青空も見えたけど、昨日より蒸し暑かったな…
天気が不安定です。
「関東甲信~九州 局地的非常に激しい雨おそれ 土砂災害など警戒」(NHK)顔見知りの方と台風の季節はこれからですねと話していました。
ラニーニャ現象が発生していて、残暑が厳しく、台風が日本に近い位置で発生しやすくなるそうです。
〝「ラニーニャ現象発生」か 残暑厳しく 台風情報に注意 気象庁〟(NHK)朝のニュースを見ていたら、上杉謙信愛用の刀が岡山(備前)で作られたそうです。
「山鳥毛“里帰り”特別展始まる」(岡山 NHK)
「備前長船刀剣博物館」(瀬戸内市)
〝新型コロナは同性婚への「神罰」発言の聖職者、検査で陽性 ウクライナ〟(CNN 9月10日)
新型コロナは神が人類に与えた「試練」だと思います。
総主教様のような偉い方に言うのは立場をわきまえていないと言われそうですが。
神は、苦しんでいる人を癒してくれる。
たとえば…
マタイ
第八章
癩病人を清める
イエスが山を下りてこられると、多くの群衆がついて来た。
すると一人の癩病人(らいびょうにん)が近寄ってきて、しきりに願って言った、「主よ、清めてください。お心さえあれば、お清めになれるのだから。」
イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、たちまち癩病が清まった。
(『新約聖書 福音書』塚本虎二訳 岩波文庫 1963年)9月11日
小野妹子(おののいもこ)が隋(ずい)にゆく。高向玄理(たかむこのくろまろ)らこれに従い留学。 608年
聖徳太子が摂政のとき送った遣隋使は前後5回におよんだらしい。
第1回は600年のことだが、これは日本側の文献には記録がなく、『隋書(ずいしょ)』にだけ記されている。
608年の遣隋使は第3回目のもので、607年第2回目の使節として隋に赴(おもむ)き、この年4月帰国したばかりの小野妹子が、この日また隋使裴世清(はいせいせい)を送って出発したのである。
有名な、対等外交を主張して隋の煬帝(ようだい)を怒らせた日本の国書が送られたのは『日本書紀』によるとこの3回目の時のことであるが、太子の主なねらいは、隋の先進文化を学ぶための留学生派遣にあった。
この時玄理のほか、旻(みん)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)も留学した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「小野妹子」(動画 2分41秒)
『日本の歴史2 古代国家の成立』より遣隋使などについて転記しますφ(..)
日出ずる国からの使者
その後の遣隋使
裴世清(はいせいせい)の帰国といっしょに、ふたたび小野妹子を大使(たいし)とする使節が派遣された。
こんどは世清を筑紫に出迎えた難波吉士雄成(なにわのきしおなり)が小使(しょうし)となり、鞍作福利(くらつくりのふくり)は前回同様、通事として同行した。
このとき煬帝(ようだい)にあてた国書が『日本書紀』にのっているが、
「東天皇、敬(つつし)みて西皇帝に白(もう)す」
ではじまり、以下隋に対等の文言をつらねている。
おそらくこの国書の内容は宮廷上層部の人々にはわかっていただろう。
かれらは隋の皇帝と対等のつきあいをしている日本の天皇に、あらためて敬意をささげたことと思われる。
それで国書の目的の大半は達成せられるのである。
第二回のも第三回のも、国書は体内的な意義を十二分に考慮して書かれたものと考えたい。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公バックス 1970年)
『書紀』によれば、608年の第三回の遣隋使には学生・学問僧が同行したとある。
その人々は、倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈良訳語恵明(ならのおさえみょう)・高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大国(いまきのあやひとおおくに)(以上学生)、新漢人旻(みん)・南淵(みなふち)漢人請安(しょうあん)・志賀漢人恵隠(えおん)・新漢人広斉(こうさい)(以上学問僧)の8人、いずれも帰化人である。
かれらが数十年におよぶ留学ののち日本に帰り、文化と政治の発展に貢献したことは、いまさらいうまでもあるまい。
対隋外交が、隋の権威をかりて天皇の地位をたかめることに終始したならば、一時の功をおさめても、しょせんそれは虎の威をかる狐のトリックである。
留学生・学問僧の派遣という処置をとったところに、太子あるいは政府指導者層の偉大さがあるといってよい。
また海をわたる危険をおそれなかった帰化人たちの勇気にも敬意を表すべきであろう。
妹子らはその留学の人々を隋において、翌年9月にぶじ帰国したが、通事の福利は帰ってこなかった。
途中で病死したのであろうか。 第三回の遣隋使が帰ってから5年目の614年(推古22)6月に、第四回の遣隋使が派遣された。
使者の犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)と矢田部造(やたべのみやつこ<名は不明>)とは、翌年7月、使命を果たして帰国した。
『旧事紀(くじき)』(平安初期の書物)によれば、御田鍬は大礼、矢田部造は大仁であった。
この遣隋は『隋書』にはみえないが、『書紀』を疑うにはおよばないであろう。
留学生・学問僧も同行したと思われるが史料はのこっていない。
御田鍬らの帰国とともに百済使が来朝しているから、このときの航路も百済経由であったことがわかる。
日本と隋との正式の交渉は以上でおわる。
御田鍬の遣使のころ、すでに隋の内政は乱れ、流賊が各地に蜂起していた。
御田鍬帰国の2年後(617)には煬帝に代わって恭帝(きょうてい)が擁立され、煬帝自身は618年に殺されてしまった。
この年、唐がおこり、都を長安に定めた。
隋から見た日本
日本から何度も使者が行ったし、隋からも使いがきたので、隋には日本の事情がかなり知れた。
隋としても、朝鮮対策のうえから、この東南海中の島国に注意をはらい、進んで実情をさぐろうとしたにちがいない。
『隋書』には、開皇20年(600)の条に、日本からの使いのことを記したのにつづけて、日本の政治・制度や風俗のことがそうと詳しくでているが、このとき1回の使者からえた知識ではあるまい。
たびたびの交渉のあいだに知りえたことを整理して、ここにまとめて記したのであろう。 政治ついては、まずこんなことが書かれている。日本の使者がいう。
「倭王は天をもって兄とし、日をもって弟とする。王は夜の明けるまえに政(まつりごと)をきき、跏趺(かふ<あぐら>)して坐り、日が昇ると、あとは弟の太陽にまかせよう、といって政治の事務をやめてしまう」
煬帝はいう。
「それは理屈にあわない」
中国の優越を強調するために話をすこし作っているような感じがするが、それを割引きしても、日本の原始的な政治のありさまが察せられておもしろい。
のちのことになるが、636年(舒明8)に、大派(おおまた)王が蘇我蝦夷(えみし)に、官吏の勤務を卯(う)の始めから巳(み)の終(おわり)まで(午前6時から正午まで)にしようといったが、蝦夷が従わなかったという話がある。
いったいに、役人の勤務時間がいまよりひじょうに早く、かつ短かったのは事実であろう。
つづいて『隋書』には、
「王の妻は雞弥(けみ<君>)と号す。後宮には女六、七百人有り」
とある。
時の天皇は推古女帝だから、「王の妻」というのはだれをさすのか問題だが、後宮に女が6、7百人もいるというのは、隋の壮麗な後宮にまけまいとする日本の使者のからいばり、いわゆるハッタリであろう。
つぎに、「太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為(な)す」というのもだれのことかわからない。
わたくしは、「王」は聖徳太子、利歌弥多弗利は田村(たむら)皇子(のちの舒明天皇)か山背大兄(やましろおおえ)王をさすのではないかと思う。
つぎに、「城郭無し」とあって、日本の都邑(とゆう)が中国のそれとちがう大きな特色を指摘している。
そのつぎに、冠位十二階のことと、軍尼(くに<国>)・伊尼冀(いなぎ<稲置>)の地方制度のことを記しているが、これについてはさきに述べた。
服飾をはじめ風俗についてのかなり詳しい記述もある。
すべてを紹介するいとまはないが、興味ある記録が多い。
たとえば、もとは冠をかぶるものがなく、髪を両耳の上に垂れる、とあるのは「みずら」のことであろう。
木の履(くつ)をはくものもあるが、庶民はたいてい跣足(はだし)である、というこまかな観察も記されている。
裁判のばあい、小石を熱湯の中におき、争うものにこれを探らせ、悪い者は手がただれる、というやりかたをしたとある。
『日本書紀』の允恭(いんぎょう)天皇の条にみえる盟神探湯(くがたち)の方法と同じである。
蛇をいれた甕(かめ)のなかに手をいれさせ、不正の者は手をかまれる、という方法も記されている。
「気候温暖にして、草木は冬も青く、土地は膏膄(こうゆ)にして、水多く陸少なし」とある。「王の妻は雞弥(けみ<君>)と号す。後宮には女六、七百人有り」
とある。
時の天皇は推古女帝だから、「王の妻」というのはだれをさすのか問題だが、後宮に女が6、7百人もいるというのは、隋の壮麗な後宮にまけまいとする日本の使者のからいばり、いわゆるハッタリであろう。
つぎに、「太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為(な)す」というのもだれのことかわからない。
わたくしは、「王」は聖徳太子、利歌弥多弗利は田村(たむら)皇子(のちの舒明天皇)か山背大兄(やましろおおえ)王をさすのではないかと思う。
つぎに、「城郭無し」とあって、日本の都邑(とゆう)が中国のそれとちがう大きな特色を指摘している。
そのつぎに、冠位十二階のことと、軍尼(くに<国>)・伊尼冀(いなぎ<稲置>)の地方制度のことを記しているが、これについてはさきに述べた。
服飾をはじめ風俗についてのかなり詳しい記述もある。
すべてを紹介するいとまはないが、興味ある記録が多い。
たとえば、もとは冠をかぶるものがなく、髪を両耳の上に垂れる、とあるのは「みずら」のことであろう。
木の履(くつ)をはくものもあるが、庶民はたいてい跣足(はだし)である、というこまかな観察も記されている。
裁判のばあい、小石を熱湯の中におき、争うものにこれを探らせ、悪い者は手がただれる、というやりかたをしたとある。
『日本書紀』の允恭(いんぎょう)天皇の条にみえる盟神探湯(くがたち)の方法と同じである。
蛇をいれた甕(かめ)のなかに手をいれさせ、不正の者は手をかまれる、という方法も記されている。
これなども、かなり正確に日本の風土の特色をとらえている。
そのつぎに、鸕鷀(ろじ)のくびに小さな環(わ)をはめ、水にいれて魚をとらえさせる、とあるのは、いうまでもなく鵜飼(うか)いのことである。
『古事記』の神武天皇の段の歌謡に、
島(しま)つ鳥(とり) 鵜養(うかい)がとも 今助(す)けに来(こ)ね
という句があり、『書紀』の神武天皇の条にも鵜養部のことが見える。
鵜飼いは中国にも、日本のかわった魚獲法として知られていたのである。
「俗、盤爼(ばんそ<皿や食卓>)無く、藉(し)くに槲(かしわ)の葉をもってし、食するに手を用(も)ってこれを餔(くら)う」
というのは、有名な有間(ありま)皇子の歌「家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る」を思い出させる。
おもしろいのは結婚と葬式にかんする記述である。
「男女相悦(よろこ)ぶ者は即ち婚を為す」
つまり自由恋愛・自由結婚である。
しかし、「新婦が夫の家にいるときには、かならずまず火を跨(また)ぎ、それから夫にあう」ともある。
火でけがれをきよめるのであろうが、この慣習は今日でも日本の各地にのこっている。 葬式については、「親戚縁者が死者をおさめた棺のそばで歌ったり踊ったりし、妻子兄弟などの近親は白装束をする。貴人は3年のあいだ殯(もがり)をし、庶人は日をうらなって埋める。屍(かばね)は船にのせ、墓まで車にのせてひいてゆく」とある。
棺をかこんで歌舞することは、3世紀の日本のことを書いた『魏志』倭人伝にもみえるし、『古事記』神代の巻に、天若日子(あめのわかひこ)の葬式に、喪屋(もや)を作って八日八夜遊んだという伝えとも一致する。
このように『隋書』東夷伝倭国の条は、推古朝ごろの日本の制度史や社会史・風俗史にかんする絶好の史料である。
とくに、推古朝に各種の制度がととのってきたことについて『書紀』の記述を傍証する記事のあることは、この時代の歴史を考えるうえにたいへんありがたいことである。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公バックス 1970年)今朝の父の一枚です(^^)v
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