2020年9月23日水曜日

季節の変わり目は…

夜明け前に腹痛で目が覚めました。
トイレに行くと排尿だけ…
血圧を測ると137と88だったのでリハビリ散歩に行くのをどうしようかと思ったけど
出かける前に計ると128と80に下がっていて体温も36度4分だったので出かけました。
帰ってきてから測ると127と80でした。

季節の変わり目はどうしても体調が不安定になります。
伊藤詩織さん、TIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる 大坂なおみ選手も〟(HUFFPOST 9月23日)
日本では、二次被害にあいながら東京地裁での民事裁判で勝訴を勝ち取られた。
まだ先は長いと思いますが、世界で認められたことは大きな力になると思います。

安田菜津紀さんのTwitterには

痴漢被害にあった方に対し、服装を咎めるような発言は絶えない。
それは、スカートの長さなどがさも痴漢被害の原因になっているかのような誤った事実を押しつけるし、
被害者の態度の問題に矮小化することで、加害の重さをぼやかしてしまう。
「イメージ」のみで性被害を語ること自体の加害性を考えたい。

岩波書店のTwitter

アルコール依存症は「否認の病」とも呼ばれ、当事者にとって自覚することが難しいとされています。
意志の問題ではなく、適切な治療が必要で、進行すると命に関わる深刻な病です。
気になる方は(ご家族、友人の方も)依存症専門病院や保健所、自助グループにご相談ください。

☞ http://iwnm.jp/270897

アルコールや薬物などの依存症へのマスコミの対応はひどいと思います。

病院ラジオ第4弾で「依存症治療病院編」を紹介してくれました。
ワイドショーでは、このような企画は無理なんだろうか?
9月23日
 「死の灰」を浴びた漁船員久保山愛吉(くぼやまあいきち)が死亡した。 1954(昭和29)年

 マーシャル群島のビキニ環礁(かんしょう)付近で「死の灰」を浴びた漁船員の一人、久保山愛吉が、この日死亡した。
半年前の3月1日の夜明け前、マグロ漁船第五福竜丸(ふくりゅうまる)は赤道近くで漁をしていた。
その時、水平線が日の出のように明るく輝き、しばらくしてから白い灰が降ってきた。
23名の船員たちは誰もそれが、アメリカの行なった水爆実験による「死の灰」とは気がつかなかった。
3日ぐらいしてから皮膚が黒ずんできた。
10日ほどたつと水ぶくれができ、髪の毛が抜けてきた。
焼津港(やいづこう)にもどってから診察を受け、全員が原爆症と分かったのだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
第五福竜丸 ビキニで被ばく」(NHKアーカイブス 1954年)

写真でたどる第五福竜丸』より「乗組員のその後と久保山さんの死」を
続いて『日本の歴史第32巻 現代の日本』より「原水爆禁止運動の発展」を転記しますφ(..)
乗組員のその後と久保山さんの死

 第五福竜丸の乗組員は焼津の協立病院と北病院で2週間過ごした後、東京に移送された。
さきに入院した2名に加え7名が東京大学附属病院に、16名が国立東京第一病院(新宿区)に入院した。
乗組員は、放射線によって冒された骨髄組織に対する治療を受けたが、容態は楽観を許すものではなかった。
乗組員の受けた放射線量は、少なく見積もって200レントゲンであろうと指摘する専門家もおり、致死線量600レントゲン、半致死線量400レントゲンとされているところからみても、乗組員の受けた放射線量がいかに危険な線量であったかが推測できる。
(『ビキニ水爆実験被災50周年記念・図録 写真でたどる第五福竜丸』第五福竜丸平和協会 平和のアトリエ 2004年)
 久保山愛吉さんは国立東京第一病院に入院した。
40歳であった。
第五福竜丸の無線長、乗組員で一番の年長だった。
久保山さんは「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という言葉を遺した。
妻すずさん(33歳)、3人の女の子(みや子 9歳、安子 7歳、さよ子 4歳)、母しゅんさんが遺された。
 「一人の庶民の死がこんなにも多数の眼に見守られたことがあったろうか。それに、罪なき一命を無残にも奪い去ったあの『死の灰』に対する激しい怒りと抗議の眼である。死因は『放射能症』――まさしく『ビキニの灰』は『死の灰』だった」、9月24日の朝日新聞はこう報じた。
久保山愛吉さんの死因は、「急性の放射線障害とそれに続発した激症型肝炎による多臓器不全」といわれる。
 22名の乗組員は1年2ヵ月にわたる入院加療ののち退院(1955年5月20日)したが、その後、多くが肝臓障害を発症した。
現在(2003年末)までに12名が亡くなったが、そのほとんどが肝硬変、肝臓ガンである。
(『ビキニ水爆実験被災50周年記念・図録 写真でたどる第五福竜丸』第五福竜丸平和協会 平和のアトリエ 2004年)
日本の革新と大衆運動
 原水爆禁止運動の発展

 
 1954年3月1日、アメリカが南太平洋のビキニ環礁(かんしょう)でおこなった水爆実験の「死の灰」が、静岡県焼津の漁船第五福竜丸の乗組員のうえに降りそそいだことを契機として、住民運動のなかから原水爆禁止運動がはじまった。
3月16日、読売新聞がこの第五福竜丸被災のニュースをスクープし、またその日、東京築地の魚河岸(うおがし)でも、マグロから強度の放射能が検出され、その日から魚屋やすし屋などはパニック状態になった。
(『日本の歴史第32巻 現代の日本』江口朴郎 小学館 1976年)
この日、東京の杉並区婦人団体協議会のあつまりで、水爆被災を知った婦人たちは、駅頭で署名運動をはじめ、また世田谷区でも梅ヶ丘主婦会が署名運動をはじめた。
中野区でも「平和を守る夕(ゆうべ)」として計画されていた集会が、原水爆反対の区民集会となった。
このようにしてはじまった多数の婦人や青年たちの署名運動の結果、署名は1955年8月4日には3千万余に達した。
そしてその8月6日には第一回原水爆禁止世界大会が広島でひらかれることとなり、ようやく入国をゆるされた中国代表もふくめて、海外から14か国52人のほかに、各団体代表2500余人が参加し、被災者もふくめて約5000人の催(もよお)しとなった。
この原水爆禁止運動は、政府与党や、多くの自治体まで巻きこむ幅ひろい運動であり、画期的なものというべきであった。
これらは、広島・長崎につづくこのビキニと、3度も日本人が被害をうけたという条件のもとでの、日本の民衆運動の高まりをしめすものであった。
この運動がそののち現実にどのような苦難の道をすすむかは、のちに述べるとおりであるが、とにかくひとつの段階を画するものとなった。
原水爆禁止運動の原動力となった婦人たちの平和への願望を訴え支持をもとめる婦団連(婦人団体連合会)からの手紙をうけとった国際民婦連(国際民主主義婦人連盟)は、中国代表の提案にもとづいて、世界中の要求を話しあう世界母親大会の開催をきめた。
1955年4月に発足した母親大会実行委員会は、6月7日から三日間、東京豊島公会堂で「日本母親大会」をひらいた。
この母親大会には明治いらい入会権(いりあいけん)闘争をつづけている岩手県小繋(こつなぎ<二戸郡一戸(いちのへ)町>)の代表も加わっており、そのひとりはスイスのローザンヌでひらかれた世界母親大会にも参加し、この母親大会の活動はしだいに大きなひろがりをしめしたばかりでなく、民主主義的内容の面でも発展しつつあった。
(『日本の歴史第32巻 現代の日本』江口朴郎 小学館 1976年)
今朝の父の一枚です(^^)v

ヒガンバナの災害保険
 ヒガンバナが日本各地の畦や土手に植え広められたのには、花の観賞価値とともに、飢饉に備える救荒植物としての利用があったからだが、じつはそれ以外にも、先人の知恵ともいえる理由があった。
 球根は地表に頭を出してぎっしり並ぶ。
増水などで土が流れて球根が浮くと、根はぐぐっと縮んで球根を引っぱりこむ。
これを牽引根といい、抜いてみると根の縮んだ形跡が外側にたるんだ腹の皮のように残っている。
球根は、畦や土手の土どめの役目を果たすのだ。
(続く)
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【秋冬篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
午後から心臓リハビリでした。
30分間のトレッドミルで時速3㎞を前後に10分間、途中で時速3.5㎞で20分間歩きました。
歩行距離は、1.68km、消費カロリーは106kcaでした。l

訪問させていただいているTwitterに紹介されていた

国は赤字の病院を救ってください!」(change.org)

新型コロナ対応で赤字になっている病院への支援が緊急の課題だと思います。
通院している病院では、新型コロナへの対応はしていませんが、
来院者への体温を計ったり、発熱外来用にテントやプレハブを設置しています。
様々な対応をしているのでその経費や職員の配置も大変だと思います。