朝、涼しく感じたけど、歩きだすと暑かった(^^;
まだまだ残暑が厳しいのだろうなぁ…昼食の準備をしてたら、テレビに緊急地震速報
震度4といえば結構揺れたと思う。
まして東北の方は、震度4以上の揺れに感じたのではないかな?
調理をするために火をつけていたらなおさら怖かっただろうなぁ。
関東大震災は、11時58分ごろだった…
「青森県 岩手県 宮城県で震度4 津波の心配なし」(NHK)「テニス大坂なおみ 全米オープン決勝へ 黒いマスクに込めた思い」(NHK)
人権意識の薄いというのは言い過ぎかもしれないけど
日本のスポンサーの中には
「大坂なおみの人種差別抗議に国内外で温度差 スポンサーの微妙な事情」(毎日新聞 9月11日)
「吉永小百合さん コロナ感染続く中で撮影 新作映画への思いは」(NHK)「青森県 岩手県 宮城県で震度4 津波の心配なし」(NHK)「テニス大坂なおみ 全米オープン決勝へ 黒いマスクに込めた思い」(NHK)
人権意識の薄いというのは言い過ぎかもしれないけど
日本のスポンサーの中には
「大坂なおみの人種差別抗議に国内外で温度差 スポンサーの微妙な事情」(毎日新聞 9月11日)
いつも思うことだけど、依存症への日本の対応の仕方は、
パッシングばかりで、救いの手を差し伸べていないと思う。
その意味で、勇気のある決断であり、発言だと思うのが、
東映の手塚社長の
「映画は観客が意図を持って有料で見に来るもので、テレビやCMとは異なる。
作品と個人は別だと考え、今回は作品を守るという判断をした」。
そして吉永小百合さん
「伊勢谷さんとはお互いの思いをぶつけていいシーンが撮れたと思い、報道を聞いて残念に思いました。
事実については分からないところもありますが、なんとか乗り越えて撮影の現場に帰ってきてほしい」
9月12日
新橋―横浜間の鉄道開通式が行われた。 1872(明治5)年
この日、午前10時、天皇を乗せた10両の汽車は新橋を出発し、11時ぴったりに横浜駅に着いた。
横浜駅で開通を祝う儀式を終えて、天皇は12時に折返し1時に新橋にもどった。
ここでも横浜と同じように開通式を行ない日本最初の鉄道の開通を祝った。
翌日からの時刻表をみると、汽車は1日上下とも9本あり、新橋―横浜間を53分で走った。
停車駅は、新橋・品川・川崎・鶴見・横浜であった。
新橋―横浜間の運賃は、上・中・下にわかれ、それぞれ1両(りょう)2朱(しゅ)、3分(ぶ)、1分2朱で12歳未満は半額、4歳未満はただであった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「日本最初の鉄道」(動画 1分11秒)
チコちゃんに叱られる「▽救急車のピーポー▽レストランの氷▽山手線」
の中でも鉄道開業当時のことが紹介されていました。
『Story日本の歴史 近・現代史編』より「日本の鉄道の歩み」を転記しますφ(..)日本の鉄道の歩み
鉄道のあけぼの
欧米諸国の遅れて近代の扉を開いた明治の日本では、鉄道は単にヒトとモノの新しい輸送手段として移動時間を短縮させただけでなく、人々の生活空間までも拡大させ資本主義の発達に貢献した。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年) 日本の鉄道が横浜・新橋間(1872年)、神戸・大阪間(74年)更に京都間(77年)に建設されたのは興味深い。
これらは海外への開港場と人口の多い消費都市とを結んでいる。
当時は建設技術、車両、レール、石炭など多くをイギリスの技術や輸入に頼っていた(開拓中心の北海道はアメリカに依頼した)。
イギリスの望む織物などの製品の市場と生糸(きいと)などの輸入原料を運ぶ役割が鉄道には初めから課せられていた。
その後、生糸や繭(まゆ)の産地と直結する上野・高崎(たかさき)間(現在の高崎線)が作られ、翌85年には積替えなしに鉄道のみで生糸を横浜へ直送するための赤羽(あかばね)・品川間(現在の山手線の一部)が完成した。
山手線は貨物から旅客輸送へと大変貌を遂げた路線でもある。
鉄道建設・経営にかかわる諸問題
明治初期に鉄道政策を担当した工部省(こうぶしょう<1870~85年>)は、高給のお雇い外国人を他省よりも大量に受け入れた(鉄道関係では74年の115人が最高)。
しかし工部大学校を設立し技術の習得に努め徐々にその数を減らしていく。
それは日本人機関士の誕生(79年)、日本人による京都・大津間逢坂(おうさか)山トンネル開削(かいさく<80年>)、客車(75年)や機関車(93年)の国産化などからも窺(うかが)える(単線でも衝突しないダイヤグラムによる運行編成はイギリスの秘密事項であったので遅れた)。
鉄道に関する知識がなかった当時は現在では考えられないことも起こった。
新橋・横浜間で開通の翌73年に窓から立小便をして罰せられた記録がある。
鉄道不誘致(ふゆうち)合戦も激しかった。
客を奪われる陸運、水運、鉄道開通により素通りされる宿場の反対も大きく、また、蒸気機関車の煤煙(ばいえん)は養鶏(ようけい)や農業に悪影響を与えると思われた。
現在、駅と街の中心が離れている所が多いのはその名残りでもある。
線路の幅(ゲージ)も懸案事項であった。
低予算で距離延長を優先する単線の狭軌(きょうき<1067ミリ>)を選んだことが将来の高速化と輸送力に支障を来たし、広軌(こうき<国際標準軌・1435ミリ>)への改軌や複線化計画を生む(1964年開通の新幹線は広軌)。
ただし主要幹線は1887年の私設鉄道条例により官設・民設共にゲージを統一したことがその後の輸送の一元化に役立った。
鉄道は日本よりインドの方がその営業距離も歴史も長いが、イギリスに営業や権利を委(ゆだ)ねた結果、ゲージが統一されず現在もなお輸送の障壁(しょうへき)となっている。
イギリスに遅れること約50年、技術は外国に仰(あお)いでも鉄道の建設や経営を外国資本に認めなかった大隈重信、伊藤博文や当時の鉄道官僚・井上勝(いのうえまさる)らの功績といえよう。
私鉄ブームと営業距離の拡大
本格的な私鉄会社として1881年に日本鉄道会社が華族を中心に設立され、83年に上野・熊谷(くまがや<翌年高崎>)間、91年に青森までが開通した(現在の東北本線)。
この成功で高額の金禄公債(きんろくこうさい)を所有している旧特権階級のとって鉄道会社への株式投資は(同時期の大阪紡績の成功による)紡績会社への出資と並ぶ人気となった。
投機目的の私鉄会社が多かったが、山陽・九州などの幹線の建設も実際進んだ。
官設の東京・神戸間が中山道から東海道経由に変更されて全通した89年には、私鉄が官設の営業距離を上回る。
平行する区間では競争も激しく、名古屋・大阪間では1902~04年にわたって私鉄の関西鉄道と官設とが運賃値下げや駅弁配布などのサービス競争を展開した。
日露戦争と鉄道の国有化
日露戦争においても大陸への兵員輸送で貢献した鉄道はその役割を再認識され、1906年の鉄道国有法により北海道炭礦(たんこう)、関西、山陽、九州、日本鉄道など主要17幹線私鉄が07年までに国家に買収された。
私鉄との営業距離は逆転し総距離の9割を超える国有鉄道が成立する。
資本主義恐慌で中小私鉄では経営危機もあったが、鉄道は依然花形産業であった。
鉄道国有法は非常時の機密保持と軍事輸送の優先、輸送の一元化とそれに伴う低運賃化、外国人資本家の鉄道買収防止など軍事・経済上の理由が主であるが、設備投資の済んだ鉄道の収益性も当初は意識された。
国有化に伴い内閣直属の鉄道院が1908年に新設され、20年には鉄道省に昇格し日本に鉄道大臣が誕生した(43年に運輸通信省に改組)。
その後の日本の鉄道
鉄道は軽工業の時代には生糸、重工業の時代には北海道や筑豊(ちくほう)、常磐(じょうばん)などの炭坑に鉄道が敷かれ、石炭などを主とした貨物輸送で産業革命に貢献した。
流通革命が起こり伝統の河川(かせん)水運は急速に衰退していった。
大正時代に入ると政党政治の発展に伴い鉄道建設は政争の具となる。
支持基盤である地方の農村を中心に鉄道を誘致するための狭軌(または免許申請や敷設が簡易な軽便<けいべん>鉄道)による新線建設を重視する立憲政友会と、東京・下関間などの幹線や都市部を中心に広軌改築や複線化で輸送力強化をめざす憲政会や技術系鉄道官僚との対立が一例である。
中・小選挙区では地元に鉄道や駅を誘致することが代議士の功績となり、岩手県の大船渡(おおふなと)線のように対立候補の当落により鍋弦(なべつる)のように弧を描く路線も出現した。
まさに「我田引鉄(がでんいんてつ)」で、後に国鉄の赤字を拡大させることになる鉄道網が特に地方で拡大した。 一方都市部では、関西で小林一三(いちぞう)が現在の阪急沿線に郊外住宅やデパート、娯楽施設(宝塚温泉や遊園地、劇場など)を作り、私鉄多角化経営を展開した。
関東でも沿線の宅地化やラッシュと逆の下り線への学校の誘致、電力の供給が進んだ。
鉄道が町を作り都市の生活スタイルを変えた。
「モグラ電車」とよばれた東洋初の地下鉄が上野・浅草間(現在の銀座線)に開通したのは1927年のことである。
軍部の鉄道への介入も続いた。
師団・連隊、軍港など軍都(ぐんと)への鉄道建設は優先され、ダイヤ編成の干渉や私鉄にも非常時の軍事輸送の優先使用を義務づけた。
昭和戦前期の国家総動員体制では、陸運統制令により再び経済・軍事目的で私鉄の国家買収や統廃合・不要線の休業が行なわれた。
1906年に設立された半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄<まんてつ>)や韓国併合後の朝鮮半島を縦貫する総督府(そうとくふ)鉄道との関連にも注目したい。
日露戦争後には東京→下関(船)→釜山(ふざん)→京城(けいじょう<現ソウル>)→(鴨緑江<おうりょくこう>)・安東(あんとう)→奉天(ほうてん)→満鉄→東清(とうしん)・シベリア鉄道経由でヨーロッパへという大陸横断国際切符も発売された。
満鉄と朝鮮半島内は同じ広軌であるが、長春(ちょうしゅん)以北はロシアのゲージ(1524ミリ)で直通運転は出来ない。
ポーツマス条約で日本が旅順口(りょじゅんこう)・大連(だいれん)・長春間の権利を獲得すると、ロシアの南下を防ぐため再び広軌に改軌したのである(後に満鉄は満州国内を広軌に統一した)。
戦後のモータリゼーションの進展で鉄道は斜陽化し、経営の抜本的改善を期待され、日本国有鉄道(国鉄)は1987年、鉄道国有法とは逆に分割・民営化された。
しかし安全・大量・正確・低公害などで鉄道は再評価され、新幹線は延長し、各鉄道会社の経営努力も赤字ながら実を結びつつある。
鉄道開業以来まもなく130年、近代国家の歴史は鉄道と共に歩んだ歴史でもあった。
(『Story日本の歴史 近・現代史編』日本史教育研究会編 山川出版社 2000年)