2020年9月21日月曜日

敬老の日

ズ~ッと扇風機のお世話になっていたけど、今朝は、扇風機をつけなかった。
顔見知りの方とこれくらの気温があまり汗をかかなくていいですねと話していました。
今日は、「敬老の日」でσ(^-^;も高齢者の仲間です。
大阪の人は、かつて詐偽にあいにくいとも言われていましたが…

敬老の日に詐欺防止呼びかけ」(関西 NHK)

気になるのが
熱帯低気圧は24時間以内に台風に」(ウエザーニュース 9月21日)
追記)アップした後にニュースを見ると
台風12号が発生 今週日本に接近する可能性も」(NHK)
この実、なんか二段になっている…
横から見るとまた違った表情をしていました。
なんか二日酔いか?、気分が悪そうな顔をしている(*´▽`*)
木瓜の実からお酒を造ることができるのですね…

生薬の花 ボケ」(日本薬学会)
安田菜津紀さんのTwitter

川崎駅前、ヘイト街宣と対峙する人々の中に、こんなメッセージを掲げている高校生がいた。
一人の大人として、高校生や次世代に、差別の蔓延する社会を手渡したくない、と思う。


https://instagr.am/p/CFWoi2jjZGa/
9月21日
 三河(みかわ)国加茂(かも)郡に百姓一揆がおこった。 1836(天保7)年

 夜8時ごろ、今の愛知県豊田市松平町周辺で、大きな竹筒(たけづつ)を吹く音を合図に、5日間にわたる大きな百姓一揆が始まった。
大飢饉に苦しむ山がちのこの地域で、一揆ははじめの60人から、またたくうちに1万人以上にふくれあがり、米や酒を高く売りつける商人や、年貢を不当につりあげる領主とたたかった。
これには240ヵ村からの農民が参加し、徳川幕府の直轄地(ちょっかつち)をはじめ、19の大名や旗本の領地にひろがった。
約1ヵ月前におこった甲州天保一揆とならんで、江戸時代でもっとも大きい一揆の一つで、日本全国に知れわたった。
この事件をそばでみた神主の渡辺政香(まさか)は、『鴨(かも)の騒立(さわだち)』という記録を残した。
この記録から、一揆に参加した農民たちが盗みをしなかったことや、逮捕された指導者が「上(かみ)がゆがむと下(しも)はなおゆがみます」と堂々と役人に話したことなどがわかる。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
先日、呉座勇一氏の『一揆の原理』から中世の一揆について紹介しましたが、
津田秀夫氏の『日本の歴史 第22巻 天保改革』より天保の百姓一揆について転記しますφ(..)
爆発する民衆
 民衆の蜂起
  食用大奢侈


 飢饉は、天保8年になると、さらに深刻さをました。
このような破局的状況を解決するために、民衆のなかからおこされたのが、農村の百姓一揆、都市の打ちこわしであり、支配者のなかからおこされたのが、大塩平八郎の兵乱である。
一揆・打ちこわしは急激にその数をまし、さらに「世直し」闘争へと発展していく。
(『日本の歴史 第22巻 天保改革』津田秀夫 小学館 1975年)
 天保4年10月に、幕府が民衆に、日常生活の反省をもとめてだした触書には、「近年百姓たちが食用大奢侈(だいしゃし)になり、末のものと麁食(そしょく)を用いず、米穀多く用いたゆえ、自然に米払底し、高値になり、諸人が難儀に及ぶ」ともいっていた。
 化政期には、繁栄のままに、米穀を多量にぜいたくに使用していたが、いっぽう、豊作つづきのためになおあまりがちで、米作以外の有利な商品作物栽培に転換するものがいた。
このように、全国的に米穀生産量が減少し、消費量が増大する傾向があったところに、凶年がかさなったのである。
米の決定的な不足の現象から、ついに大きな農民一揆がおこり、このために、幕府の国内体制での危機感が強くあらわれた。
とくに天保7年に起こった郡内(ぐんない)一揆と、三河の鴨(かも)の騒立(さわぎだち)を注意しておきたい。
郡内一揆と三河一揆

 天保7年(1836)8月、甲斐国都留(つる)郡の天領80か村あまりの農民が、徒党して農民一揆をおこした。
それが郡内一揆である。
甲斐国は甲府盆地一帯の山梨・八代(やつしろ)・巨摩(こま)の三郡を国中(くになか)といい、これにたいして都留郡を郡内といった。
山がちで水田に乏しいが、絹織りの副業が普及して、郡内絹の特産地であった。
19世紀にはいると、養蚕から製糸、それに絹への一貫する工程で家内工業がひろくいとなまれていた。
これらの農民は郡内絹を他の地域に販売し、年貢の納入や生活のために米穀を買っていた。
 天保4年からの飢饉はこの地域も遠慮会釈なくおそい、大きな犠牲を強いた。
従来買い入れていた米のうち、駿河米・相模米が穀留になったので、国内米だけがたよりであったのに、山梨郡熊野堂村の穀問屋が米を買占め、郡内への出荷をことわった。
8月2日になって、下和田村の貧農武七が穀問屋から米を押借(おしがり)して窮民を救おうと決意し、親戚の犬目(いぬめ)村の兵助とはかり、頭取となって蜂起した。
 この一揆は、困窮のひどい甲州道中16宿と、近村の貧農らをまきこみ、その勢力は、笹子(ささご)峠をこえて国中の平野にはいった。
参加人員は貧農や日雇かせぎの無宿者を中心に、あわせて約1万人にたっしたので、甲州一国の大騒動になった。
そのあいだに国中と甲府で二百数十軒の富農や村役人が打ちこわされ、帳面や証文類が焼きはらわれた。
一揆の鎮圧にあたるべきはずの甲州代官や甲府勤番支配は、この一揆を鎮圧することができず、隣接の諏訪・高遠・沼津の諸藩に出兵をもとめ、ようやく解決をみた。
 この郡内騒動は、山梨郡下井尻村の浦人井尻家の天保8年の手帳には「〇改革 〇天下革命千年に壱度位アリ由」とあることから、甲州における最初の「世直し一揆」であるというようにもいわれる。
 天保7年9月には、三河国の山間部の加茂郡の村々で、さわぎがおこった。
三河国とえいば、徳川家ゆかりの地であるが、その山村地帯にも、米価高騰の波は容赦なくせまっていた。
飯米を買って生活しているこの地方の農民も飢饉におそわれ、不穏な形勢がおこるのは、しぜんの勢いであった。
20日夜から行動をおこした一揆は、その周辺を席巻(せっけん)した。
米酒などの安売りや頼母子(たのもし)を休むことなどを要求して気勢をあげ、六所山をかこむ諸部落をめぐって、打ちこわしをおこなった。
 小藩や旗本陣屋に要求をしめすことから、さらに発展した一揆は勢力をまし、足助(あすけ)川にそって、足助村にはいり、さらに転じて、尾張藩領寺部(てらべ)をへて、拳母(ころも)城下にせまった。
情勢を知った岡崎・尾張・拳母の諸藩は連絡をとりあい、一揆の主力を拳母城下におびきよせて、銃火で鎮圧した。
この一揆は前後5日間にわたり、参加村数240、町数7、最盛期の人数は1万2、3千人になったといわれる。
『鴨(かも)の騒立(さわぎだち)』で述べられているように、一揆・打ちこわしの高揚のなかで参加者には、「こざかしい其竹槍は何にすのジャ、世直しの神に向っては、ヨモ働くことはなるまい」という意識が生まれる。
正義は自分たちの側にあるのだとする点で、公儀におそれぬ態度が生じたのである。
この一揆の頭目8人は全員が私領の農民であるにもかかわらず、幕府でのさばきのため江戸に送られ、天保9年閏4月に水野忠邦の意向によって、江戸で処刑された。
 天保期の百姓一揆の爆発的な発生を、安政3、4年ごろに著わされた橋本左内の『為政大要』では、じつに「国家之御大事」と解しているが、このような運動に参加した民衆の側にも、社会の変動に対処して、内面から民衆運動をつうじて、かえていこうとする努力がなされた。
領主の側から恩恵としてあたえられるべき「仁政」を逆手(さかて)にとり、はたすべき義務をはたさないのにたいして、まちがいを正すという主張となってあらわされた。
それが世直しである。
『鴨の騒立』に使用された世直しの用語は、もはや特定の神や人にかぎって、そのような行為を期待するだけでなく、集団による要求や行動をつうじて、社会の秩序の原理の交代をねがうものとして表現されるにいたったのも、この期の特色である。
(『日本の歴史 第22巻 天保改革』津田秀夫 小学館 1975年)