2020年9月20日日曜日

曇り空だけど…

今朝は、雨が降るかもしれない曇り空
最後まで雨は降らずに気持ちよく歩けました。
百鬼夜行絵巻19日から特別公開」(関西 NHK)
見に行きたいけど、電車に乗るのはまだまだ…

百鬼夜行図」(東京大学附属図書館)
萩の花を見ていると、お祈りしているように見えます。
なにか願い事があるような…(*´▽`*)

巻第十(秋の相聞) 2259 (作者未詳)

 秋萩の上(うへ)に白露置くごとに見つつそ偲(しの)ふ君が姿(すがた)

 秋萩の上に白露が置くたびに、それを見ながら思い偲びます。
あなたのお姿を。
(『万葉集(三)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年 )
心筋梗塞を発症したときに突発性難聴も併発し左耳が完全に失聴しました。
右耳も聴力が低下しています。
体温計などのピーという電子音が聞えません。

家電の「ピー」が聞こえない ~今も解決しないのはなぜ?〟(NHK)
9月20日 
後白河法皇(ごしらかわほうおう)が平清盛の福原山荘で、宋人を見た。 1170(嘉応<かおう>2)年

 後白河上皇は、この1年前、出家して法皇となっていた。
しかしあいかわらず院政をつづけ、またいろいろのことに好奇心をよせた。
 この日は、清盛の福原(神戸市)の別荘まで出かけて、宋人を引見(いんけん)した。
 外国の正式の使者でない者を、天皇や上皇がかろがろしく引見することはかつて例がなかった。
そのため、この型破りの行動について、九条兼実(くじょうかねざね)は、「延喜(えんぎ)以来未曾有(みぞう)のことだ。なんとも嘆かわしい、これは天魔のしわざという他はない」と記している。
しかし、このころから宋の商人との貿易はしだいに盛んになり、平氏はこの貿易で富をたくわえた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
後白河法皇と平清盛について『日本の歴史 第7巻 院政と平氏』より転記しますφ(..)
六波羅政権
 「アナタコナタ」する清盛


 清盛が比較的抵抗も少なく公卿になれたのは、そうした複雑な政情のなかで、天皇方・上皇方それぞれの思惑による後援のためである。
また一つには、清盛自身が政界遊泳術にすぐれていた結果でもあった。
この点について『愚管抄(ぐかんしょう)』は、「清盛ハヨクヨクツツシミテ、イミジクハカライテ、アナタコナタシケルニコソ」と述べている。
これは真実を伝えるものであろう。
しかし、どちらにもじょうずに奉仕していた清盛も、いつのまにかその姻戚(いんせき)関係、すなわち、義妹の滋子(じし)が上皇の寵愛(ちょうあい)をうける立場にあったことなどをとおして、しぜんに後白河上皇に利用される結果となっていった。
上皇は清盛の武力を利用することによって、権勢を強めようと懸命であったと思われる。
(『日本の歴史 第7巻 院政と平氏』安田元久 小学館 1974年)
 こうしてその後の清盛の昇進は、異常なほどの早さをしめした。
かれはすでに、前述の平時忠(ときただ)流罪事件の直前に権中納言(ごんちゅうなごん)となっていたが、翌応保(おうほ)2年(1162)8月には従二位にすすんだ。
このころ清盛は上級貴族の仲間にはいり、平氏一門の貴族化の途(みち)を積極的に歩みはじめたのであろう。
かれは長寛(ちょうかん)2年(1164)に、その女(むすめ)盛子(せいし)を関白藤原基実(もとざね)に嫁がせ、藤原摂関家の嫡流近衛(このえ)家と接近する手段をとっている。
摂関家は昔日の勢威を失っていたといえ、京都貴族のなかでは、いぜんとして最高の権威をもつものである。
これと婚姻関係をもつことは、公卿として清盛の名誉でもあり、その地位を保つうえでも有利な条件となる。
清盛はこのことにより、摂関家が、興隆する平氏の反対勢力となることを未然に防ぐことを意図したと思われる。
清盛が蓮華王院の造営を完成させのも、この年のことである。
当時の清盛の巨大な財力をも推察させる。
 ついでその翌年の永万(えいまん)元年(1165)、清盛は権大納言(ごんだいなごん)となり、さらに翌仁安(にんあん)元年(1166)には正二位内大臣、そして仁安2年2月には、左右大臣をとびこして太政(だいじょう)大臣となり、従一位にすすんだ。
平治の乱ののちわずか8年のあいだに、人臣最高の官位にまでいたったのであり、その昇進の早さは驚異的なものであった。
 この間、清盛がしだいに後白河上皇に接近していったことはたしかであるが、当時の宮廷をめぐる情勢も、清盛にとって有利に展開していた。
そのことは、かれの昇進を早めた原因でもある。
すなわち清盛が権大納言になった永万(えいまん)元年に、二条天皇は2歳の皇子順仁(のぶひと)に位を譲り(六条天皇)、まもなく他界した。
そして平滋子(じし)が生んだ後白河上皇の皇子、憲仁(のりひと)親王(のちの高倉天皇)が6歳で東宮となった。
滋子を媒介としての後白河上皇と清盛の信頼関係は、いっそう大きくなり、上皇も武力をもつ清盛を接近させることによって、着々と専制君主への途(みち)をすすみはじめたのである。
横紙破り

 この上皇と清盛の接近は、たんに政界内部の政略のためばかりとはいえない。
両者のあいだには性格的にも共通したものがあり、そこから両者の協調もすすんだものと思われる。
のちに両者のするどい対立がおこるのも、根本はその似すぎた性格に原因があった。
その共通点を一言にしていえば、「横紙破り」な性格であるといえよう。
かつて上皇の側近にあった信西(しんぜい)が後白河天皇を評して、

  この天皇は和漢を通じて類の少ない暗主であるが、ただ二つだけ徳がある。
  一つはもし何かしようと思うことがあれば、あえて人の制法に拘束されず、かならずこれをなしとげることである。
  (中略)もう一つの徳は、聞かれたことは決して忘れず、いつまでも心の底に覚えていることである。
  この二つが徳である。

といったと『玉葉(ぎょくよう)』に伝えられている。
この「制法に拘束されず」とは、古いしきたりに束縛されず、自分の思うままに大胆にふるまったということである。
この性格は清盛にも多分にあり、若いころ(久安<きゅうあん>2年=1146、29歳)に、祇園社の神輿(しんよ)に矢をたてた話にもみられるように、そうした性格からでた行動も少なくなかった。
 上皇と清盛との、「横紙破り」の性格をあらわす説話は少なくない。
その一つに、清盛が祈禱(きとう)の効果を信じなかったという話がある。
当時の貴族はもちろん一般庶民も、神仏のふしぎな力を心から信じ、加持(かじ)祈祷などはとうぜん効力のあるもので、もし効果がないときは、祈禱の力が不足したものと理解していた。
ところが清盛は、神仏に対する崇敬の念こそきわめて強かったにかかわらず、そうした形式的な迷信を排除したらしい。
 『源平盛衰記』につぎのような説話がある。
ある年、春から日照りつづきのとき、澄憲(ちょうけん)という僧侶が祈禱によって大雨を降らせ、人々から賞賛された。
ところが清盛は「日照りが長くつづいたのだから、五月雨(さみだれ)のころになって雨が降るのは当然であろう。病人でも時期がくれば自然に癒(い)えるが、たまたまそのころに診察した医者は名医とよばれる。これと同じように、祈禱をしたから雨が降るなどとは、ばかげたことだ」と嘲笑したという。
かれは祈禱などは迷信だと公言したのである。
 またあるとき、宋の明州(めいしゅう)の長官から贈物があったが、その手紙が無礼だとして、貴族たちの多くは贈物を返却し、返事も不要との意見をだした。
ところが171ページでもふれたように、清盛は贈物をうけとり、返書はもちろん返礼の品までもおくった。
貿易のためには、形式的な体面とか旧来のしきたりなどを無視する、清盛の新しい感覚を物語るものであろう。
さらに日宋貿易と関係する話であるが、宋の商船が兵庫に入港したとき、清盛は後白河上皇を摂津福原(せっつふくはら)の別荘に招いて、宋人を引見(いんけん)させた。
当時の貴族たちは排外意識があり、上皇や天皇が外国人を引見するなどとは、もってのほかのことと考えられていた。
貴族たちはこの事件をみて、これこそ「天魔」のしわざであると非難した。
しかし、上皇も清盛も、そうした貴族らの保守的態度などには、いっこうに頓着しなかったらしい。
こうしたところに、両者の気の合うところがあった。
 なおまた、清盛が音戸(おんど)の瀬戸を開鑿(かいさく)し、兵庫の築港をおこなったという話は有名で、一つの社会事業として、そのすぐれた見識は後世からも高く評価された。
清盛の真意を推測すると、前者は、平氏と関係の深い安芸(あき)国への航路の便を考えたものにすぎないように思われ、後者もけっきょく清盛自身の利益の追求のために、対宋貿易の便宜を目的としたものであろう。
しかしそれにしても、こうした積極的な大土木事業は、たしかに清盛の進歩的な見識をあらわすものといえよう。
 築港のとき、従来の人柱(ひとばしら)の習慣をやめ、かわりに一切経(いっさいきょう)の文字を書いた石をしずめて、築港の基礎としたという「経ヶ島」説話も、後世につくられた話とは思うが、清盛の進歩性を的確にとらえた説話といえるようである。
(『日本の歴史 第7巻 院政と平氏』安田元久 小学館 1974年)
あなたこなた【彼方此方】
〘代名(指示・人称)〙あちらこちら。ほうぼう。あれこれ。
複数の人・もの・場所などをさす。
(『古語林』林巨樹・安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)

横紙(よこがみ)を破(や)
《和紙は漉き目が縦にあって、横に裂くものでないところから》
無理をおし通す。横車を押す。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)
今朝の父の一枚です(^^)v
咲き出すと一気に咲くなぁと、彼岸花を楽しんでいました。

ヒガンバナと球根―中学」(動画 58秒)