気象庁の地上気象観測による値を見ると湿度が高いです。
安田菜津紀さんの 「“普通”という名の圧が蔓延する中で、ノイズとして存在したい」(論座 9月25日)
私は沖縄に生まれましたが、方言を話せません。
沖縄の言葉を話せなくても故郷への思いは強いです。
方言のことを「お国言葉」ともいいますよね。
「にほんごであそぼ」でも時々、お国言葉で「雨ニモマケズ」「私と小鳥と鈴と」などを読んでくれる(リンク先の配信リストもごらんください)。NHK映像ファイル あの人に会いたい「十四代沈壽官(陶芸家)」(10月2日午後1時50分から再放送)
沈壽官さんの先祖は
慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。(沈壽官家の歴史)
小学校の頃はよく海岸に遠足がありました。
もう張り切って行くんですがね。
みんなが「わー 海だ」と手を広げて走って行く途中で
僕はパッと止まっちゃうんです。
なんか悲しくなってね
白い衣装を着た人たちがね
浜辺をもうさまよっている姿が浮かんでくる
あわれな姿でね、本当に難儀している姿しか浮かんでこないですね。
(平成10年に開かれた薩摩焼400年祭。
窯の火の採火式
先祖たちの故郷とされる韓国ナムォン市でともした火を
船で鹿児島まで運び、日韓の親善と友好の証しとしたのです)
この薩摩焼の火は、あの韓国と日本を結ぶとても大事な火
火じゃなくて心が来たような感じがする。
薩摩焼は本来父親が韓国です。
そして鹿児島で400年、母の手で育てられたわけですから。
BLMのニュースを見ていたら、息子に質問された。
「黒人は差別されてるの?どうして?」
「黒人」という言葉も「人種」という意味も知らない小学生にどう伝えたらいいか悩み、取材をはじめました。
長文ですが、読んでいただけたら嬉しいです。
〝「なぜ黒人は差別されてるの?」子供にどう説明すべきか。大坂なおみ選手の会話を繋ぐために〟(HUFFPOST 9月24日)
ほんの少し前まで高田渡や岡林信康、忌野清志郎など社会的なメッセージを発信していたのに、いつから芸能人や選手が自由に発言できなくなったのだろう。
今の日本は表現することが不自由になっている。
ブルーハーツの「青空」(YouTube)の歌詞に「生まれた所や皮膚や目の色で」「運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか」「歴史が僕を問いつめる」とあります。
歌詞に込められた思いは推測ですが、以下の記事が参考になるかな?
「公民権闘争の重要な節目に 席を立つのを拒んだローザ・パークス」(NATIONAL GEOGRAPHIC 2020.5.22)
9月26日
哲学者の三木清(みききよし)が東京中野の豊多摩監獄(とよたまかんごく)で死んだ。 1945(昭和20)年
戦争が終って一ヵ月半ほどたったこの日、三木清は監獄の独房でかゆさにもがき苦しみながら寝床から転がり落ちて死んだ。
彼は拘置所で疥癬(かいせん)という全身がかゆくなる皮膚病をうつされていた。
戦争を批判し、ペンで精一杯抵抗してきた著名な哲学者の最期である。
まだ48歳だった。
監獄の医者は、三木の病状を知りながら心配はないと言って外出していた。
彼は半年前に共産党員の逃亡を助けたという理由で逮捕されたのであるが、知識人や学生に大きな影響力があった彼の死は、大問題となった。
これがきっかけとなって、GHQによる政治犯の釈放が進んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『人生論ノート』の解説より「死ななくてもよい命」を転記しますφ(..)
100分de名著「人生論ノート 三木清」でも岸見一郎さんが解説されていました。
続いて、『哲学事典』より「三木清」を転記しますφ(..)
「解説 岸見一郎」より
死ななくてもよい命
大方の現代の読者は、三木清が獄中で非業の死を遂げたことを知らないのではないか。
三木清が治安維持法違反で検挙され、豊多摩拘置所で獄死したのは、1945年9月26日だった。
初めて三木の著作に触れた時、久野収が、三木清は「獄死させられた」と記していることに私は驚いた(「三木清―その生涯と遺産」『現代日本思想体系33 三木清』筑摩書房所収)。
(『人生論ノート』三木清 角川ソフィア文庫 2017年)
獄死した日は日本が無条件降伏した8月15日から、一ヶ月以上の月日が過ぎていた。
無条件降伏したのにもかかわらず、戦争を批判した人たちは釈放されなかったのである。
敗戦の後始末を託された東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は一億総懺悔論を振りかざした。
戦争責任は国民全部にあるというわけである。
時の内務大臣、山崎巌は、国体を批判する左翼勢力は戦争中と変わらず厳しく取り締まりを続けるとまで公言した。
三木の釈放が遅れたことには、このような背景があった。
三木は独房で疥癬に感染、苦しさのあまり寝床からころがり落ちて絶命した。
看取る人は誰もいなかった。
久野は、「三木は死ななくてもよい命を落とす結果になった」という。
人が思想、信条が理由で命を奪われることがあってもいいのか。
ソクラテスが青年に害悪を与えたという理由で死刑になったことはよく知られているが、遠い過去ではなく、現代の日本で三木を始め多くの人が思想犯として自由と、さらに命を奪われたことに私は強い衝撃を受けた。 久野収は、「著者の直面した状況は、戦後の現在からでは、ほとんど理解できないような〝狂気〟の時代状況であったという事情は、忘れられてはならない」(『三木清全集第15巻』後記)という。 三木が獄死したことからだけ三木の人生のすべてを意味づけ、評価してはいけないだろうし、個人史、時代背景を知らずに三木の著作を読むこともできるが、三木が生きた時代のこともずっと忘れられることがあってはならないと思う。
(『人生論ノート』三木清 角川ソフィア文庫 2017年)
三木清 1897-1945(明治30-昭和20) 哲学者
兵庫県の農村に生まれ、京大哲学科に入学、西田幾多郎、波多野精一らに教えをうけた。
卒業後、第1次大戦直後のヨーロッパに留学、歴史哲学に関心をもち、とくにハイデッガーの影響をうけ、ヨーロッパ・ニヒリズムの思想家たちに傾倒した。
(『哲学事典』改訂新版哲学事典編集委員会 平凡社 昭和46年)
帰国後、法政大学教授となったが、マルクス主義を通じて労働者階級解放の運動に影響され、自己のヒューマニズムをいっそう深める機会をつかみ、マルクス主義の同伴者的立場に立ち、当時閑却されていたマルクス主義の哲学的基礎づけを人間学的立場から行なうことによって、論壇における批判と反批判の中心となった。
この活動は人柄と力量のゆえに日本の哲学に新しい活力をあたえ、その後多くの有能な知識人をマルクス主義の陣営へ学問的に移行せしめる道をひらくこととなった。1930年日本共産党に資金を提供した嫌疑によって慰安維持法違反のかどで起訴、いっさいの公職から追放された。
その後はマルクス主義の直接的影響から離れ、民間の哲学者としてジャーナリズムに評論を発表するかたわら、西田哲学のいっそう強い影響のもとに自己の哲学体系の労作を発表しつづけた。日中戦争の開始にともなうファシズムの支配にたいしては東亜協同体論を主唱して抵抗を企てたが、当時の力関係はこの抵抗を成功させず、逆にファシズムから利用される結果をまねいた。
太平洋戦争の勃発後もヒューマニズムの線を最後のよりどころとして執拗な抵抗をつづけたが、42陸軍報道班員に徴用されてマニラにおもむいた後は、もはや言論の極端な圧迫のもとに筆をとる意志をすて、将来を期して研究に専念した。45年3月高倉テルを庇護した事実が官憲の乗ずるところとなり、自由主義者の代表的人物として見せしめ的テロ行政の目標とされ、日本の敗戦後も未釈放のまま、9月26日豊多摩拘置所で獄死した。 かれの学説を論じる場合、まず注意すべきは言論の極端な圧迫下に執筆された結果、表現が非常に明瞭でない形式をとっているという事実である。
かれの最大の業績は、日本における歴史哲学の開拓者たる点にある。
ドイツ西南学派の歴史哲学の研究から出発し、歴史科学の認識論から存在の敵視的性格の哲学的研究にすすみ、ディルタイ、ハイデッガー、マルクス主義、西田哲学を摂取しつつ、歴史的世界の構造と論理の究明に専心し、この世界が主体と客体、ロゴスとパトスの弁証法的統一の過程であることをあきらかにしようとつとめ、いままでの主知主義的認識論にあきたらず、哲学におけるパトスの権利の回復をつうじて、歴史的世界を動かす論理を「構想力」にもとめるにいたった。同時に歴史哲学の現在的帰結であるヨーロッパ・ニヒリズムとこのようなニヒリズムを生みだす個性の解体および人間の無性格化の問題に正面から対決し、この問題の解決をファシズム的非合理主義の方向にもとめないことによって、ハイデッガーと袂別(べいべつ)し、逆に技術の問題を新しく考えなおすことによって、ニヒリズムをぬけだす新しいヒューマニズムを構想した。
こうして歴史的世界、構想力、技術、ヒューマニズムという系譜に立って現代の文明批評を行おうとしたが、このようなオプティミスティックな立場はたえず自己の内面に動くパスカル、親鸞への傾倒にみられるようなペシミスティックな心情と交錯し、この交錯は真の意味の統一にまで立ちいたらなかった。
(『哲学事典』改訂新版哲学事典編集委員会 平凡社 昭和46年)
ブルーハーツの「青空」(YouTube)の歌詞に「生まれた所や皮膚や目の色で」「運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか」「歴史が僕を問いつめる」とあります。
歌詞に込められた思いは推測ですが、以下の記事が参考になるかな?
「公民権闘争の重要な節目に 席を立つのを拒んだローザ・パークス」(NATIONAL GEOGRAPHIC 2020.5.22)
9月26日
哲学者の三木清(みききよし)が東京中野の豊多摩監獄(とよたまかんごく)で死んだ。 1945(昭和20)年
戦争が終って一ヵ月半ほどたったこの日、三木清は監獄の独房でかゆさにもがき苦しみながら寝床から転がり落ちて死んだ。
彼は拘置所で疥癬(かいせん)という全身がかゆくなる皮膚病をうつされていた。
戦争を批判し、ペンで精一杯抵抗してきた著名な哲学者の最期である。
まだ48歳だった。
監獄の医者は、三木の病状を知りながら心配はないと言って外出していた。
彼は半年前に共産党員の逃亡を助けたという理由で逮捕されたのであるが、知識人や学生に大きな影響力があった彼の死は、大問題となった。
これがきっかけとなって、GHQによる政治犯の釈放が進んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『人生論ノート』の解説より「死ななくてもよい命」を転記しますφ(..)
100分de名著「人生論ノート 三木清」でも岸見一郎さんが解説されていました。
続いて、『哲学事典』より「三木清」を転記しますφ(..)
「解説 岸見一郎」より
死ななくてもよい命
大方の現代の読者は、三木清が獄中で非業の死を遂げたことを知らないのではないか。
三木清が治安維持法違反で検挙され、豊多摩拘置所で獄死したのは、1945年9月26日だった。
初めて三木の著作に触れた時、久野収が、三木清は「獄死させられた」と記していることに私は驚いた(「三木清―その生涯と遺産」『現代日本思想体系33 三木清』筑摩書房所収)。
(『人生論ノート』三木清 角川ソフィア文庫 2017年)
獄死した日は日本が無条件降伏した8月15日から、一ヶ月以上の月日が過ぎていた。
無条件降伏したのにもかかわらず、戦争を批判した人たちは釈放されなかったのである。
敗戦の後始末を託された東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は一億総懺悔論を振りかざした。
戦争責任は国民全部にあるというわけである。
時の内務大臣、山崎巌は、国体を批判する左翼勢力は戦争中と変わらず厳しく取り締まりを続けるとまで公言した。
三木の釈放が遅れたことには、このような背景があった。
三木は独房で疥癬に感染、苦しさのあまり寝床からころがり落ちて絶命した。
看取る人は誰もいなかった。
久野は、「三木は死ななくてもよい命を落とす結果になった」という。
人が思想、信条が理由で命を奪われることがあってもいいのか。
ソクラテスが青年に害悪を与えたという理由で死刑になったことはよく知られているが、遠い過去ではなく、現代の日本で三木を始め多くの人が思想犯として自由と、さらに命を奪われたことに私は強い衝撃を受けた。 久野収は、「著者の直面した状況は、戦後の現在からでは、ほとんど理解できないような〝狂気〟の時代状況であったという事情は、忘れられてはならない」(『三木清全集第15巻』後記)という。 三木が獄死したことからだけ三木の人生のすべてを意味づけ、評価してはいけないだろうし、個人史、時代背景を知らずに三木の著作を読むこともできるが、三木が生きた時代のこともずっと忘れられることがあってはならないと思う。
(『人生論ノート』三木清 角川ソフィア文庫 2017年)
三木清 1897-1945(明治30-昭和20) 哲学者
兵庫県の農村に生まれ、京大哲学科に入学、西田幾多郎、波多野精一らに教えをうけた。
卒業後、第1次大戦直後のヨーロッパに留学、歴史哲学に関心をもち、とくにハイデッガーの影響をうけ、ヨーロッパ・ニヒリズムの思想家たちに傾倒した。
(『哲学事典』改訂新版哲学事典編集委員会 平凡社 昭和46年)
帰国後、法政大学教授となったが、マルクス主義を通じて労働者階級解放の運動に影響され、自己のヒューマニズムをいっそう深める機会をつかみ、マルクス主義の同伴者的立場に立ち、当時閑却されていたマルクス主義の哲学的基礎づけを人間学的立場から行なうことによって、論壇における批判と反批判の中心となった。
この活動は人柄と力量のゆえに日本の哲学に新しい活力をあたえ、その後多くの有能な知識人をマルクス主義の陣営へ学問的に移行せしめる道をひらくこととなった。1930年日本共産党に資金を提供した嫌疑によって慰安維持法違反のかどで起訴、いっさいの公職から追放された。
その後はマルクス主義の直接的影響から離れ、民間の哲学者としてジャーナリズムに評論を発表するかたわら、西田哲学のいっそう強い影響のもとに自己の哲学体系の労作を発表しつづけた。日中戦争の開始にともなうファシズムの支配にたいしては東亜協同体論を主唱して抵抗を企てたが、当時の力関係はこの抵抗を成功させず、逆にファシズムから利用される結果をまねいた。
太平洋戦争の勃発後もヒューマニズムの線を最後のよりどころとして執拗な抵抗をつづけたが、42陸軍報道班員に徴用されてマニラにおもむいた後は、もはや言論の極端な圧迫のもとに筆をとる意志をすて、将来を期して研究に専念した。45年3月高倉テルを庇護した事実が官憲の乗ずるところとなり、自由主義者の代表的人物として見せしめ的テロ行政の目標とされ、日本の敗戦後も未釈放のまま、9月26日豊多摩拘置所で獄死した。 かれの学説を論じる場合、まず注意すべきは言論の極端な圧迫下に執筆された結果、表現が非常に明瞭でない形式をとっているという事実である。
かれの最大の業績は、日本における歴史哲学の開拓者たる点にある。
ドイツ西南学派の歴史哲学の研究から出発し、歴史科学の認識論から存在の敵視的性格の哲学的研究にすすみ、ディルタイ、ハイデッガー、マルクス主義、西田哲学を摂取しつつ、歴史的世界の構造と論理の究明に専心し、この世界が主体と客体、ロゴスとパトスの弁証法的統一の過程であることをあきらかにしようとつとめ、いままでの主知主義的認識論にあきたらず、哲学におけるパトスの権利の回復をつうじて、歴史的世界を動かす論理を「構想力」にもとめるにいたった。同時に歴史哲学の現在的帰結であるヨーロッパ・ニヒリズムとこのようなニヒリズムを生みだす個性の解体および人間の無性格化の問題に正面から対決し、この問題の解決をファシズム的非合理主義の方向にもとめないことによって、ハイデッガーと袂別(べいべつ)し、逆に技術の問題を新しく考えなおすことによって、ニヒリズムをぬけだす新しいヒューマニズムを構想した。
こうして歴史的世界、構想力、技術、ヒューマニズムという系譜に立って現代の文明批評を行おうとしたが、このようなオプティミスティックな立場はたえず自己の内面に動くパスカル、親鸞への傾倒にみられるようなペシミスティックな心情と交錯し、この交錯は真の意味の統一にまで立ちいたらなかった。
(『哲学事典』改訂新版哲学事典編集委員会 平凡社 昭和46年)