2020年9月17日木曜日

まだまだ…

昨日は、だいぶ涼しくなったと喜んだのですが
今朝は、曇り空で蒸し暑かったです。
まだまだ残暑は続きそうですね(^-^;

今日のような蒸し暑い日には
発病前だったら旅行先などで地ビールを飲むのが楽しみだった!

高野町産ビール 宿坊で販売開始」(和歌山 NHK)
般若湯という業界用語?がありました(^_-)
オンブバッタに乗っかったのはアオモンイトトンボ
オンブバッタは、何の反応もなくジ~ッとしていました(*´▽`*)
90㎜マクロレンズでは、遠かったのだけど
望遠レンズを首にぶら下げるのにはまだまだ暑いです(^-^;
Agnes Chow 周庭さんからの質問

【新内閣の報道について】
日本のテレビを見てよく思うんだけど、「好物はトンカツ」「バスケ大好き」「元東大ボクシング部」などの情報は、本当に必要ですか?
過去の言論やスタンスの方が重要じゃないですか。
(香港メディアはあまりこういう風に政府官僚を紹介しないから、少し気になりました。)
9月17日
 松平定信(まつだいらさだのぶ)が全国の大名に米を貯えることを命じた。 1789(寛政元)年

 天明の大飢饉の直後に老中として登場した松平定信は、この日、全国の諸大名に次のような囲米(かこいまい)を命じた。
 「このところ幕府の出費が多い上に、大飢饉になってしまい、飢えた人々を救うのに苦労した。諸藩もたいへんだろうが、万一のそなえのために、1万石について50石の割合で、領内の村々に米を貯えるように。」
 囲米は、幕府や旗本の領地でも実施され、江戸や大坂をはじめ全国に社倉(しゃそう)がつくられた。
「こうして米を貯えさせておけば、百姓一揆や打ちこわしは防げるだろう」と定信は期待したのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
今年は、新型コロナで開催できなかったけど
400年の歴史を持つ七夕まつりには当時の人々の願いがあったのです。
仙台七夕まつり」(動画 1分2秒)

江戸の災害史』より天明の飢饉などについて転記しますφ(..)
第3章 「公共」をめぐるせめぎあい
 天明の飢饉始まる


 天明2年(1782)、東北地方では冷害による凶作の気配が広がり始めていた。
翌天明3年には浅間山の大噴火があり、火山灰が空を覆って寒冷な気候に拍車をかけた。
夏にも穀物は実らず、7月ころから各地で米の安売りを求める強訴や打ちこわしが起こり始める。
(『江戸の災害史』倉地克直 中公新書 2016年)
 宝暦の飢饉で大きな被害の出た仙台藩では、その後も明和2年(1765)、安永3年(1774)、同7年と断続的に不作が続き、藩財政の窮乏は一向に改善しなかった。
天明3年9月19日、仙台城下の藩士安倍清右衛門(あべせいえもん)の屋敷が打ちこわされた。
安倍は、もともと城下の木綿商人であったが、藩に献金して「御取上士(おとりあげし)」(いわゆる献金侍)となり、のちに400石を与えられ、藩財政の出納をする「出入司(しゅつにゅうづかさ)」を務めた。
たびたびの献金額は総計20万両にものぼったという。
安倍は藩の買米・廻米(かいまい)政策や囲籾の江戸売却にも関わっており、領内で買い上げた米を隠し置いているという噂もあった。
米不足や米高直(こうじき)の元凶としてやり玉にあげられたのだ。
しかし、その後も米価は下がることなく、天明3年7月に1升50文であったものが、翌4年5月には350文に達している。
 後手に回った藩では、飢饉に対してほとんど打つ手がなかった。
藩主正室からの「御恵(おめぐみ)金」1000両を元手に、天明4年1月になって、2月末からは広瀬(ひろせ)川の河原で施粥が細々と続けられた。
仙台藩領の餓死者は、14、5万人とも20万人とも言われる〔仙台市史編さん委員会2004〕。
 宝暦度には津留(つどめ)を行なって餓死の拡大をくいとめた弘前藩では、その後藩財政が悪化し、政権が交代した。
新しい家老らは商人と結んで廻米を増加させるなど積極財政策をとった。
天明3年も例年通りの廻米を行なった。
しかし穀物は全く実らなかったため、領内は深刻な食料不足に陥った。
弘前や青森には飢人が流入し、放火や盗賊が相次いだ。
領内の餓死者は8万人から10万人にのぼったとみられている。
 西日本も事態は深刻であった。
美作国では天明元年・2年と長雨などの気候不順が続き、稲も木綿も不作であった。
勝南(しょうなん)郡岩見田(いわみだ)村の赤堀(あかほり)氏が書いた「日記帳」がある【写真11(省略)】。
これも村の年代記だが、それによれば、美作国東部の在町である美作倉敷では平年なら1石につき40匁ほどの米価が、天明2年の末には70匁になった。
天明3年は春になっても気温があがらず、5月に雹(ひょう)が降り、煙草や木綿に被害が出る。
5月26日になって、津山城下町で4軒の商家が打ちこわされた。
米の売り惜しみが原因のようだった。
首謀者10人あまりが捕えられたが、4軒のうち2軒の商家も籠舎(ろうしゃ)になった。
その後、町の富裕者が米を供出して、困窮者への施行が行なわれた。
 6月5日、美作倉敷で富裕者を打ちこわすとの立札が立てられた。
代官が出張して米商人を50日間の閉門に処したので、打ちこわしはなかった。
しかし、凶作は明らかで、米価は年末には95匁に、あけて天明4年正月には100匁を超えた。
食を求めて流浪する者が増える。
倉敷に近い岩見田村にも、1日に80人も飢人が押し寄せるようになった。
赤堀家では粥を炊いて施行したが、米も麦も尽き果て、その後は稗を炊いて振る舞った。
飢饉後の対策
 天明8年(1788)正月晦日に京都で大火事が起きる。
明けがた建仁寺(けんにんじ)あたりから出た火は、大風にあおられて所々に飛び火し、禁裏御所や二条城をはじめ洛中の約8割が焼失した。
焼け出された人は約20万人とも言われる大火となった。
前年後手(ごて)に回った幕府は、早速復興に乗り出し、町中に対して施米3000俵、貸銀60貫目を施した。
内裏についても旧来の規模を超える復古的規格での再建に取りかかり、朝廷や京都町民の支持を得ようと努めた。
さらに、米相場を高騰させた罪で処罰された商人の闕所金(けっしょきん)2万2000両を原資に社倉制度を設け、これを「永続の仕法」とした。
 囲籾については、備蓄があったところでも天明の飢饉のあいだにすべて放出されてしまっただろう。
寛政元年(1789)9月、幕府は万石以上の大名に対して、高1万石につき50石の割合で来年より5年間囲籾することを命じた。
宝暦年間(1751~64)には1か年に250石としていたものを、飢饉後の厳しさを考えて、同じ量を5か年賦で備蓄しろというのだ。
面々がその領地に備蓄すれば、それがそのまま「天下の御備」になるのだから、(将軍も)「御安心」だという(『御触書天保集成』)。
飢饉時には、藩の自力の対応に頼ろうとする「公儀」の姿勢が見えている。
 江戸では寛政3年12月から七分積金(しちぶつみきん)の制度が始まる(『江戸町触集成』)。
これは、町入用の節約を行い、それによって減少した金額のうち7割を救恤(きゅうじゅつ)用に積み立てる制度で、年2万両を超える額が積み立てられた。
町会所ではこれに「公儀」から下賜された1万両を差し加えて囲籾を行った。
さらに囲籾の費用の余金を積み立てて、災害のときなどに困窮地主に低利で貸し付けたり、借家の難渋者の救済金などに使用した〔吉田伸之『近世巨大都市の社会構造』東京大学出版会 1991〕。
 宝暦期から天明期にかけては、災害が続くなかで、18世紀前半に登場した救済のシステムが、試行錯誤しながら深化したと言えるだろう。
「公儀」も藩も地域も村も、その救済システムのなかで役割を果たすようになるが、同時にそこでは相互のせめぎあいも目立つようになる。
そうしたなかで、相互扶助の「公共」意識が、まがりなりにも社会のなかへ次第に浸透していった。
(『江戸の災害史』倉地克直 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v

彼岸花は「死人花」とか、家に飾ると火事になるとか縁起でもない花のように言われますが
それは、飢饉のときなどのために救荒(きゅうこう)植物として採らないようにするためです。

ヒガンバナ」(薬草園の世界 東邦大学)