2020年9月27日日曜日

涼しい風が吹いて

涼しい風が吹いていて
枯葉がドサッと落ちているのですが
今年は、酷暑が続いたので紅葉は期待できないのかな?
中国 習主席 新疆ウイグル自治区の統治政策「完全に正しい」〟(NHK)
と主張されているが中国のやり方を見ていると信じられないですよね。
中国 ウイグル族収容施設「不当拘束」批判強まる中 建設継続か〟(NHK 9月24日)

8月12日の記事で『世界 2020年8月号』より 川嶋久人さんの「ウイグル日記(上) 監視下、消えた笑顔」より
ウイグル取材日記、掲載に寄せて」を紹介しましたが
世界 2020年9月号』より「ウイグル日記(下) 抑圧と排除」より2019年7月20日の日記を転記しますφ(..)
ウイグル日記(下) 抑圧と排除 川嶋久人
2019年7月20日
 お土産を頼まれたのでバザールへ行く。
漢族の観光客は多いが、ウイグル人の買い物客は状況が悪化する前に比べるとやはり少ない。
中国政府の抑圧は弱まったように見えるが、それは表面上だけで、実態は去年とほとんど変わらないのではないか。
つまり、強制収容所から出てきた人はほとんどいなく、強制収容される人がまだいるということ。
また、当局による度を越した監視がまだつづいているということだ。
ドライフルーツを計3キロ購入。
(『世界 2020年9月号』岩波書店)
 旧「カシュガル・イスラム教学校」の建物を見に行く。
この1階で商店を営んでいるウイグルの女性に会うためだ。
今回の滞在中に何回か訪れ、今日こそはと思ったが、やはりシャッターが下りていて営業していない。
去年9月に行ったとき、店の近くで彼女に会ったのが最後。
イスラームに敬虔な彼女だったが、そのときはスカーフを巻いていなく、身なりから宗教性や民族性がまったくなくなっていたので、その後彼女がどうしているか気になっていた。
近くを通るのではないかと思い店の前でしばらく待っていたが、通らない。
イスラームに敬虔だっただけに強制収容所に入れられたのではないかと心配になってしまう。
店の前にあるモスクは観光案内所に改装されている。
建物に書かれいたイスラム教学校の名前も消されている。
 現金がなくなったのでATMへ行く。
そこからAさんの奥さんの親戚が住むマンションが見渡せる(「故郷に14年間帰れていない在日ウイグル人」8月号より引用者注)。
改めてAさんの故郷を撮ることができなかったのを悔しく思う。
漢族が経営する酒店で砂漠人参が入っている酒を1本買いホテルに戻る。
(『世界 2020年9月号』岩波書店)
9月27日
 日独伊三国同盟が結ばれた。 1940(昭和15)年

 世界制覇の野望をもつ三つの国のあいだで軍事同盟――日独伊三国同盟の調印は、この日午後1時ベルリンのヒトラー総統官邸で行われた。
ドイツのリッベントロップ外相、イタリアのチアノ外相、日本の来栖(くるす)大使の3人が、赤い表紙の条約正文3冊にそれぞれ署名しあった。
そのあとヒトラーがあらわれ、3人の代表と握手をかわした。
その時日本は夜の8時だった。
国際電話で調印の報告が入ると、外相官邸の祝賀会場では外相松岡洋右(ようすけ)をかこんで「天皇陛下万歳」「ヒトラー総統万歳」「ムソリーニ首相万歳」の声があがった。
 三国同盟の締結は日本と米英との関係を悪化させた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
来月、中国の外相が来日して会談するようですが、どんな話をするのでしょうね
米中対立していて、自国第一主義で大統領選挙のためならなんでもするアメリカと人権抑圧に覇権拡大主義の中国。
以下に引用したように永井荷風のいう「恥辱」的外交をするのか?

B面昭和史 1926-1945』より「わしゃかなわんよう」を転記しますφ(..)
第6話「対米英蘭戦争を決意」したとき――昭和14~16年
 ●「わしゃかなわんよう」


 こうした〝空気〟に乗って、9月23日には軍部は北部仏印に武力進駐をやってのける。
蒋介石軍が頑張れるのは、米英が軍需品などの援助物資を背後から輸送しているからである。
その援蒋ルートの一つに仏領印度支那(現ベトナム)からの仏印ルートがある。
そのルートの全面封鎖のためのやむを得ざる進駐なのであると、国民は当局の説明に即座に納得した。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 翌27日、日独伊三国同盟がそれこそアッという間に調印となった。
近衛がふたたび首相となったとき、彼の頭にあるのは三国同盟と政治新体制の二つの問題だけ、そのほかは馬の耳に念仏であった、といわれていたその二つの目的の一つが成就したことになる。
が、あに近衛のみならんや。
新聞各紙も大歓迎した。
朝日新聞の28日付社説は「誠に欣快(きんかい)に堪えざるところである」と手放しで喜び、「いまぞ成れり〝歴史の誓〟/万歳の怒涛」などと特大の活字でその意義を伝えている。
そしてこの日、同盟締結に関する詔書がでて、
 「大義を八紘に宣揚(せんよう)し、坤輿(こんよ)を一宇たらしむるは、実に皇祖皇宗の大訓にして、朕(ちん)が夙夜(しゅくや)、眷々措(けんけんお)かざる所なり。……」
 と、天皇もまた、同盟に賛意を表しているのである。
 ところで、29日、作家野上弥生子は日記にこんな不敵な文字をかきつけている。
 「英米の代りに独伊というダンナをもちになって、十年後にはどんな目に逢うか。国民こそいい面(つら)の皮である」
 永井荷風の9月28日の日記も、いやはや、あっぱれである。
 「愛国者は常に言えり、日本には世界無類の日本精神なるものあり、外国の真似をするに及ばずと、然るに自ら辞を低くし腰を屈して、侵略不仁の国と盟約をなす、国家の恥辱之(これ)より大なるは無し、(以下略)」
 こうした人がいることはいた。
しかし、もはやほんのひと握りしかいなかった。
国民の多くはだれも「国家の恥辱」なんて思ってもみなかった。
 そして新体制運動の中核とされた大政翼賛会は10月12日に発足する。
会の目的は、実践要綱によれば「上意下達・下情上通を図り、もって高度国防国家体制の実現に努む」ということであった。
 高度国防国家体制をつくる、さてさてそれにはまず「産めよ殖やせよ」、というわけではないが、10月19日、厚生省が全国の子宝隊(優良多子家庭)を表彰すべく、選ばれた1万336家庭の名簿を発表する。
このニュースを伝える新聞の見出しが「出たゾ、興亜の子宝部隊長」ときた。
その人は長崎県庁の総務部長の白戸半次郎さん。
なんと男10人、女6人を育ている(わたくしの長岡中学の同級生に15人兄妹の末ッ子がいた。残念! 一人足らなかったのか)。
 この白戸さんを筆頭に表彰されるのは満6歳の子10人以上の家庭で、しかも父母が善良な臣民の条件を兼ね備えていること。
これに目出たくパスした家庭は北海道が978人、以下鹿児島県541、静岡県444、最低は鳥取県の39。
 いまの日本の大問題の一つ少子化を考えるにつけ、戦前の国策をもちだすわけではないが、「産めよ殖やせよ! 国のため」というスローガンがなつかしくもある。
とにかく昔のお父さんお母さんは、国の将来のため、頑張ったんであるな。
このスローガンが前年に厚生省発表の「結婚十訓」に依拠するものであったことは、すでにふれたとおり、高度国防国家建設という国策のために、人口をふやすことは大事であったのである。
そういえば「一億一心」という官制標語もこの年につくられている。
この一億には朝鮮、台湾、樺太(からふと)などの植民地の人口もふくむ。
この年10月1日の国勢調査では日本内地の人口は7千3百万人強。
それゆえの子宝隊表彰であり、「結婚十訓」であったのである。
 あとB面的な話題は、といっても、体制翼賛という大義名分が大手をふるい、規則ずくめの世となってはそんなに多く見つけることはできない。
10月20日、日本野球連盟が監督・選手・マネジャーをそれぞれ教士・戦士・秘書と改称することをきめる。
同27日、戸田ボートコースが竣工する。
全長2千4百メートル、幅70メートル。
ほんとうはこの年に開催されるはずだった東京オリンピックのレース会場、となる予定であったのである。
同31日、外国名のタバコ「ゴールデン・バッド」が「金鵄(きんし)」、「チェリー」が「桜」に改名される。
 左様、この10月31日は日本じゅうのダンスホールが完全に閉鎖された日となった。
東京では10のホールがあって、ダンサー361名、楽士109名が職を失った。
最後の夜はどこも超満員。
やけっぱちでハシゴするものも多かったとか。
いよいよラストで、ワルツの「蛍の光」が演奏されたとき、ホールのあちこちですすり泣く声が高くなった。
 「くだらねえ、権力で抑えつけるなんて」
 歌手の三根耕一(ディック・ミネ)が隅のほうで口惜(くや)しそうにいった。
 そして11月10日、紀元2600年の大祝典が宮城外苑で盛大に挙行される。
戦前の日本の最大のお祭りであったが、わたくしにはあまり記憶に残っていない。
奉祝の花電車を見にいったことと、「金鵄かがやく日本の、栄えある光身に受けて、今こそ祝えこの朝(あした)、紀元は二千六百年」の祝歌なんかどうでもよく、「金鵄上がって十五銭、はえある光三十銭、鵬翼(ほうよく)高い五十銭、紀元は二千六百年」とタバコ値上げの替え歌をしきに歌って、晴れ晴れしい顔をした在郷軍人のおっさんにゴツンとやられた覚えだけが残っている。
 11月24日、元老西園寺公望が世を去った。
享年91。
日独伊三国同盟が結ばれたとき、「これで日本は滅びるだろう。お前たちは畳の上で死ねないことになった。その覚悟をいまからしておけ」と側近にしみじみと嘆いたという。
その言葉だけは、やはりかきとめておきたい。
 当時の国民には、西園寺のそんな憂いなどが伝えられるわけはない。
日本が亡びるとは思ってもみないことである。
もっぱり大人も子供もひそかに口にしていたのはこの流行語。
 「あのねェ、おっさん、わしゃかなわんよう」
 もとは喜劇俳優の高勢実乗(たかせみのる)が、チョンマゲにチョビヒゲ、目の回りに墨をぬって、スクリーンで頓狂(とんきょう)な声で叫んだセリフである。
とにかくやたらに重苦しくなっていく時代。
取締りだけがきびしいときに「わしゃかなわんよう」と悲鳴をあげることが、一部の民草には一服の清涼剤となっていたのであろう。
 しかし、これすらも9月に、皇道精神に反するとして禁止命令が下される。
悪ガキは心底からガッカリした。
でも、だからこそ、時々「わしゃかなわんよう」とやっていた。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)/
母と歩いていた時、この場所のハナミズキの紅葉が綺麗だった年がありました。
それ以後、母が「今年のハナミズキは色が悪いね…」とよく言っていました。
父が「ハナミズキの色はよくないなぁ」と呟いていました。
酷暑で雨不足の年は、紅葉になる前に茶色になりますね…