2020年9月24日木曜日

雨がポツポツ降ったけど…

予報では曇り空だったけど、ポツポツ降ってきました。
途中で傘をさす必要がなくなりましたが、蒸し暑く感じました。
台風12号の影響があるのかな?
今朝の鷲田清一さんの「折々のことば」 

We can't let the ignorance of a few hold back the progressiveness of the masses
                  大坂なおみ(テニス選手)

「一部の人の無知によってみんなの前進が阻まれてはなりません」。
Esquire電子版(7月1日配信)で大坂はこう訴えた。
事態をよく見据えないまま罵声を浴びせてはならない。
動く前にまずはよく見、よく知って、との思いが伝わってくる。
自身もその中で「人種差別主義者でない」だけでは不十分で、「反人種差別主義者」にならねばと悟ったという。 (2020.09.24)
(「ヒガンバナの災害保険」の続き)
 球根の周囲には雑草があまり茂らないことにも昔の人々は気づいていた。
近年わかったことには、球根が、ほかの植物の成長を妨げる作用をもつアレロパシー物質を出していたのだ(41ページ参照)。
ヒガンバナを植えておけば、土手や田んぼの畦に生える雑草の発芽を防いでくれるのだ。
 しかも夏の間は葉がない。
これも農作業には好都合だ。
田の畔に植えても夏場の作業の邪魔にならないどころか、秋から冬は葉を茂らせて光を遮ることでも雑草の発生を妨げ、葉を枯らした夏の間も密集した球根が地面をガードしてくれる。
球根は有毒なので、畦に穴をあけてしまうネズミやモグラの防除にもなる。
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【秋冬篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
 では墓地に多いのは?
彼岸の供花になるだけでなく、土葬された遺体を猛毒の球根で覆うことで野獣から守ろうとする昔の人の意図はなかったか。
 やはりヒガンバナは毒の存在なくしては語れない。
妖しく華麗なこの花には、〝魔性の女〟のイメージが重なり合う。
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【秋冬篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
今日から
結核予防週間 早期発見など啓発」(関西 NHK)
 結核は、過去の感染症ではないのです。
大阪府は罹患率が高いのです。
そして世界を見ても罹患率が高い国になっています。
結核について」(一般財団法人大阪府結核予防会)

結核の常識 2020」(公益財団法人結核予防会)
9月24日
 高山右近らキリシタンが国外に追放された。 1614(慶長19)年

 駿府(すんぷ)の大御所(おおごしょ)徳川家康によって、長崎に派遣された山口直友(なおとも)は、ちかくの大名の手をかりてキリシタンを弾圧したり、教会を11カ所も破壊したりしていたが、この日、高山右近(うこん)をはじめ、宣教師やキリシタン148人を、マニラやマカオへ追放した。
2年前の3月から、京都を中心にはじまった江戸幕府のキリシタン弾圧は、前年暮に全国にひろがり、金沢で大名前田家に保護されていた元キリシタン大名の右近らにまで弾圧の手がのびたのである。
 11月にマニラについた右近は、翌15年1月8日、熱病のため死んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
キリシタン大名」(動画 2分15秒)
 
高槻市など高山右近ゆかりの地を訪ねたかったなぁ…

江戸開幕』より禁教について転記しますφ(..)
第四章 鎖国への道
  3 禁教と貿易
 禁教の開始


 家康がとった貿易重視策のもとでキリスト教の布教は黙認され、キリシタンの数は増加の一途をたどっていた。
そのことは、当初ゴアに拠点を置いたイエズス会のインド管区に属していた日本の布教区が、1582年(天正<てんしょう>10)に準管区に昇格し、1609年(慶長<けいちょう>14)には独立管区となり中国布教区をその管轄下に置くことになったことにもよく示されている。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)
 家康は、早く1605年にルソン総督への書状で日本でのキリスト教の布教を認めないことを宣言していたが、国内政策としてキリスト教の禁止が打ち出されたのは、1612年3月のことである。
禁教の直接の契機は、キリシタン大名であった有馬晴信(ありまはるのぶ)と家康の側近である本多正純(ほんだまさずみ)の家臣岡本大八(おかもとだいはち)とのあいだの贈収賄事件であった。
 岡本大八は有馬晴信に、ポルトガル船グラッサ号撃沈の功として、有馬氏の旧領である肥前(ひぜん)三郡の拝領を斡旋することを持ちかけ、晴信から多額の賄賂(わいろ)を贈らせた。
にもかかわらずいっこうに加増の沙汰(さた)のないのを訝(いぶか)った晴信が、様子を正純にただしたためことが発覚し、駿府(すんぷ)で両者対決の吟味が大久保長安(おおくぼながやす)によってなされ、大八の非と決まった。
ところが大八は、獄のなかから晴信がかって長崎奉行の長谷川藤広(はせがわふじひろ)を謀殺せんとしたことを訴えたため、ふたたび両者の対決となった。
その場で弁解に窮した晴信は、その罪を問われ甲斐に配流され、ほどなく自害した。
  この事件の当事者がともにキリシタンであったことから、家康は、大八を火刑に処した3月21日に、駿府・江戸・京都・長崎などの幕府直轄都市でのキリスト教の禁止とキリシタン寺院の破却とを命じた。
しかし、このときの禁教は、地域によっても差がみられ、またそれほど徹底したものではなかった。
 幕府の直轄都市以外でも有馬氏の領内のようにキリスト教の禁圧がなされたところもあった。
しかしこのときの禁令は、なおすべての大名領に及ぶものではなく、大名には家康が駿府で改易に処したキリシタン武士の捕縛が命じられたにすぎなかった。
 家康は、同年6月付のメキシコ国王への返書のなかでキリスト教布教の禁止と貿易に限定した往来の承認を報じ、幕府の禁教の姿勢を明確に打ち出した。
ついで8月には、関東地域を対象にたばこを吸うことの禁令とともに、キリシタン禁令が出され、禁令の範囲は徐々に拡大していった。
伴天連追放之文

 1613年(慶長<けいちょう>18)12月、江戸にいた家康は、まず板倉重昌(いたくらしげまさ)を、ついで将軍秀忠(ひでただ)の重臣である大久保忠隣(おおくぼただちか)を伴天連(バテレン)追放の総奉行に任じ、京都に派遣した。
この出発にあたって家康は、金地院崇伝(こんちいんすうでん)に命じて「伴天連追放之文(ついほうのふみ)」を起草させ、それを将軍秀忠の名で出させた。
 この追放文では、まず日本が神国・仏国であることが述べられ、ついで「吉利支丹(キリシタン)の徒党(ととう)」は貿易だけでなくみだりに邪法を広め、それをもって日本の政体を転覆しよとしており、すぐさま禁止しなければ「後世必ず国家の患(わずらい)」となるとし、伴天連の追放が宣言されている。
 この追放文を載せる金地院崇伝の『異国日記(いこくにっき)』には、日本国中の諸人がこのことをよく心得るようにとの家康の意向が注記されている。
そのため、これまでこの追放文は広く公布されたと考えられてきた。
しかし、この追放文は、大名に触れ出されておらず、その形式からも上方(かみがた)での伴天連追放の法的根拠として作成されたものである。
 翌年正月17日に京都に入った大久保忠隣は、さっそく教会を壊し、宣教師を長崎へと追放した。
さらに信徒の改(あらた)めを行い、「転(ころ)ぶ」こと、つまき棄教を迫り、それに従わないものは陸奥津軽(むつつがる)に送った。
宣教師の追放と信徒の改めは、京都のほか豊臣氏の本拠である大坂や堺でも行われ、多くの宣教師が長崎へと送られていった。
また細川氏や大村氏などの西国大名領でも信徒の改めが行われ、宣教師たちが追放された。
 そして、上方や西国各地から長崎に集められた宣教師や信徒たちは、9月24日、寄港していたポルトガル船3艘(そう)に乗せられ日本から追放された。
ポルトガル船のうち2艘は、イエズス会の宣教師と信徒を乗せマカオに、残る1艘はイエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会の宣教師と信徒とを乗せマニラへと出港していった。
マニラへの船には、キリシタン大名として信徒にも大きな影響力をもっていた高山右近とその家族が乗っていた。
世に「大追放(だいついほう)」といわれている事件である。
 この「大追放」は、幕府によるキリシタン禁圧の強化を示すとともに、当時から取沙汰(とりざた)されていたように大坂の陣を前にして、キリシタンが豊臣方に引き込まれることの防止策としての側面があった。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)