久しぶりにやって来ました。先月、石清水八幡宮から案内が来ていて、父がお参りしたいというのでやって来ました。
誕生日は、明日ですが、電車の乗客が少ない日曜日にお詣りすることにしました。ノキシノブ(軒忍)は石垣などに生えているのをよくみるけど、灯籠にも生えているんだ。なんか違和感がないですか?
お聞きするとコロナ対策で柄杓を置いていないそうです。宇佐宮(うさのみや)の春朝(はるのあした)には、
憐愍撫育(れんみんぶいく)の霞遍(かすみあまね)く燾(おほ)ひ、
石清水(いわしみづ)の秋の夕(ゆうべ)、
和光利物(わくわうりもつ)の月遥(はるか)に照(てら)す。
久我長通(こがながみち)
【意味】
宇佐宮の春の朝、即ち旧暦二月上卯日、宇佐の地に八幡大神が初めて示現された御縁日(現在は新暦三月十八日に同宮例祭、十年に一度勅祭として斎行)には、衆生を憐み大切に育ててくれる恵みの春霞が遍く大地を覆い、石清水八幡宮の秋の夕べ、即ち旧暦八月十五日、石清水放生会の神事が始まる頃(現在は新暦九月十五日に勅祭石清水祭として斎行)には、中秋の名月が遥かな高みから地上を照らす。
真夏の太陽は世俗の塵にまみれた我々にとって眩しすぎるが、それを程よく和らげたような満月の光は、正に生きとし生けるものを慈しみ給う八幡大神=大菩薩の御眼差しそのものと拝することができよう。
【出典】
『八幡講式』(『石清水八幡宮史料叢書 四』所収)より久我長通 弘安3年(1280)~文和2年=正平8年(1353)。
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。
従一位太政大臣に昇り、後中院太政大臣と称された。
久我家は村上源氏の嫡流で、源氏一門を代表する源氏長者の地位をも占めるに至った。
緒源氏の中でも特に八幡神を敬うこと篤く、同家において八幡大神の功徳を讃仰する八幡講式という儀式も整えられた。
ここに掲げたのは、久我長通作と伝わる全五段に及ぶ式次第中、第一段で唱えられた表白文の一節である。
神職のみなさんが台風対策に忙しそうに働いておられました。
テントも片付けておられた。 謹 告
当宮では、平成30年秋、台風21号の暴風による御屋根の損傷を受け、若宮社並びに若宮殿社の御神霊をお遷し申し上げた後、檜皮葺御屋根の全面的葺替え及び御調度品類の新調等、一年余に亙る御修復工事を進めて参りましたところ、去る令和2年4月26日正遷座祭を斎行し、両社御神霊には夫々の御殿に無事お還り戴きました。
この間、崇敬各位には温かいご理解とご協力を賜りましたこと改めまして厚く御礼申し上げる次第でございます。
尚、「平成・令和の大修造」事業は、今後とも左記の通り引き続き取り進めて参りたく存じますので、何とぞ相変わりませぬご支援ご奉賛を賜りますようお願い申し上げます。
石清水八幡宮 記
一、これからの大修造事業
〇御本殿防災設備改修事業 工期 令和元年~令和3年(予定)
〇狩尾神社修理事業 工期 令和3年~令和5年(予定)
〇文化財収蔵庫新設事業 工期 令和5年~令和8年(予定)
鬼門封じ(赤の←)
牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅(東北)の方角「鬼門」を封じるために、御本殿の石垣を斜めに切り取った造りになっています。信長塀(赤の←)
織田信長が天正8年(1580)に寄進した土塀。
塼(せん<瓦>)と土を幾重にも重ねているため耐火性、耐久性に優れており、御本殿を囲むように築かれています。
御神木「楠」
楠木正成公が建武元年(1334)に必勝を祈願して奉納した楠と伝えられています。
樹齢は約700年、京都府の天然記念物に指定されています。
台風10号は近畿を直撃しないようですが、あれだけ大型の台風。
甘く見ると大変なことになると思います。
父は、田舎の親戚のみなさんが無事であるように祈っていました。いつもは、父と別れて寄り道をするのですが、一緒に帰宅しました。
明日から100分de名著「デフォー ペストの記憶」が始まります。
まだ、読んでいる途中ですが、
「ここに現れる人間たちの姿を見ると、現代の私たちとあまりに重なる点が多く、驚かずにはいられません。」(プロデューサーAのおもわく)
とあるように興味深い話が聞けます。
新美の巨人たちの
〝フェルメール『ヴァージナルの前に座る若い女性』×酒井美紀〟
初めて気がついたのは、フェルメールが活躍した時代もペストが人々を恐怖におとしいれていたんだ。