2020年9月3日木曜日

曇っていても…

 
時々、風が吹いたけど台風が運んでくる湿った風なのか蒸し暑かった…(^^;
9号は、離れていってくれているけど10号が心配ですね…
直撃はないみたいだけど進行方向の右側は風が強い…

台風10号 広範囲で甚大な影響が出るおそれ 接近前に備えを」(NHK)

坂本史衣さんが書いておられる記事
手洗い・手指消毒のなぜ・いつ・どうやって??」(Yahoo!ニュース) 

新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、手洗いや手指消毒の意識が高まった!という方は多いと思います。
一方で、手を洗いすぎたり、消毒しすぎたりして、手が荒れて困るという方もいらっしゃるようです。

今回は、やりすぎでもない、やらなすぎでもない「ちょうどよい手洗い・手指消毒」をその理由とともにご紹介できればと思います。
Kazumi SunadaさんのTwitter

オリバー・ストーンが関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に送ったメッセージ。

「東京都知事を含む日本の右翼的歴史否定主義者たちが歴史を歪曲しようとする動きを強めていることに驚きはしませんが失望しています。
過去に正直に向き合うことはどの国にとっても容易なことではないでしょう。
それは私たちの国(アメリカ)が今直面している課題でもあります」

「私たちはみなさんのような真実の歴史観のために戦う人々との連帯を強固にし、このような憎悪に基づく犯罪を二度と起こさせないという決意のもと、皆さんと共に被害者を追悼したいと思います。」

これまでの式典ではアメリカからのメッセージはなかったそうだ。
最近の世界の動きを見ていると「連帯」が必要だとひしひしと感じる。
世界のあらゆるところでまだ民族・人種の差別や抑圧が存在していて、それぞれに歴史背景は違うけれど、連帯することで理解が進むことはできると信じたい。


今は、SNSで世界中の情報を得ることができます(中国は違いますが)。
東京都知事の姿勢も世界に伝わっています。

安田菜津紀さんの投稿

9月1日、悼む人々と「日本語分かっていただけましたか」という言葉
前にも書いたけどマスクなど国内生産を推進すべきだと思います。
中国は、輸出を禁止し、政治的に利用します。

医療用マスク国内で大量生産へ」(関西NHK)

開発にあたった「国立循環器病研究センター」の西村邦宏 医師は、
「自分と周りの患者を守るために防御手段を増やす必要があり、国産の安心できるものがほしいというのが医療現場の実感だと思う。輸入がストップする事態にも備えるため、国内で生産できる体制を目指したい」
と話していました。
9月3日
 ロシアの使節ラクスマンが根室沖にあらわれた。 1792(寛政4)年

 この日午後2時ごろ、蝦夷地(えぞち<北海道>)根室(ねむろ)沖に1隻(せき)の大きなロシア船があらわれた。
根室の番人駒蔵(こまぞう)は、10人のアイヌ人といっしょに小舟で近づこうとしたが、大砲2発を発射され、びっくりして逃げもどった。
 翌日、小舟で上陸してきたロシア人の中に、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら3人の日本人が含まれていた。
82年に駿河(するが)沖で遭難した光太夫らを救助し、大切にもてなしたロシア皇帝エカテリーナ二世は、ラクスマンを使節にして漂流民(ひょうりゅうみん)を送らせ、日本との通商を求めて来たのである。
しかし幕府は「長崎に行け」とつっぱねるだけだった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
幕末にペリーが来たことはよく知っていましたが
ロシアの艦隊が来て外交関係を求めていたことは知らなかったです。
日本の歴史18 開国と幕末変革』より「ロシアの根室来航」を転記しますφ(..)
第三章 十九世紀世界と天保の改革
 1 西欧との出会い
  ロシアの根室来航


 1792年(寛政4)9月、ロシアの遣日使節ラクスマンが、帆船エカテリーナ号で、漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを同行して根室に来航した。
伊勢国の光太夫は、1782年、江戸へ向かう途上、遠州灘(えんしゅうなだ)で漂流、アリューシャン列島に着いて、カムチャッカからイルクーツクへと移り住み、ペテルスブルクでエカテリーナ2世に謁見し帰国の許可を得た。
漂流後10年を経て、日本に帰還したのである。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 ラクスマンは、通商交渉のために江戸行きを要請する国書を幕府に送り、根室で越冬した。
老中(ろうじゅう)松平定信(まつだいらさだのぶ)を中心とする幕閣は交易許可を覚悟し、翌年、長崎への入港許可証を渡す。
ロシア側も幕府の意向を知って帰航したのだった。
 その後、ロシアは、1794年(寛政6)にエトロフ島をのぞむウルップ島に進出し、十数人が越年、植民をはじめた。
また、1796年(寛政8)から翌年にかけて、イギリス人のブロートン探検隊がプロヴィデンス号で現れ、シベリア東端から日本の太平洋側沿岸、琉球・台湾・朝鮮・沿海州を広範囲に調査し、外国船としてはじめて津軽海峡を横断する。
 幕府はこの2年後、180人余の大調査隊を蝦夷地(えぞち)へ派遣した。
幕臣で北方探検家として名を馳(は)せる近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)も参加し、エトロフ島に「大日本恵登呂府」と記した木製の柱を建てる。
序章で述べたニシン肥など、蝦夷地の経済的価値の浮上とロシアやイギリスの登場によって、蝦夷地直轄経営の可能性について調査がなされた。
そして、1799年(寛政11)、幕府は東蝦夷地を7年間仮直轄とし、1802年(享和<きょうわ>2)になって同地を永久直轄(上知<あげち>)した。
 1804年(文化元)には、ロシア遣日全権使節レザノフが、軍艦ナデジュダ号で長崎港外に投錨(とうびょう)する。
その艦長はクルーゼンシュテルン、ロシア最初の世界周航探検隊艦長であった。
レザノフは、ラクスマンが10年前に得ていた長崎入港許可証と国書を持参し、仙台藩の漂流民津田夫(つだゆう)たち4人を伴っていた。
津田夫もペテルスブルクでアレクサンドル1世に謁見、クルーゼンシュテルンとともに世界周航を経験し、11年後の帰国であった。
シベリア少数民族との出会いや異郷での仲間の死去など、津田夫からの聞き書き『環海異聞(かんかいいぶん)』は、大黒屋光太夫の体験を桂川甫周(かつらがわほしゅう)が著した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』とともに、北方漂流記の双璧(そうへき)をなしている。
とくに『北槎聞略』は、日本のロシア学の始まりと評される。
 レザノフは、序章で紹介したように、1799年(寛政11)に設立したばかりの露米会社の最高責任者である。
露米会社は、北太平洋の漁猟・貿易・植民の独占特権を保有しており、会社の課題は、北太平洋とアメリカ北西岸のロシア植民地へ食料・日用品・資財を供給することであった。
レザノフは、それらを日本から輸入しようとしていた。
当時の幕府は定信が去り、「寛政の遺老(いろう)」時代であった。
幕府は強硬拒否を選び、レザノフを6カ月間にわたり隔離状態に置いたうえ、翌年になって「鎖国の祖法(そほう)」を口実に通商、外交を拒否した。
 通商と外交を強硬に拒否されたレザノフは、帰国途上、アレクサンドル1世に宛てて、サハリン島と南千島諸島への軍事行動の許可を求める書簡を送り、露米会社雇いのフヴォストフとダヴィドフにサハリンと南千島の日本植民地の破壊を命じた。
しかし、皇帝の許可が出ないままレザノフは本国へ出発し、シベリアで死去する。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
環海異聞」(国立公文書館)

北槎聞略」(国立公文書館)

ブログをアップしようと作業をしていると、またまた編集画面が変わっている。
パイロット版を使っているからこれらかも変わっていくのだろうな…
画像がはみ出していないのでいいのだけど…
今朝の父の一枚です(^^)v
最近、公園で出会う野良ちゃんが少なくなったような気がする…

2日夜の寝苦しさと3日の雨 原因は台風9号」(えりの気象日記 9月2日)
台風の被害がありませんように…