2020年9月22日火曜日

秋分の日

今日は、秋分の日で、彼岸の中日。
仏教に関わる行事だから仏教を信仰する国々で行われていると思ってしまうのですが
彼岸会(ひがんえ)
 春分と秋分の日を中日(ちゅうにち)として前後3日、計7日の間に修される法会(ほうえ)
この行事は日本にのみ見られるもので、聖徳太子の頃より始まったともいわれるが、平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代に年中行事化した。
また在家の信者はこの間、寺参りや墓参りを行うのがならわしとなっている。
彼岸は悟りの岸(悟りの世界)という意味で、此岸(しがん)、すなわち迷いの岸(迷いの世界)に対する。
このため、彼岸会とは悟りの世界に向かう、仏道精進の行事とも解される。
また、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の日想観(にっそうかん)に由来し、春分と秋分に、西に沈む太陽を通して弥陀(みだ)の西方浄土(さいほうじょうど)を観じたことに由来するともいう。
それが日本の祖霊崇拝によって変容し、先祖供養の法要とか墓参りを意味するものとなり、日本独特の彼岸会となったとされる。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
今朝のNHKニュース おはよう日本で差別について特集していました。
ヘイトのピラミッドとして
「差別・排除、暴力・殺人、集団虐殺」があるのですが
差別につながるものとして「先入観・偏見、 先入観・偏見による行為」が挙げられていました。

アフリカ日本協議会 津山直子さんの話の中で
マイクロアグレッション(Microaggression:気づかないうちに、先入観や偏見で相手を傷つけたり、侮辱したりする言動)があったのですが、
これは私の中にもあると思っています。
ある方のTwitterで自分は差別をしたことがないと書かれていた方がありますが、
アフリカにルーツをもつ若者たちの話を聞いていると
自分も次のような壁があると思います。

先入観、ステレオタイプ、ほめてるつもり、偏見」の壁

そして当事者の側には、
あきらめ、目立たないようにしよう、疎外感」の壁があるようです。

その壁をなくすのにはどうすればいいのか
若者たちの座談会の中にヒントがあると思いました。
縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」(神澤秀明 国立科学博物館)

「日本人」という言葉を使ってヘイトをされる方がいますが
ご自身の遠い祖先が苦労して日本に渡ってきたことを意識の底にしまい込んでいると思います。
ヘイトをすることは祖先に唾を吐きかけるようなものだと思います。
9月22日
 渡辺崋山が相模国高座郡小園村にまち女を訪ねた。 1831(天保2)年

 三河田原(みかわたはら)藩の藩士であった洋学者渡辺崋山は、前藩主三宅康明(みやけやすあき)の弟友信(とものぶ)の命(めい)をひそかにうけて、弟子の高木梧庵(ごあん)と江戸をたち、この日小園(こその)村をたずね、25年ぶりにまち女(じょ)と再会した。
 むかしまち女はお銀さまという名で田原藩主の側室となり、江戸で友信を生んだ後、わけがあって翌年から実家にもどっていたのである。
 少年のころ江戸の三宅藩邸(はんてい)で、やさしく美しいお銀さまにかわいがられた崋山は、友信のかわりにこうしてその後の様子をみにきたのである。
貧しい百姓清蔵(せいぞう)の女房になっていた年をとったまち女と崋山は、ただただ涙にくれてことばもなかった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
寺子屋と塾」(動画 2分4秒)
寺子屋の様子を描いた絵は渡辺崋山の『一掃百態図
渡辺崋山について3月に放送された
日曜美術館「真を写す眼 渡辺崋山」でも紹介されていましたが、
幕末維新人物事典』より「渡辺崋山」を転記しますφ(..)
渡辺崋山――わたなべ・かざん
1793~1841(寛政5~天保12)
■出身地=江戸(東京) ■父=渡辺市郎兵衛定通
■母=栄 ■幼名=登 ■雅号=崋山・寓絵堂・全楽堂
■墓=愛知県渥美郡田原町・城宝寺

憂国の志に生きた天才画家
 渡辺崋山(登)は寛政5年(1793)9月16日、江戸・麹町(こうじまち)の1万2千石を領する田原藩(愛知県・渥美半島)三宅家・上屋敷の裏門長屋において生まれた。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
 父・市郎兵衛(いちろべえ)、母・栄(えい)の長男であったが、十人扶持(ぶち)という禄(ろく)で、一家は貧困にあえぎながら生きなければならなかった。
 崋山は6歳のとき一人で家の留守番をしていて、訪ねて来た客の名前をたずねるのを忘れてしまい、父が帰宅したとき似顔絵を描くと、ああそうか、とわかったという天才的な画才に恵まれていた。
 また、12歳のときには病床にあった父の薬を買いに出て、日本橋付近で備前(びぜん)藩主の行列の前を横切ってしまったことがあった。
同じ年ごろの若君であったが、崋山は供の者にさんざん殴られたり蹴(け)られたりして、その身分のちがいを思い知らされ、いまにこいつらに頭を下げさせてやると意を決して勉学に打ちこんだという。
 父は崋山の画才を信じて、貧困であったにもかかわらず白川芝山、金子金陵(かねこきんりょう)、谷文晁(たにぶんちょう)などの画家に習わせた。
 儒学は13歳から鷹見星皐(たかみせいこう)につき、のちに佐藤一斎(さとういっさい)や松崎慊堂(まつざきこうどう)について16歳のとき田原藩の近習(きんじゅう)に採用された。
給金四両一人口であった。
 20歳ごろから画料をもらえるようになり、しだいに画名が上がっていったが、南画に洋画の立体描写の手法をとり入れて花鳥山水、人物俳画、デッサンにも多くの名品を残した。
 やがて椿椿山(つばきちんざん)をはじめ福田半香(ふくだはんこう)、平井顕斎(ひらいけんさい)、永村茜山(せんざん)らの弟子が育ち、崋山自身が名作『鷹見泉石(たかみせんせき)像』(国宝)を残すことになる。
 そして、37歳のとき田原藩主・三宅家の家譜(かふ)の編纂(へんさん)を命じられ、天保3年(1832)40歳の5月には年寄(としより)職(家老)に進んで海防掛(かいぼうがかり)に任じられ、隠居であった三宅友信(みやけとものぶ)の御用掛(ごようがかり)を兼ねることになった。
 息子が田原藩主になる予定で、実務の場所から離れて悠々(ゆうゆう)と暮していた三宅友信の江戸・巣鴨(すがも)にあった下屋敷の家の八帖二間に蘭学の本が収集されていたことが、崋山の人生を決定的にかえた。
 この下屋敷に蘭書をもとめて島津斉彬(しまづなりあきら<薩摩藩世子(せいし)>)、松平内記(寄合衆<よりあいしゅう>)、下曾根金三郎(しもそねきんざぶろう<近習番>)、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)、羽倉簡堂(はぐらかんどう<代官>)、小関三英(おぜきさんえい<岸和田・医官>)、高野長英(たかのちょうえい<町医>)、佐久間象山(さくましょうざん<松代藩士>)などが集まって、蘭学をはじめ世界情勢や日本の将来について大いに語り合ったのである。
 はじめは月一回の集まりで、崋山はその世話係をつとめていたのだが、この「尚歯会(しょうしかい)」はやがて毎日のように会合がもたれるようになった。
そして、これによって崋山も蘭学に深入りすることになった。
      
 といっても、崋山はオランダ語の読み書きはできなかった。
通辞(つうじ<通訳>)を介してオランダ人から世界情勢を聞き、これを書きとめておいてまとめる形で、最初に高野長英、小関三英らとともに『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』をつくった。
外国の人物・地誌・風俗の本である。
 二冊目には、『鴃舌小記(げきぜつしょうき)』を書いた。
これは将軍・家慶(いえよし)に会ったオランダ商館長ニーマンのコメントをまとめたものであった。
 そして、高野長英は「尚歯会」のメンバーが語り合ったことを『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』として上梓(じょうし)して幕府当局から追われることになる。
 一方、崋山の藩政への関与だが、天保元年(1830)の倹約令(けんやくれい)のときには、藩士の家禄を全廃して職制に応じた扶持米(ふちまい)だけに削減するという思いきったことを行った。
 また、江戸詰め藩士は高く、国もとの藩士は安くと差をつけた。
国もとにいる者は非番の日は田畑を耕すことができるからという理由によってだが、これはずいぶん崋山を恨む者が出た。
 そして年寄職になった天保3年(1832)のころは、日本近海にしきりと外国船が出没したから、領内のあちこちに遠見番所(とおみばんしょ)を設け、砲台を築いたり各国の国旗を村々にくばるなどして、どの国の船が来たかを報告させるようにした。
 また、天保6、7、8年は飢饉の年であったあ、田原藩は天保6年(1835)に「報民倉」(穀物倉庫)を官民一体でつくって凶作をのりきった。
崋山は体調をくずしていたから、江戸から用人(ようにん)・真木重郎兵衛(まきじゅうろべえ)に連絡し、鈴木春山(すずきしゅんざん)、大蔵永常(おおくらながつね)などががんばった。
これによって田原藩は一人の餓死者も流民(るみん)も出さず、幕府に表彰されることになった。
 天保9年(1838)には、崋山は『慎機論(しんきろん)』を書いた。
 アジアを侵略しようとしている西欧諸国の状況と、憂国の思いを述べた本である。
 「世々騒乱の驕徒(きょうと)、海戦火技に長ずるをもってわが短にあたり、海運を妨げ不備をおびやかし、逸をもって労を攻めるときは、百事反房して手を措(お)くところなかるべし」
 卓見(たっけん)であったが、しかし、目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)はこれをみのがさなかった。
 幕府儒官・林述斎(はやしじゅっさい)の次男として生まれた耀蔵は蘭学に生理的嫌悪感を抱いており、江川太郎左衛門とともに浦賀一帯(神奈川県・三浦半島)を測量したとき、太郎左衛門がすぐれた測量地図をつくったことに、かねてから私怨(しえん)を抱いていた。
 それはそのまま「尚歯会」の会員に向けられて、崋山と高野長英ほか6名が逮捕され、小関三英は自殺することになった。
いわやる「蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)」である。
 そして、ここで『慎機論』が問題にされた。
この論文は書きはしたものの、未発表であったが、尚歯会会員・花井虎一にだけは読ませた。
 ところが、その花井が鳥居耀蔵のスパイとして内通していたから、崋山は逃げようがなかった。
天保10年(1839)5月に逮捕され、重罪に処されることが予想された。
 しかし、崋山の師・松崎慊堂が長さ2メートル半におよぶ「赦免建白書(しゃめんけんぱくしょ)」を書いて提出し、12月19日にようやく「在所において永蟄居(えいちっきょ)」という判決が下された。
 翌11年(1840)正月20日、田原城下に護送された崋山は家族とともに池ノ原の家に入った。
かってともに田原藩を飢饉の危機から救った大蔵永常が住んでいた家である。
 この家で崋山はひたすら絵を描き、田畑を耕し、論語や易経(えききょう)を読んですごし、その絵は弟子の福田半香らが江戸へ運んで売りさばいた。
その収入によって崋山を生活を助けようとしたのである。
 しかし、これは罪人にあるまじき不謹慎であり、その迷惑は藩主におよぶおそれがあるという噂が流れた。
田原藩士が流した噂であったが、かつて禄をけずられたことを怨(うら)んでいた者たちが流したのであったかもしれない。
 責任を感じた崋山は、天保12年(1841)10月11日、1年8ヵ月を暮した池ノ原の家で自刃(じじん)して果てた。
49歳であった。
 崋山は弟子の椿山にあてて遺書を書いているが「数年の後(私の死を)悲しんでくれる人があるでしょうか」と記している。
 また、死ぬ前に「不忠不孝渡邊登(わたなべのぼる)」という書を残した。
 儒者・岡本黄石(こうせき)が青年であったころに出会った崋山を評して、次のように述べている。
 「予(よ)が少壮(しょうそう)の時面会したる諸先輩のうち、体貌俊偉(たいぼうしゅんい)にして殊(こと)に立派なりしは、渡辺崋山と大塩後素(平八郎)との二人なり。誰が見ても大国の藩老なるべしとの感あらしむ。吾輩共に立ちて慚(はず)かしく思う程なりき。頼山陽(らいさんよう)は容貌野卑(やひ)にして思いしとは大いに違へり」
 藤田東湖(とうこ)もいう。
 「崋山は田原藩の大夫(たいふ)、人と為(な)り眉目清秀(びもくせいしゅう)、容貌灑落(しゃらく)、而(しこう)して忠孝は天性に根す。慨然(がいぜん)として憂国の志あり、一時の名士として信ぜらる」(『崋山墨画』跋文)
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
今朝の父の一枚です(^^)v
雲がいろいろ表情を変えていました。
父のリクエストで、印刷してあげると喜んでいました。
雲の写真は広角レンズで撮影したいですね!