸軍大将の宇垣一成の9月3日の項の全文を。
 「昨日横浜沖合米艦上にて無条件降伏条約の調印成れり。屈辱!!! 千秋の恨事也。 咄(とつ)!! 
 敵を恨まず他を咎(とがめ)ず身から出た錆(さび)と諦め、内に省み、自ら戒めて新日本の建設皇国の興隆に粉骨砕身すべきである!!」
 そして偉そうにかいてきたわたくし自身であるが、まったく何一つ覚えていない。
8月28日に文部省が通達した「九月中旬までに全学校の授業を再開するようにせよ」にもとづいて、在学する新潟県立長岡中学校(現長岡高校)は9月1日から2学期の授業をはじめている。
ただし、この日は土曜日で、始業式の校長の長い長い訓示と全校内の総がかりの大掃除で終った。
それまで軍需工場へ出勤していたから、わたくしにとっては初めて3年2組の教室で自分の机の前に坐ったことになる。
あたりはすべて初対面といっていい同級生ばかり。
あまり頭のよさそうな面魂(つらだましい)のやつがいないのにホッと安堵したことを覚えているが。
 翌2日は日曜日。
真向いに聳(そび)える鋸(のこぎり)連峰を眺めながら、ほぼ一日中自分の家の畠仕事に精出した。
この年はかぼちゃの当たり年で、こやつらの手入れに汗をいっぱい流していた。
いま思えば、宇垣元大将のいうとおり「粉骨砕身」し、人糞肥料の桶をエッサエッサとかついできて、かぼちゃよ大きくなれよ、と長い柄杓(ひしゃく)で撒いてやっていた。
そんな中学生に、戦争に敗北するとはいったいどういうことなのか、わかるはずもなかったのである。
 しかも、これまでの戦争中のことを思い返して、苦しかったし長かったし、ビンタをさんざん喰らい、苦しみつつも最善をつくし、そして堪えてきたこと。
そして空襲で死にそこなったのに、なぜか生き残ったこと。
空襲で黒焦げて焼死した人を山ほども見たこと。
歓呼の声で送りだして戦って戦ってほんとうに多くに人が死んだこと。
生き残ったものはそれを黙って見守るしかなかったこと。
その責任はいったいだれがとるのかということ。
そうした大事なことをこの日にはまったく考えようともしなかったのはたしかである。
 そのことがいまは、せっかく生きのびたのに情けないことであったと思っている。 
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
歩き始めは曇り空で風も吹いていて楽に歩けるかなと思っていたけど
青空が見えるとやはり暑かったです(^^;

まもなく新たな台風が... 進路しだいで近畿も影響」(えりの気象日記 9月1日)
午後から、ほぼ1年ぶりの心臓リハビリ。
新型コロナが落ち着くまでと思っていましたが、
町なかを歩くときにマスクをしていると息苦しくなります。
先月の診察日にどれくらいのテンポで歩けばいいのかを知りたいのでリハビリの再開をお願いしました。
トレッドミルで30分間を毎分3.0㎞で歩きました。
エアコンが利いていることもあって、マスクをしていても楽に歩けました。
30分間で1.49㎞、消費カロリーは84kcalでしたp(^^)q
町中を歩くときは、もう少しテンポをゆっくりにするか、休憩しながら歩けばいいと思いました。