2020年9月7日月曜日

少しだけ…

 

台風の後、山のエリアへの入り口が閉鎖されていることがあるのですが、
今回は、樹木に被害がなかったようで入ることができました。
歩いている時は風が吹いていて少し涼しかったけど
昼近くには生温かい風になっていました。

台風10号 西~東日本 大気不安定 大雨と土砂災害に警戒を」(NHK)

岩波書店のTwitter

【今日の名言】
暴君というものはお慈悲にすがられるのを好むものだが、大衆もまた慈悲にすがられると、しばしば公正以上のことさえ認めてしまうものである。

――ホーソーン『完訳 緋文字』
アルフォンス・デーケンさん死去 日本に死生学を広める」(朝日新聞)

コロナ禍の今だからこそデーケンさんのお話しを聞きたかったな…

今夜から始まる100分de名著「ペストの記憶 デフォー」の第1回のテキストに

コロナ禍の現代においても、宗教を信じているか否かにかかわらず、何らかの信念を持たなければ、感染の危険を冒して外出すべきどうかを決めることなどできないでしょう。
また、より長期的な視野でいえば、何か未来に期待を持たなければ、一人ひとりが感染症の危機に耐え抜くことは難しいでしょう。

(「デフォー『ペストの記憶』」武田将明 NHK出版 2020年)
9月7日
 吉川広家(きつかわひろいえ)が朝鮮人の鼻を豊臣秀吉に差し出した。 1597(慶長<けいちょう>2)年

 この年2月から再び始められた朝鮮への侵略で、その先陣をつとめてはりきっていた吉川広家は、この日、秀吉の目付(めつけ)に、きりとったばかりの朝鮮人の鼻358個をさしだし、その請取(うけとり)をもらって得意になった。
9月から10月初めにかけて、広家は計1万8350もの鼻をさしだしている。
日本軍は朝鮮のいたるところで家々を焼き、朝鮮人とみれば女や子ども・老人を皆殺しにして、首のかわりにせっせと鼻をきりとり、塩づけにして日本に送った。
秀吉は無数の鼻を、京都方広寺(ほうこうじ)の西にうめさせた。
今では「耳塚(みみづか)」とよばれている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
日本の歴史12 天下一統』より「戦争と民衆」を転記しますφ(..)
返り点は( )をつけて(一)などのように表記します。
無法な「天下」
 戦争と民衆


 朝鮮の民衆たちは、朝鮮の王室や政府の長期にわたる腐敗した政治に苦しめられていたから、日本軍の果敢な進撃をはじめはむしろ傍観し、あるいは歓迎をしたくらいであった。
しかし、その日本軍はけっして解放軍でなかったことは、占領地にたいする国わけや検地が実施されはじめると、すぐにわかってきた。
いま咸鏡道咸興(かんきょうどうかんきょう)に鎮した鍋島直茂(なべしまなおしげ)が徴した射出(さしだし)がのこっている。
咸鏡道に一揆の頻発したことも肯けるのである。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
 日本軍の軍規は表面はきわめて厳正で、土民を殺戮(さつりく)することを禁じ、百姓の還住をすすめており、たしかに従来の苛政をあらためて善政を布(し)いたものもある一方、裏面では諸将が功を争うことになると、討ち取った首級をあげるかわりに鼻をそぐことが行われ、一般民衆にも危害をくわえるものがあった。
あちこちで残虐行為が行われたのである。
奈良の多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)が、出陣にあたって、

 「抑(そもそも)、南蛮高麗大唐ニハ異国の取向様(とりむこうさま)に震動、貴賤上下迷惑浮沈思ヒ遣不便(やりふびん)々々、扨々(さてさて)何ト可(二)成行(一)事哉覧、希代不思議ノ興行也」

と日記に書き、秀吉の渡海が噂にのぼると「戦国万民不便々々、サソサソ悲哉、思遣(おもいやる)々々」とも記したが、同情したとおりの悲惨な状況が、朝鮮において展開していたわけである。
  こうした直接的な迫害とはちがって、いわゆる宣撫工作もさかんであった。
秀吉が朝鮮の諸軍に通事を付し、朝鮮人民にいろはを学ばせたのもその一つで、文禄元年(1592)6月に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、これらのことを朝鮮より安芸の安国寺に知らせている。
また本願寺でも軍隊のあとから布教につとめ、教線の拡大をはかっていたようである。
 わたくしは先年、佐賀県唐津(からつ)市に学生諸君と修学旅行をし、婦人運動家奥村五百子(おくむらいおこ)の墓に詣でるため、菩提寺の高徳治(こうとくじ)を訪ねたことがある。
墓参をすませて本堂にまわると、その外陣(がいじん)の欄間に「釜山海」という文字が大きく刻まれているのが眼についた。
さっそくにその由来をうかがい、内陣(ないじん)にまつられる「親鸞聖人御影(しんらんしょうにんみえい)」をおろして裏書をみせていただいた。
そこには明らかに、

  「大谷本願寺釈教如(花押)
    慶長三戌年四月十三日
      朝鮮国釜山海
         願主釈浄信
   高徳寺常住物也   」

という墨書銘があるではないか。
慶長の役のことであるが、高徳寺は釜山浦に建立された真宗寺院であって、全軍の撤収とともに唐津に寺籍を移したものであった。
これから大明・朝鮮各地につくられる予定の寺々には、日本国内の「山」号にたいしてこのように「海」号をつけるはずであったとも寺では伝えていたのである。
ここにはかつて信長を悩ませた一向一揆の抵抗の精神はもはや失われ、権力に随従して宣撫活動につとめる変わりはてた姿ではあるが、信仰の力に生きぬこうとする不死鳥のような教団の姿を鮮かに示していた。

(「奥村五百子 (1845~1907)」 国立国会図書館)
 日本の行政支配が強められるにしたがって、朝鮮民衆のあいだで果敢な抵抗が一揆となって現われた。
文禄元年の秋のころから、咸鏡道を中心にしばしば一揆がおこった。
11月1日、秀吉は諸将に令して陣地を固守させ、一揆に備えしめているが、その熾烈な蜂起のさまがうかがわれる。
そのために咸鏡道では鏡城が奪われ、清正の軍が敗られるほどであった。
清正は九鬼広隆(ひろたか)とともに咸鏡道の端川(たんせん)で銀鉱の試掘などをしていたが、その守兵も一揆のために殺された。
一般民衆の抵抗につれて、慶尚道・全羅道で、豪族が私財を提供して武器や兵士をあつめ、組織的に抵抗をこころみる義兵も出現していた。
このような南朝鮮豪族の蹶起(けっき)によって、日本軍は後方連絡がいちじるしく阻害されてくるのであった。
 そのうえ日本軍を最終的に苦しめたのは、文禄2、3年(1593、4)にかけての大飢饉であった。
このときの飢饉は、文禄4年の豊作によって人民にひとときの蘇生の思いをあたえはしたものの、ふたたび慶長元年(1596)におよんでいっそうきびしく、疫病までも流行して、戦禍にかさなる天災となったのであった。
これには朝鮮人民もまったく困窮におちいったが、日本の将兵とても同様で、文禄2年3月のころ、宇喜田秀家(うきたひでいえ)らの諸将も、漢城の兵粮欠乏して雑粥(ぞうがゆ)をすする始末であった。
もはや後退するほかに道はなかったのである。
 したがって日本軍の戦力は、戦死・戦病死、さては逃亡・降伏という形をとって、急速に減退しつつあった。
日本軍の戦線を離脱して逃亡するものは、はじめのあいだは役夫であって、文禄元年5月、漢城入城のころからみられたのであるが、戦争が長期にわたると朝鮮ばかりでなく肥前名護屋からも逃亡するものがあり、文禄2年2月14日には肥前名護屋の在陣衆の逃亡を禁じ、常陸水戸(ひたちみと)の佐竹義宣(さたけよしのぶ)の留守居は、領内に「人留番所(ひとどめばんしょ)」をもうけてその旨を高札を立てさせており、京都でも本能寺が、朝鮮および名護屋より逃亡する者を寄宿せしめない旨を所司代(しょしだい)前田玄以(げんい)に誓約した。
 慶長の役においても、慶長2年2月20日付の太閤朱印状には、「今度高麗へ差遣はされ候而(そうらいて)、其方家来ノ者共、自然逐電(ちくてん)之族(やから)これあるに於ては、追て先々成敗(せいばい)を加ふべく候、相拘(あいかかわり)候者ハ共に曲事(くせごと)たるべく候条、聞立言上すべく候也」というきびしい命令を目付(めつけ)太田飛騨守に伝えていることからも、戦線からの兵士の逃亡になやまされていたことは明らかである。
 朝鮮の役のさいに、日本軍の降伏などありえないように考えられているが、朝鮮では「降倭」と称してその続出の対策を考えねばならなかったくらいであった。
文禄3年夏のころ、朝鮮東萊校生宋昌生(とうらいこうせいそうしょうせい)というものが釜山の日本軍陣中に入って、毛利輝元の養子秀元の部将萱島元規(かやしまもとのり)と、姓は不明だが諸正(もろまさ)というものが投降の意あるを知ってこれを招降し、降書を慶尚道監司韓孝純(かんしかんこうじゅん)にさしだした。
そこで8月12日、国王李昖(りこう)がこれを議している。
同10月7日に李昖は、降倭を北道に入送して、咸鏡道監司および北兵使をしてこれを撫恤(ぶじゅつ)し、胡人(こじん)を撃破するために使役せしめることにした。
そして今回の降将萱島元規を折衝上将軍(せっしょうじょうしょうぐん)となし、降倭の所持する兵器をすべて没収した。
しかしてなおも降倭が続出するばあいは、旧によってただちに上送し、これを遼東(りょうとう)に配置することにした。
その後もなお降倭がでるので、才技あり恭順なる者は陣中に留め置き、その他は慶尚道閑山島(かんざんとう)の舟師の格軍となさしめたり、あるいは「投順軍」と称して、宣伝官李栄白(りえいはく)というものに指揮をとらせて土賊を討たしめたりした。
 その反対に朝鮮軍も捕虜も、もちろん多かった。
とくに諸将の引揚げにあたって、それこそ才伎あり恭順なる者を、多くともない帰った。
われわれは新しい製陶技術と活字印刷術の導入という点で、この戦争の日本における「文化的」影響をあとづけることができよう。
その詳細は省略して別に新しい知見をくわえると、京都大学附属図書館蔵の「舟橋家旧蔵図書」のなかにある『書史会要(しょしかいよう)』という書物に、

 「慶長四年仲冬、課(二)朝鮮人(一)(二)書写(しよしやせしめ)(一)(おわんぬ)、吏部清原秀賢(ひでかた)

という奥書のあるものある。
それは戦役で捕虜となった朝鮮人の文化的才能を利用し、課役としてこうした書写の事業にあたらせたことを示している。
舟橋家は中世博士家学(はかせかがく)をつたえる清原家の嫡流であるが、秀賢の高曾祖父宣賢(のりたか)の遺訓を忠実にうけついで、清家(せいけ)としての新注摂取を完成し、近世儒学の成立する基礎を作っただけでなく、木活字による出版事業にもふかい関心を示したことで知られている。
そうした古典的な家学の花咲くかげに、朝鮮人の努力のあったことは興味ふかい事実といわねばならない。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
今朝の父の一枚です(^^)v
台風10号は九州各地に被害をもたらしました。
地球温暖化の影響下、台風が大型化しているように思えます。
まだまだ台風が襲来する危険性は高いです。
新型コロナの影響で避難所の定員が限られてしまっているのが不安ですね。

台風の通り道で台風にはなれている田舎でも今回は心配だったようで
父は連日、電話をして無事を確認してホッとしていました。
でも、サトウキビが倒れてこれからが大変だと心配していました。

各地に爪痕」(奄美新聞 9月6日)