2020年9月29日火曜日

秋晴れで

今朝も秋晴れでひんやりしていました。
いつも5時前に起きていて、戸を開けて空気の入れ替えをするのですが
今朝は、外の空気は冷たいだろうと止めました(^^ゞ

29日も一日の気温差大 羽織るもの一枚持って」(えりの気象日記 9月28日)
内田樹さんのTwitter

恫喝の専門家は相手がどれだけ多くても、中の一人にまっすぐ詰め寄って、その一人だけを脅しつけます。
周りの人たちは「よかった、自分じゃなかった・・・」とほっとして、犠牲者ひとりを取り残してじりじり後ずさりする。
だから「名指しで個人攻撃」は有効なのです。
たいした技術です。

ぽろりペトリさんのTwitter

まだ寝返りもしない頃に「子供が泣くとご飯とかお風呂とか落ち着いて出来なくて…」って
小児科の先生に愚痴ったら
「えっ、なんで?泣いてる時は100%生きてるから安心してゆっくり飯食えよ」って言われたのを思い出すと今でもふふっとなる。
でもあの頃は本当にいっぱいいっぱいだったんだよなあ。


赤ん坊が泣くのは「100%生きてる」と思える社会であってほしいですね。
9月29日
 初の平民宰相原敬(はらたかし)内閣が成立した。 1918(大正7)年

 米騒動の責任をとって総辞職した寺内(てらうち)内閣にかわって、天皇から組閣の命令を受けた原敬は、すぐに大臣を選んで、この日、親任式にのぞんだ。
原内閣を強く推(お)したのは、西園寺公望(さいおんじきんもち)だった。
彼は再出馬の要請を固辞し、そのかわりに原を推せんしたのである。
 原は前に西園寺内閣の内務大臣をしていた。
元老(げんろう)たちは平民である原の組閣に反対したが、西園寺に説得されて了承した。
 原内閣は日本で初めての平民宰相内閣であるとともに、陸海外三相以外の大臣がみな立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の党員で、日本で初めてのほぼ完全な政党内閣でもあった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
大正デモクラシー」(中学・高校 1分45秒)

日本の歴史22 政党政治と天皇』より「原内閣の成立」を転記しますφ(..)
第三章 原敬首相の信念――「秩序」の再生と漸進的改革
  1 政党政治と協調外交の成立
原内閣の成立


 衆議院第一党の立憲政友会総裁の原敬(はらたかし)は、1918年(大正7)8月に米騒動が本格化した際には、8月7日の夜行列車で盛岡市に帰省していた。
これは、18日に予定された政友会東北大会(札幌市)に出席するためでもあった。
原は15日の日記に、先頃より米価暴騰のため各地で騒動があり、軍隊の出動まであったと記し、はじめて米騒動に注目した。
同日に、政友会は東北大会を見合わせることにした。
原は盛岡に止まり、新聞で各地の状況を観察した。
手紙や電報などによって、種々の情報が原のもとに届けられた。
62歳の原は、長年待ち望んだ政権の足音が近づくのを感じ取っていた。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)
 伊藤博文(いとうひろぶみ)首相の下で逓信(ていしん)大臣としてはじめて入閣した頃や、西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の内務大臣を2度務めた日露戦争後の頃に比べると、原の体力の衰えは目に見えていた。
しかし、松田正久(まつだまさひさ)が4年前に亡くなって以降、政友会は原の意のままに動くようになっていたし、政治の間合いの取り方には凄味(すごみ)が増し、気力には自信があった。
 8月20日は、横田千之助(よこたせんのすけ)幹事長が、盛岡の原を訪れた。
1870年(明治3)、栃木県に生まれた横田は、原より14歳若かった。
彼は自由党の実力者の星亨(ほしとおる)の書生(しょせい)となり、苦学して弁護士となって身を起こした人物で、その鋭利な才能を生かして、当選3回ながら、1年前から幹事長になっていた。
政友会を含め、この頃の政党では、党の総務委員は閣僚クラスにあたり、幹事長はその一歩手前のポストとして、総裁を助けて党の運営を行っていた。
 横田はすでに元老筆頭の山県有朋(やまがたありとも)に会見し、その意向を察知していた。
山県は米騒動を憂慮し、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の先が長くないとみていること、しかし後継者に困っていること、原を首相とする政党内閣を作りたいとは思っていないこと、寺内内閣の軍備拡張計画が不十分であることをかなり不満に感じていることなどである。
原は横田の話を聞いて、寺内内閣がすみやかに辞任するのであれば荒療治しないが、そうでないなら東京に戻り、政友会として政府の責任を追及することを決意した。
そこで政友会幹部が原の早い帰京を求めていたにもかかわらず、当面は盛岡に滞在して様子を見ることにした。
 原は、寺内首相が辞任を決意したという情報を、政友会少壮代議士小泉策太郎(こいずみさくたろう<静岡県選出、当選3回>)等から、9月1日から2日にかけて受け取った。
小泉は、8月30日に山県と3時間近く会見ができ、その結果、寺内の辞意のみならず、第1次世界大戦に本格的に参戦していない日本の武器が、およそ10年も時代後れとなっているにもかかわらず、寺内が積極的に対応しないこと等に山県が不平を持っていることを確信していた(原宛小泉策太郎書状、1918年9月1日、『原敬関係文書』『原敬日記』)。
 このような状況を確認した原は、9月3日夕刻、盛岡発の列車に乗り、4日午前6時に上野駅(東京)に着いた。
東京では原は情報を収集しながら、寺内内閣の辞職と自らに組閣の命(めい)があるのを待った。
ところが、山県の策略により21日に参内した元老西園寺公望は、突然、大正天皇からの覚書(おぼえがき)のような書類を下付されて、組閣を命じられる。
これは、政党内閣である原内閣を成立させたくないという、山県の最後のあがきであった。
 この書類は、正式な勅語(ちょくご)または御沙汰書(ごさたしょ)のようなものでもなく、先例はない。
二日後、山県は原に、天皇が先年病気をして以来、こみ入ったことを行うことは困難と思われるので、覚書を差し上げて、その趣旨を西園寺に口頭で伝える手筈にしておいたのに、手違いで、天皇は西園寺に渡してしまった、と説明した。
いずれにしても、寺内内閣期の山県に対する枢密院議長の辞任勧告問題と同様に、時折、大正天皇は配慮した政治行動がとれなくなっていた。
 9月25日、西園寺は組閣の命を辞退し、大正天皇からの後任についての下問(かもん)に対し、原を推薦した。
西園寺は山県ら元老にも下問があるように申し上げることも忘れなかった。
西園寺は退出後、元老の松方正義(まつかたまさよし)内大臣の了解も得た。
また山県にも事情を説明した。
こうして、政友会内閣を組閣する流れはほぼ確実となった。
9月27日、原は組閣の命を天皇から受け、29日、はじめての本格的政党内閣として、政友会を与党とする内閣を組織した。
人選の大きな特色は、当時の慣例に従い、陸・海軍大臣と外務大臣は政党員ではなかったが、左のように、その他の閣僚は政党員で、外相を含めて原が主導権を握って選定したことである。
原敬・首相兼司法大臣

内田康哉(うちだやすや)・外務大臣(原は、外交調査会で原のシベリア出兵慎重論に同調してきた牧野伸顕<まきののぶあき>〔薩派、元外相〕を不本意であるが外相にしようと考えていたが、牧野が辞退したので、原が本来希望していた内田を選んだ)

床次竹二郎(とこなみたけじろう)・内務大臣兼鉄道院総裁(元内務官僚)

高橋是清(たかはしこれきよ)・大蔵大臣(元日銀総裁、山本内閣の蔵相)

山本達雄(やまもとたつお)・農商務大臣(元日銀総裁、山本内閣の農商相)

野田卯太郎(のだうたろう)・逓信大臣

中橋徳五郎(なかはしとくごろう)・文部大臣

田中義一(たなかぎいち)・陸軍大臣(山県の推挙)

加藤友三郎(かとうともさぶろう)・海軍大臣(留任)
 日露戦争後に原が進めてきた、官僚の中の有能な人物を政友会に入党させ、政権担当政党として政友会を強化する路線は、政友会を与党とした第一次山本内閣を経て、この原内閣で本格的に花開いた。 
 ジャーナリズムは、第一次護憲運動を経て、第二次大隈内閣成立以降、政友会と同志会の二大政党が存立するようになったので、政党政治が望ましいとの論調を強めるようになっていた。
そこで、原内閣の誕生を政党内閣として歓迎した。
なお原は、この組閣の経過からわかるように、山県ら山県系官僚閥と連携して政党内閣を維持する方針であった。
後に述べるように、原は連携しながら、しだいに主導権を確立して首相権限を強化していったのである。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)
昨日は、車検で代車が来るのを待っていました。
高齢になるのにしたがって今までと違う車になると
脳の柔軟性も衰えて操作に手間取ることが多くなりました。
新しい車は馴れると便利なんだけど、馴れるまでが大変。
水曜日に車が帰ってくるので、それまで慎重に運転しないと(^^;
今朝の父の一枚です(^^)v
青空で柿の実の色ががだんだんと濃くなってきました。