2020年9月18日金曜日

風が吹くのだけど…

今朝は、花を写すのに困るほど風が吹いていたのですが
生温かい風で気分が悪くなりそうでした…
雨も予報より早く降りそうだったので早めに帰りました。
高齢者を優先していただけるのありがたいのですが…

日本小児科医会の峯眞人理事は
「インフルエンザは子どもの間で感染が広がりやすく、基礎疾患がある子などは優先して接種すべきだ。
接種を希望する人が増えれば、子どもにワクチンが行き届かないおそれもあり、本当に必要な場合は来月前半から接種を始めてほしい」
と話しています。


インフルワクチン「子どもへの接種 一律に遅らせないで」〟(NHK)
9月18日
 正長(しょうちょう)の土一揆(つちいっき)がおこった。 1428(正長元)年

 「今朝、ここ醍醐(だいご)の百姓らが徳政を号して蜂起(ほうき)し、あちこちで借用証書などを持ち出してことごとく焼いてしまったという」と、京都醍醐寺の座主(ざす)はこの日の日記に書いている。
この年8月、土一揆は近江国から始まり、京都、奈良にひろまり翌年まで続いた。
奈良の大乗院門跡尋尊(だいじょういんもんぜき じんそん)ものちに、この土一揆を「日本始まって以来の土民の蜂起である、亡国のもとだ」と記している。
徳政は負債を破棄(はき)し、売却した土地をもとの持主にかえすことなどを意味した。
この土一揆で各地に徳政が実施された。
大和の柳生(やぎゅう)には「正長元年以後この地域に負債はない」と刻まれた大きな自然石がある。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
一揆といえば江戸時代の百姓一揆を思いうかべるのですが、
一揆の原理』より「荘家の一揆・土一揆・国人一揆」を転記しますφ(..)
第Ⅰ部 第2章 中世こそが一揆の黄金時代
 荘家の一揆・土一揆・国人一揆

 一揆が禁止されていたか否か。
この点で中世社会は近世社会と180度異なる。
中世においては、一揆は社会的に認められていた。
だから一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称していた。
(『一揆の原理』呉座勇一 ちくま学芸文庫 2015年)
 また江戸時代には「一揆の参加者は百姓である」という社会通念があった。
実際、江戸時代の一揆イコール百姓一揆であり、他の一揆はない。
ところが中世の場合、百姓だけが一揆を結んだわけではない。
武士も僧侶も一揆を結んだのである。
公家が「一揆」を自称した例は残念ながら知らないが、公家の世界でも一揆的な結合は見いだせる。
 近世の一揆は百姓一揆オンリーだが、中世の一揆は多種多様である。
あまりに多すぎて分類するのも結構たいへんなのだが、かいつまんでしょうかいしよう。
 まず百姓が結成する一揆であるが、「荘家(しょうけ)の一揆」というタイプが有名である。
これは荘園領主に対して年貢の減額や代官の更迭などを請願する一揆で、江戸時代の百姓一揆と性格が似ている。
ただし、荘園領主に訴えるという性質上、荘園単位で一揆を結んでいる。
たとえば京都の東寺(とうじ<「教王(きょうおう)護国寺」ともいう>)の荘園である若狭国太良荘(わかさのくにたらのしょう<現在の福井県小浜(おばま)市)だったら、「太良荘御百姓等」が一揆を結んで「東寺 御公文所(おんくもんじょう)」に要求を出す、という形をとる。
 京都の東寺が若狭国に荘園を持っていることからも分かるように、荘園領主と荘園は遠く離れていることが多い。
そこで荘園領主は荘園を治めるために、荘園の現地に管理事務所を作り、そこに代官を置く。
この事務所のことを「荘家」というのだが、転じて荘園現地全体のことも「荘家」と呼ばれた。
そのため荘園の百姓たちが寄り集まって結ぶ一揆を指して「荘家の一揆」と呼ぶのである。
 次に「土(つち)一揆」。
酒屋や土倉などの金融業者を襲撃して幕府に徳政令を出させることで借金をチャラにする、というタイプの一揆、つまり徳政一揆を指すことが多いが、それ以外の一揆を指すこともある(後述)。
教科書では正長(しょうちょう)の土一揆(1428年)が特筆されるが、その後も土一揆は多発している。
最初のピークは1450年代から60年代にかけての20年間で、この時期に計8回の土一揆が京都を襲っている。
3年に1回は発生するペースだ。
 昔は、土一揆は荘家の一揆の巨大バージョンと考えられていた。
一つの荘園に収まらない広域的な農民一揆、という理解である。
興福寺(こうふくじ)の僧侶である大乗院尋尊(だいじょういん じんそん)も、正長の土一揆について「土民蜂起す」と叙述しており(『大乗院日記目録』)、「土一揆」という言葉の字面を見る限りでは、土一揆は土民、つまり百姓の一揆である、そう考えたくなる。
 だが近年は、百姓だけの一揆と見るのは難しいという意見が有力である。
武士や牢人(ろうにん)なども参加し、彼らが「大将」として土一揆を指揮していたケースが目立つのだ。
ちなみに江戸時代初期に勃発した島原の乱でも、大名に仕えていたものの大名家の倒産・リストラにより職を失った武士たち、つまり牢人が多数参加していた。
このため神田千里(かんだちさと)氏は島原の乱を「最後の土一揆」と評価している(『島原の乱』中央公論新社、2005年)。
 古い研究では土一揆と百姓一揆の違いが意識されなかった。
しかし、武士と百姓が混在している土一揆は、「天下の御百姓」と称し「百姓を救うのは統治者である武士の義務」と訴えた近世の百姓一揆とは区別すべきだろう。
 武士だけで構成されている一揆もある。
だが、少々困ったことがある。
ネーミングである。
「荘家の一揆」や「土一揆」という言葉は同時代史料に登場するのだが、武士の一揆が当時どのような名前で呼ばれていたのか、よく分からないのである。
 仕方がないので、本書では研究者が便宜的に使っている「国人(こくじん)一揆」という造語を採用する。
「国人」は南北朝・室町時代の史料でよく見られる言葉で、本来的には「その国の人」という意味を持つ。
「安芸(あき)国人」とか「美濃(みの)国人」という風に使われた。
とは言え、安芸国に住んでいる人がみな「安芸国人」と呼ばれるわけではなく、基本的には武士層を指す。
このため、武士の一揆は「国人一揆」と名付けられたのだ。
 この研究用語には批判もあって、「領主一揆」という言葉を提案する人もいる。
ただ本書では、そういう細かい議論には立ち入らないので、一番ポピュラーで教科書にも載っている「国人一揆」という言葉で通したい。
この「国人一揆」の検討は本書のメインなので、詳しい説明は次章以降に譲る。
(『一揆の原理』呉座勇一 ちくま学芸文庫 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)v
まだ咲いていないなと思っていたら、父は咲いているのを見つけていました。
 
18日も雨 局地的に激しい雨のおそれ」(えりの気象日記 9月17日)
柳生を歩いていた時に「ほうそう地蔵」に出会いました(2009年9月13日)
そこには、こんな解説が書かれていました。
その個所は赤の矢印の所だと思いますが、風化が激しくて読めませんでした。

史跡 正長元年柳生徳政碑(しょうちょうがんねんやぎゅうとくせいひ)
              昭和58年5月19日指定
元応元年(1319)十一月の銘をもつ「ほうそう地蔵」の向って右下、長方形の枠取りの中に
「正長元年ヨリ/サキ者カンヘ四カン/カウニヲ井メアル/ヘカラス」
と刻む。
 大正14年に地元柳生町の研究者杉田定一氏が正長元年(1428)の徳政を記念する碑文とし、
「正長元年より先は神戸四箇郷(かんべしかごう<春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地(おうじ)>)に負目(おいめ)あるばからず」
とその文意が現在解釈されている。
 石刻の時期については諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について民衆が刻み残した資料としてその価値は高い。
  奈良市教育委員会

柳生ロマンの里博物館 イラストMAP」(pdf)