2019年6月11日火曜日

梅雨空のような…

おなじみさんと東京などは梅雨入りしたのに
大阪はまだなんですねと
今にも降り出しそうな空を見上げながら話していました。
この時期に問題になるのが…
便利な“ビニール傘” その現状」(NHK)
梅雨入り
梅雨に入ること。
その平均の日付は、那覇で5月11日、鹿児島6月2日、大阪6月8日、
東京6月9日、新潟・仙台6月12日、青森6月14日。

  家中に夫の沈黙梅雨に入る  加藤千世子
(『雨のことば辞典』倉嶋厚・原田稔編著
    講談社学術文庫 2014年)

梅雨の時期、一番困るのは洗濯物…
乾きやすい干し方」(小学校家庭科)
という動画があります(2分40秒ほど)
すでに実践しているとは思いますが(^^ゞ
永井路子さんの
関が原合戦・もう一つの謎
 ――北政所はなぜ大坂方に味方しなかったか?
の続きを転記しますφ(..)
おねねの抱えた隠し弾丸(だま)
 こうした正妻と側室の反目は、江戸時代にはざらにあった。
こんなときは敗けたほうは、
せいぜいお化けになって相手にとりつくぐらいしかできないが、
ここに関ケ原合戦という大事件が起った。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
  永井路子 PHP研究所 1992年)
 表面は石田三成対徳川家康の対決だが、
これが豊臣、徳川の決戦であることは前にも触れておいた。
このとき、京都にいるおねねは、静観を続けているようにみえる。
これについても、
「豊臣氏であるおねねが、
 なぜ大坂城と心をあわせて徳川方と戦わなかったのか」
 という批難がある。
今までの経緯を見れば、
とうてい淀どのに与(くみ)することなどできなかったのはあきらかだが、
そのほかに、おねねに対しては、
「もう過去の人だから、どちらにも相手にされなかったのさ」
 という見かたがある。
 しかし、これはとんでもない誤解だ。
無力な未亡人どころか、
おねねは、強力な隠し弾丸を抱えていたし、
その時限爆弾をタイミングよく爆発させて、
決定的に合戦の勝敗を左右している。
 その隠し弾丸とは、小早川秀秋(こばやかわひであき)――。
と書けば、もう説明はいらないだろう。
あの合戦のさなか、西軍に属しながら、
史上有名な裏切りをやってのけた秀秋は、
じつはおねねの甥なのである。
いや、単なる甥ではない。
じつは長い間おねねの養子にもなっていた、
最も身近な縁者だった。
 秀秋はおねねの実兄、木下家定(きのしたいえさだ)の五男で、
子のないおねねに早くから養われ、さらに秀吉の養子になり、
そのころは木下秀俊と名乗っていた。
秀吉も彼をかわいがり、七歳で侍従、
やがて右衛門督(うえもんのかみ)へと破格の昇進をさせている。
「金吾(きんご)、けなげにや。(秀俊は元気か)」
 と書いた手紙も残っている。
金吾というのは右衛門督の中国ふうの呼び名である。
  ――いずれ秀吉公の後を継ぐお方。
 周囲の誰もがそう思い、
秀秋自身もいい気になっていたようなところがある。
ところが淀どのが身ごもったあたりから、彼の運命は狂いはじめる。
鶴松の死、それに代わって秀吉の甥の秀次の関白就任、
秀頼の誕生、秀次の失脚等々、事態はめまぐるしく変転するが、
秀頼誕生によって、
秀秋が完全に邪魔ものになったことだけはまちがいない。
 そこに目をつけた、すさまじい目ききがいた。
小早川隆景(たかかげ)である。
「子のない私どもに、秀秋さまを」
 大喜びで秀吉は彼に秀秋を押しつける。
これまで、秀吉が毛利の本家に秀秋を入れようとしていたので、
隆景が身代わりに立って本家を守った、
という評価しかされていないが、
むしろ、邪魔もの秀秋をひきとって秀吉に恩を売りつけた
隆景の駆引きこそ注目すべきなのである。
 が、秀秋自身にとっては不本意きわまる決定だった。
天下人になるはずのところを、
筑前、筑後、肥後の三十三万石に格下げされてしまったのだから、
煮えくりかえる思いを鎮めることはできなかったろう。
 かくて彼は関白候補の座を追いだされたのだ。
ゆくゆくは天下第一の有名会社の大社長を夢みていたのに、
地方の三流会社の社長で満足しろとは……

 おねねとしても、秀秋がふびんでならない。
この両者は心を寄せあい、不遇を慰めあう。
そこへ起こったのが関ケ原の合戦だ。
 ――チャンスだ!
 二人がうなずきあったのも無理はない。
その証拠に、大坂方から出陣を命じられた秀秋は、
しばらく京都でぐずぐずし、
おねねとじっくり打ちあわせをしている。
いわば彼女こそ、秀秋という爆弾に、
時限装置を仕掛けた張本人なのだ。
 後にも触れるつもりだが、大坂退却前後から、
彼女は家康と密接な関係を続けている。
このときも秀秋裏切りの密計は、ちゃんと家康に連絡ずみだった。
彼女は多分、秀秋に、
「落着いておやり、せいてはいけませんよ」
 くらいの知恵は授けたことだろう。
秀秋がなかなか動かないので、家康が顔色を変え、
「小僧めに謀られたか」
 さては裏切りの裏切りか、爪を嚙んだというのは、
そのせいであろうか。
秀吉とともに戦国の修羅を駆けぬけたおねねであれば、
裏切りをいかに高く売りつけるか、
その間の駆引きには秀秋などの及びもつかないところがある。
裏切りの軍師は、やはり、おねねなのである。
 秀秋の裏切りによって家康は勝機を摑んだ。
そして家康以上に、おねねは淀どのへの復讐戦に勝利したのである。
秀秋だけではない。
昔からなじみの加藤清正や福島正則は、
みなおねねに同調する姿勢をしめしている。
その人脈のひろがりを思えば、
関ケ原合戦の鍵を握ったのはおねね、といえるだろう。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
  永井路子 PHP研究所 1992年)
続きは後日転記しますφ(..)