今朝は、青空が広がっていて暑かったけど
遠く離れていても台風の影響がもうじきあるだろな…
父が昨日も田舎に電話をして様子を聞いていました。
「台風10号 6日は高波警戒」(えりの気象日記 9月4日)安田菜津紀さんのTwitterに
総裁選のニュースを見ていると、登場する人々は全員男性で、まるでこの世界に女性が存在しないかのような光景ばかり。
WOWOWの連載、今回は台湾画『幸福路のチー』です。
立法委員(国会議員)の女性比率が4割を超え、総統も女性という台湾から、学びたいことも書きました。
安田菜津紀の記事
〝 「女性はこうあるべき」という押し付けについて、ある台湾映画から考える……〟
WOWOWを見ることができないのだけど、台湾には学ぶことが多いよね!
中国が、脅しをかけてくるのに屈しない蔡英文総統の姿が凛々しい。
「幸福路のチー」(WOWOW)1905(明治38)年 9月5日に日露講和反対の民衆によって日比谷焼打ち事件がおきました。
『日本の歴史22 大日本帝国の試練』より「日比谷焼打ち事件」を転記しますφ(..)
勝利の悲哀
日比谷焼打ち事件
講和の話が政界と軍部の上層でひそかに取り交わされた直後の38年4月中旬、桂首相から意見をきかれて、「このうえ戦争を継続するも何の利益なし」と考え、個人としては講和に賛成した原敬は、その日記につぎのように書いた。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年) 「去りながら政友会の立場としては別に一考を要す、如何なる条件にて戦争休止するも国民多数は満足せず、政友会は国民の声に雷同するの外なし、しかし国家としては斯(かく)の如き事態を生ずるは不利なりと云いたるに、桂は今日の状態は丁度貴見の通りなり、平和を克服したるならばきっと国民は其条件に満足せざるべし、故に自分一身は犠牲に供する覚悟なり、と云えり」
講和の条件は、当初の見込みよりいっそう不利であったから、国民の不満もまたそれだけ大きかった。 講和の受諾は桂内閣の指令であることがわかると、国民の非難は猛然と政府に向けられた。
9月1日、『大阪朝日新聞』は、「天皇陛下に和議の破棄を命じ給わんことを請い奉る」と題する一文をかかげ、また社説「閣臣元老の責任を問うて国民に激す」では、「然るに何事ぞ今回の講和条件。主客殆ど転倒し、彼和を請うにあらずして、我和を請うに至りたり」と論じた。
同じ1日、『万朝報(よろずちょうほう)』は「弔旗を以て迎えよ」と題し、「彼の帰朝の日は市民一切閉戸して顔を彼に背けよ」と叫んだ。
「国民と軍隊とは全く桂内閣及び小村全権に売られたり」(『報知新聞』9月3日)と攻撃するものもある。
戦争熱への刺激がききすぎて、もはや政府のコントロールはきかなかったのである。
9月3日には大阪公会堂で市民大会が開かれ、閣員・元老の処決と、講和条約破棄・戦争継続を決議したが、3日から4日にかけて全国各地で同じような集会が開かれ、同じような決議がなされた。
全国騒然となり、志士たちは5日、東京日比谷公園で開かれる全国大会に参加すべくぞくぞく上京した。
この大会を主催したのは、頭山満(とうやまみつ)など黒龍会系の右翼壮士と河野広中(こうのひろなか)・小川平吉(おがわへいきち)ら野党同攻会の政治家たちで組織された、講和問題同志連合会であった。
警視庁はこの大会を禁止し、発起人たちを検束し、日比谷公園の入口は丸太で閉鎖して、市民の立入りを禁じた。
ぞくぞく集まる市民とのあいだは、一触即発の状態である。
公園閉鎖の処置が、市参事会の承認もへずにおこなわれたことに憤慨した参事会員が、先頭にたってこの柵をこえたのをきっかけに、群衆は公園に突入した。
その数3万――警察は数千という――と称せられる。
『朝日新聞』は「残炎(ざんえん)焼るが如く、黄塵(こうじん)燃ゆるが如し」と報じた。
河野広中は喚声のなかで推されて議長となり、つぎの決議を朗読した。
一、我が全権委員の議定せる講和条約は、戦勝の効果を没却し、君国の大事を誤りたるものと認む。
一、吾人は現内閣及全権委員をして、罪を上下に謝せしめ、且つ該条約をして不成立に終らしめんことを期す。
一、吾人は我が出征軍人の驀然(ばくぜん)奮進、以て敵軍を粉砕せんことを熱望す。
一、我が全権委員の議定せる講和条約は、戦勝の効果を没却し、君国の大事を誤りたるものと認む。
一、吾人は現内閣及全権委員をして、罪を上下に謝せしめ、且つ該条約をして不成立に終らしめんことを期す。
一、吾人は我が出征軍人の驀然(ばくぜん)奮進、以て敵軍を粉砕せんことを熱望す。 興奮した群衆は、日ごろうらんでいた交番をつぎつぎに焼き、つぎに平和回復に積極的だったキリスト教会も焼いた。
東京は翌6日にかけて無政府状態となった。
政府は6日、ついに戒厳令をしいた。
この間に焼き払われたのは、警察署2、交番219、教会13、民家53、電車15台であった。
電車が焼かれたのは車夫の生活をおびやかしていたからであり、この騒擾(そうじょう)事件で起訴されたのは、職人・人足・職工など、いわゆる下層の人民が大部分であった。
戦争中、かれらの多くは戦争景気のおこぼれにあずかれなかったうえ、38年の米作は不作で、米価はあがり、生活は苦しかった。
講和になって償金でもどっと入れば景気も好くなるかと、それを頼みにしていたのが駄目とわかって、日ごろの鬱憤が爆発したわけである。 だが、この民衆のエネルギーはその噴出の方向をまちがえた。
世論を指導したのが戦争継続派であったため、一方で軍部を激励し、他方で鬱憤を感情的に爆発させるに終わってしまった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)